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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 三都物語・世界のスラム街  
コラム名: 旅日記 地球の裏読み  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2003/08  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   世界はいつから不平等になったのか。原始時代、人間が家族単位で、それぞれ穴居生活を営んでいたころは、貧富の差もなく、すべて平等だったという。18世紀の思想家、ルソーの「人間不平等起源論」にはそう書かれている。やがて集落が形成され、貨幣が生れると、富める者と貧しき者が発生、さらに集落が都市に発展すると、不平等がますます拡大した。

 スラム(SLUM)とはルソー流に言うなら「人間不平等」の集大成である都市の中の貧民街のことだ。都市の起源は紀元前にさかのぼるが、産業革命以降、大きな都市の中には必ずといっていいほど、スラムが発生した。貧者だけでなく、異民族など大都市の中の少数派が、都市社会の淘汰作用からのがれるため集団化し、お互いに防衛のために結集する。それが世界のスラム街の起源だ。このシリーズは、「地球の裏読み」と銘打った旅行記だから、一度は都市の裏側であるスラムを書こうと思っていた。この10年間、私は世界の約150の都市を訪れたが、以下は、その中の3つの都市でみた、3つのスラムの風景である。


1.全てはアラーの御身元に(カイロ)

 エジプトと聞いて、人々は何をイメージするか。ギザのピラミッド、ナイル川沿いの神殿、王家の谷のツタンカーメン、といったところだろう。これらはいづれもファラオ(古代エジプト王の称号)時代の文明だ。だが、エジプトは、ファラオ、ギリシャ・ローマ、そして中世のアラブといった3つの異なる文明が重ね餅になった世界有数の観光地なのだ。

 そもそもカイロとは、7世紀、エジプトを征服したアラブ・イスラム軍が建設した都市で、名前の由来は、アラビア語の勝利者、「カーヒラ」をイタリア語読みしたのが「カイロ」とのことだ。だからイスラム抜きで、エジプトとりわけカイロをイメージするのは本当は気の抜けたビールみたいなものなのだが、たいていの観光客はそれですませている。

 ナイル川の東側のそのまた東側の半分がカイロの最も古い市街、イスラム地区である。ここに「死者の町」と呼ばれる大スラム街がある。全長1.5キロ、幅1キロ、正式の名称は北の墓地という。2003年6月。何度目かのエジプト訪問のついでに、ここを訪ねた。案内してくれたのは、カイロ・アメリカン大学でイスラム美術を教えるバーナード・オケイン教授だった。そもそもスラムの立地とは私の観察によれば停滞して活気のない地区、つまり場所の悪いところで、しかも都市の便益の良いところに集中している。橋の下、河川敷、低湿地、駅の裏側、そして火葬場付近や、墓地の周辺である。それが、グローバル・スタンダードだ。

 だが、この町に足を踏み入れて驚いた。よその国々のスラムのようにお墓のそばに人々が住んでいるのではなく、多くの生身の人間が、お墓の建造物の中で、埋葬された白骨かミイラになっている筈の遺体と一緒に生活している。ここのスラム化が始まったのは1960年代だが、墓地そのものの由来は14世紀にさかのぼる。城壁で囲まれたイスラムの旧市街の中で、年々増加する墓地の需要に、用地の供給が追いつかなくなり、時の為政者、スルタン・マムルクが、新規の墓を城外の砂漠に建設することを決定、それが北の墓地となった。

 「イスラムには火葬の習慣がない」から、お墓の土地が沢山必要です」とオケイン教授。イスラムは、キリスト教同様、神の裁きを受ける最後の審判の日までは、お墓の中で遺体の形で待機しなくてはならないのだ。

 「それはわかる。でも、イスラムには死者と一緒にお墓の建物で過ごす習慣があるのか」と私。オケイン教授の解説が面白かった。

 「イスラムにはない。古代エジプトのファラオの習慣と思う。ファラオの時代、エジプト人たちは、この世とあの世は連結しているものと考えていた。昔から先祖の墓に泊りがけで出かける習慣があった、そこで生きている人間たちは祖先と対話し、あの世を想像した」とのことだ。

 14世紀以降、この地に建設された数百にのぼる墓は大きく、かつ豪華だった。家族の宿泊する部屋はもちろんのこと、中庭や従者の控室や、馬小屋つきのものまであった。イスラムの休日の前日の木曜に出かけ、1泊する人々が多かった。やがて、付近の道路には電気やガス、水道もひかれた。

 カイロは世界有数の人口集中都市である。人口の集中の背景には、出生率の高さと農村の過剰人口にある。これに70年代にはじまるこの国の経済の門戸開放と産油国への出稼ぎによる人口の流動化が、カイロの人口爆発を招いた。田舎からカイロに流入した労働者やホームレスがこれに目をつけないわけがない。

 最初は、墓の持主に交渉して、仮りの住居にさせてもらっていたが、その後、不法占拠者がどっと押し寄せ、墓地の上の丘にも堀立小屋が建ち、人口2万人の死者の町が出来あがったという。この町の中には、由緒あるイスラムのモスク(礼拝所)やミナレット(光塔)がいくつも立ち並び、信仰と居住が居ながらにして両立するムスリムにとっては、超一級のスラムだ。コーランにある「全てはアラーの御身元に」とは、まさにこのことではないか。


2.眺望絶佳(リオデジャネイロ)

 1997年、ブラジルのリオデジャネイロを訪れたときの話である。宿泊先のシェラトンホテルの部屋からみた夜景は見事だった。正面にはレブロン海岸が広がり、ヤシの葉越しに漁り火が見える。右手には山があり、山の傾斜には電灯の光が一面に散りばめられていた。昼間、その山から海を眺めたら、まさしく眺望絶佳、私は神戸の六甲山麗に匹敵する高級住宅地と値ぶみしたのだ。

 ところが、一夜明けて翌朝、太陽の光のもとで見たこの山の傾斜にはレンガ造りの家々が緑の樹海に包まれて、びっしりと建っていた。2階、3階建ての住宅もあるが思いのほか小さい。庭らしきものも見えるが、これがいかにも狭い。しかも山頂に近づくほど家が小さくなる。視界が遠くなるから小さく見えるのではなく、実際に小さいのだ。こんな超一等地に密集するみすぼらしい建物群、いったいこれは何なのか?

 ブラジル人の実業家がニヤッと笑って、教えてくれた。「あれはファベーラだよ。英語でいうとシャック(Shack)だ。」Shackは掘立小屋のことであり、てっとり早くいえば、スラム。それもRocinha(ホシーニャ)という地名をもつ、ブラジル一の大スラム街だった。

 元ヴァリグ・ブラジル航空の職員で現地人の妻をもつ清水さんに案内を頼んだら、「危ないから、あの山に入ってはいけません」とたしなめられた。そのかわり山腹のすぐ下を通る道をゆっくりと車で走ってもらった。自動車道路の両側には、スーパーマーケットがあったり、安食堂、飲み屋もある。大きな間口の肉屋には、豚の足、シッポ、耳や臓モツが並んでいた。すべてお客は山の急傾斜のスラムの住人たちだ。「このスラムは、1等から3等まで3つのクラスがある。この道路に近い下方は、1等地で、スラムの親分たちや、定職をもつ労働者たちが住んでいる」と清水さん。水は雨水を貯め、火はプロパンガスのボンベ、フロは盗電した電気でわかす。

 「住宅売ります」の看板があった。一戸当り1等地で3000ドル、山頂付近は徒歩で30分も登るので1000ドル程度だそうだ。清水さんはいう。

 1980年にローマ法皇がこのスラムを訪問し、ホシーニャ・スラムは世界的な名所になりまして…。その時、法皇は群集の中の1人の男に金の指輪をはずして与えたんです」

 だが、その男は翌日から姿が見えなくなった。指輪をもってスラムを脱出したのか、それとも消されてしまったのか。今もってわかっていない。

 このスラムの親分たちは羽振りがよい。主たる収入源は私設ギャンブルの胴元である。ブラジルのサッカー・クジは有名だが、賭け金の70%を発行元の大蔵省が取ってしまうので、1等賞金は高くても、全体としてのリターンが悪い。そこに目をつけたのが、スラムのボスたちで、ロットという1から100までの数字合わせのクジを開発し、道端で販売、夕方には当選番号を発表して払い戻しをする。賭けのリターン率は、国営のサッカー・クジより高いので庶民に人気がある。取り締りの警官も、ビンゴの番号に熱中する。スラムの住人は、日雇い労働者、メード、ゴルフ場のキャディ、ヤクザなどマチマチだが、定職をもつ給料取りも大勢いる。身分を隠して、警官や税務署員が住人になるケースもある。情報収集のためのスパイ活動ではなく、経済的理由からである。事件現場に出動した姿がたまたまTV画面に映ってしまったため、身分がばれて、殺された不運な警官もあったという。

 この山上のスラム、いったいどういういきさつで、いつごろから発生したのか。本屋で英文の面白い本を見つけた。米国の社会学者の書いた『ブラジル人』という本。

 「ホシーニャは1920年代、山のふもとには小さな農地があり、そこに静かな住宅地があった。ところが50年代、リオの持たざる人々がイパネマや、コパカパーナの超一級地を見下ろす、この山に目をつけ、空地を不法占拠して掘立小屋を造り始めた。10年後には、山の頂上にまで爆発的に拡大していった」とある。


3.「ファッ、ファー」(マニラ)

 2003年の春のことだ。フィリピンの首都マニラの旧市内から副都心のマカティに行く途中、異様な光景に出合った。眼下の鉄道線路をはさんで両側に堀立小屋が並び、列車が軒先すれすれに徐行運転している。上り、下り2本の軌道の間には、細長いテーブルやイスが置かれ、小屋の住人たちが自宅の庭代わりに利用している。軌道上にはトロッコもどきの乗り物が置かれ、人々が群がっている。一瞬、目を疑った。

 「いったいあれは何だ?」

 「あそこは全長3キロ、幅30メートルという世界で一番細長い貧民街よ。TVの連続ホームドラマの舞台にもなった。Home Along the Rail(線路沿いの我が家)というドラマの題名を知らないマニラ市民はいない」マニラ在住で大統領府事務次官を夫にもつ穴田久美子さんが教えてくれた。

 後日、探訪に出かけた。現場は始発駅マニラ市タユマンから15キロのフィリピン国鉄南方線の鉄路だった。トロッコもどきに見えた物体は、スラム住人の手製による正真正銘のトロッコだった。車輪は廃品回収で集めたトラックのベアリングだ。タタミ1畳分ほどの台車は板と竹製、ベアリングをはめ込んだ鋼鉄製の車輌がこれに取りつけてある。

 なぜこんなものが、国鉄の線路上を往来しているのか。理由はすぐ分かった。20年も前から不法占拠の掘立小屋が付近の鉄道脇に存在していた。そして目の前が庶民の足ジプニー溜り場になった。ところが数年前、高速道路の建設で、線路の反対側に通ずる大通りが閉鎖されてしまった。割りを食ったジプニーの乗客たちは、軌道上を1キロも歩いて別の大通りまで歩かされることになった。これを毎日眺めていたスラムの住人たちにアイデアが閃いた。

 「列車運航の合い間に国鉄の線路の上で、トロッコによる有料運送業をやったら儲かるのでは……」と。かくして、国鉄の線路上に、民営スラム鉄道が誕生した。

 客待ちのトロッコが2台ほど軌道上にたむろしている。乗務員は2人のスラム住人。「この先1キロの地点にある踏切まで1人4ペソだが、8人揃うまで待て」というのを制して、往復100ペソ(220円)で1台チャーターした。

 出発進行。2人のカゴカキならぬ乗務員のオジさんは、片足で枕木を蹴ってトロッコを漕ぎ始めた。時速8〜10キロ。ジョギングのスピードだ。線路すれすれに軒をつらねる昼下かりのスラム小屋。人々の暮らしぶりが興味深い。

 洗濯する若い女性、プロパンガスボンベ炊事する老婆、奥で寝そべりながらTVを見る夫とおぼしき男。ホースで水を流したたきを清掃する主婦らしき女性、女は働き、男はブラブラが東南アジアの風習だ。犬、ネコ、ニワトリを飼っている家、ペットボトルを植木鉢代りに、花や観葉植物を楽しむ家もある。

 上下線の軌道の間には、5メートルほどの空間がある。ここには雑貨屋の屋台あり、チェス盤をいくつもおいたテーブルあり、青空簡易食堂あり、闘鶏場まで常設されていた。「ファッ、ファー」。前方から警笛の音が近づいてきた。本物の列車の到来だ。トロッコ漕ぎのオジサンは落ち着き払って車を停止させた。「降りて。通過するまで、反対側の線路で待っていろ」と我々に指示する線路上のトロッコの運命やいかに? トロッコは軽量でポータブルだ。2人は軽々と車体をかつぎ上げ線路脇に。ディーゼル機関車にひかれた4両編成の本物の列車がやってきた。警笛を鳴らしっぱなしで最徐行する。よくよく見たら昔の日本国鉄の特急車両だった。だが時速は10キロ。こんなにゆっくりでは、30年前の老朽車両とはいえ、特急の名折れではないか。

 「この人たち、強制移転させられないの」穴田さんに聞いてみた。

 「何千人分のスラム住人用のアパートを政府が田舎に用意したんだけど、そんなに遠いところに移ったら、廃品回収とか、屋台の店の経営とか、行商とか、あの人たちの正業が営めなくなるとかで、立ち退かないんです。それに線路の不法占拠は家賃がタダだから」

 マニラの首都圏には、このスラムも含めて鉄路の不法占拠者が、5万人もいるという。
 



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