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『日本財団』に入る以前は約10年『赤十字』でルワンダ、コソボ等での緊急救援やアジア諸国での開発協力のプロジェクトに取り組んでいた斎藤氏。頻繁にフィールドで仕事をし、その面白さを十分知っている斎藤氏が、海外協力に関わる団体としては、言って見れば反対の、助成する側である『日本財団』に移行したのはなぜか? また助成団体である『日本財団』がなぜ初の現地駐在員としてミャンマーに職員を置くことになったのか? 財団初の現地駐在員として、月の約半分をヤンゴン、残りの半分をフィールドである南シャン州と北シャン州に出て活躍していらっしゃる斎藤氏。
地元住民と一緒になって進めている『日本財団』のミャンマーにおける新規プロジェクトとは何か?
今回は、相互に逆の側にある国際援助関連団体で働く経験をもち、どちらの立場も理解し得る斎藤氏に国際協力について、そしてミャンマーにおける活動について語っていただきました。
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??初来緬はいつ頃でしょうか。また『日本財団』が現地駐在員を置くことにしたのはなぜなのでしょうか?
斎藤 「初来緬は1996年です。『赤十字』の援助の仕事の関連で訪れました。『日本財団』として来緬したのは昨年(2002年)の6月です。助成団体である『日本財団』は今まで海外には事務所がありませんでした。しかし、今回ミャンマーで行おうとしているプロジェクトは、政府との交渉事やもろもろで、「お金だけ出して、あとは人任せ」という姿勢では事業実施は困難と判断し、初の駐在員を置くことになりました。そしてなぜか私が選ばれることになったんです。そもそも助成団体でありますから、海外フィールド経験がある方はほかにいらっしゃらなかったことが私が選ばれた理由かもしれません。」
??では実際にミャンマーで行われているプロジェクトについてお話願えますか。
斎藤 「私が来緬すると同時に財団としては大きなプロジェクトがスタートしました。
ミャンマーのシャン州に5年間で100校の学校(校舎)を建設するという計画です。100校とお聞きになるとずいぶん多いと思われるかもしれませんが、この国全体としてのニーズは何千、何万とあるのですから、100校でもまだまだと言えるでしょう。まず、初年度(2002年6月〜2003年5月)はタウンジーを中心とした南シャン州に6校、ラショーを中心とした北シャン州に4校の計10校で校舎を建設。2年度以降は年間30校ずつ建てていく計画でおります。第1校目は2003年2月10日にタウンジー市から車で約20分ほど行ったところで、無事に落成式が行われました。」
??たくさんある地域の中からなぜシャン州を選んだのですか。
斎藤 「社会インフラ整備の送れている少数民族地域でやりたかったんです。これまでに日本財団はペルーやカンボジアでも学校建設プロジェクトを助成したことがありますが、カンボジアでは辺境の旧ポルポト派支配地域で建設をしました。ミャンマーの場合、社会インフラの充実が少数民族地域の人々の生活を安定させ、それが最終的には国の民主化に資するという考えで、先ずはシャン州を選んだというわけです。」
??このプロジェクトはどのように進めていらっしゃるのですか。
斎藤 「事業の発案者であり資金を提供する『日本財団』、現場での事業実施を担うNGOの『SAETAR』、ミャンマー政府側のカウンターパートとしての『国境地域少数民族発展省(Na Ta La)』の3者のパートナーシップによってプロジェクトは進んでいます。資金協力団体としての私どもは、なにか問題や障害が発生したときにそれを解決することはもちろんですが、互いがよきパートナーとなり、事業について共に考え、実施していくことが重要であると考えております。『日本財団』というと、お金だけ出している団体と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、このプロジェクトのように、かなり積極的に関わりを持つ場合もあります。
??それではプロジェクトの内容を詳しくお聞かせ願えますか。
斎藤 「主に小学校の校舎の建設となります。全然学校のないところに新たな学校を作ると言うよりかは、既存の校舎が老朽化したり、生徒数が増えたため教室が足りなくなった学校で校舎を新築、増設するケースが殆どです。
そもそも小学校のない場所で新設校を建設することも考えられないわけではありません。ただ、小学校さえないというところは世帯数の少ない余程の辺境地域であったり、子供を学校になど通わせる余裕もない生活をしていたり、政情不安定な地域であるとか、我々が容易に入っていけないところになってしまいます。仮にそういうところに学校を建てたとしても、社会経済的理由から子供が通学できる状況でなく、地域として学校という、“システム”を活用する用意が出来ていません。そうなると新しい学校を作ったということだけで終わってしまい、学校が有効利用されなければ意味がありません。我々は校舎を建設することで終わらせる気は毛頭なく、校舎建設を入口として村の開発や活性化、つまり、村おこしのようなものを考えているのです。それでこそ建設された校舎が活きてくるのです。」
??具体的にはどのように村の開発につなげていくのですか。
斎藤 「少数民族地域では、教育省が予算の問題で十分な数の教員を派遣できないというミャンマー全土的な問題に加えて、地理的に辺鄙なところにあるとか言葉の問題から、生徒に対する教員の数が絶対的に不足しているんです。教室が不足している小学校も数多くあります。また子供達が畑仕事の手伝いや幼い兄弟達の面倒などで忙しくて学校に通えないという現実もあります。そういった状況で、どうやって学校、そして村を活性させていくか?
このプロジェクトは学校を作るというハードな部分に加え、その学校の運営をサポートするためのシステム作りというソフトな部分も持ち合わせているのが特徴です。まず、既存の学校の先生方や生徒の保護者、村長さんなど村の有力者に学校建設委員会なるものを作っていただき、この委員会が自ら大工や左官を雇い、建設の施工管理を行います。基礎工事のための整地、砂、砂利、木材等の資材の調達や運搬などには、住民が労働を提供します。こうした「住民参加」により、村人一人一人にプロジェクトに対するオーナーシップが生まれます。従って、建設会社を雇って工事を任せっきりにするような事はしません。住民参加がないと、村人の依存心だけが高まり、「意識の開発」という観点からは逆効果だからです。また、業者に任せてしまうと、建設工程で手抜きが見られることが多いので、それを防ぐこともできます。
村人が提供してくれた労働は、賃金換算をして村の基金として積み立てます。そしてこの基金を初動経費(シード・マネー)として、私たちが提供する効果的・効率的な技術を使って学校農園や養豚、小規模水力発電などの収益プロジェクトを展開します。この収益をまた基金に戻し、それを学校の運営資金として新しい先生を雇ったり、施設・備品を充実させたりできるというわけです。また、堆肥の作り方や養豚のノウハウは、村人たちも一緒に学び、自分のために利用できる技術でもあり、彼らの収入も上がります。こうして住民参加による意識の向上、収入の向上が、村の活性化につながります。またそれでこそ、建設された学校が活かされてくるというわけです。」
??どこの住民も快く参加するのですか?
斎藤 「どこの住民も参加意識が高いかと言うとそうではありません。やはり、村によってはやる気のない村もあります。そうした村でこのプロジェクトを進めてもうまくいかないので、はじめから対象にしません。しかし、本当はそういった村こそ開発のニーズがあるとも言えるんですがね。でもそういった村でこのプロジェクトを実施しても、ハードとしての校舎が残るだけで、村人の依存心を高めただけになってしまうリスクがあります。そうなってしまうと、たとえば次にどこかの団体がなにかを援助に来たりすると、「さて、今度は何がもらえるのかな?下さいな。」となってしまうわけです。開発協力をしていく上でのジレンマでもあるのですが、ある意味で一番困っている人々に手を差し伸べることを、長期的な視点から十分に責任を果たせる形で海外の援助団体が行うことは、容易ではありません。本来それは、その国の当局が社会的セーフティー・ネットとして構築すべきシステムです。」
??それでは今のミャンマーに必要なこととはどんなことでしょうか?
斎藤 「そうですね、小学生から成人にいたるまで、また民間・政府といった立場も様々な人たちを対象とした、人材開発でしょうか。国づくりに取り組んでいるミャンマーで社会システムを改善するためには、資金のみではヅメで、人材が絶対的に必要です。人材の向上は、資金調達の促進につながります。そして、その資金を有効に使うにも、優秀な人材が必要です。結局のところ、物事がうまく運ぶかどうかは、突きつめていけば最後には人にたどり着くのではないでしょうか? 海外からこの国に来て仕事をしてらっしゃる方々は、営利であれ非営利であれ、仕事の種類こそ違っても、ミャンマーの人たちと一緒に仕事をすることによって、ましてやビジネス・スキルや外国語の学校の経営などは、この国にとって非常に貴重な人材育成を行っているのだと思います。」
??『日本財団』には関連財団がいくつかあり、その財団もミャンマーで活動なさっているようですが・・・
斎藤 「はい。まず1974年からWHO・ミャンマー保健省とともにハンセン病撲滅運動を展開している『笹川保健記念財団』。ミャンマーの中堅官僚のためのトレーニングやセミナーを行っている『笹川平和財団』。MRTV(ミャンマーテレビ)で日本のアニメーション「赤胴鈴之助」を放映する事業を実施した『東京財団』などがあります。」
??『日本財団』としてはこのプロジェクトの後の計画はなにかあるのでしょうか。
斎藤 「具体的には何もありませんが、5年後の状況をみて、シャン州以外にも手を伸ばすことを含めて事業を延長させるといったところでしょうか。今のプロジェクトが成功すれば拡大はさせたいと思っております。」
??斎藤さんはいろいろな国での援助経験がおありですが、ミャンマー人とは他の国民と比べてどのように違いますか。
斎藤 「これは皆さんがおっしゃることですが、基本的に人が穏やかですね。毎日が温和な気持ちで過ごせます。また、暑いには暑いですが、過ごしやすい気候ですね。以前に2年間ほどいた中央アジアなんか、マイナス20℃なんてときもありましたから。それと比べると天国のようですよ。
ミャンマー人は考え方と言うか、ものの見方が日本人と似ているところがありますよね。遠慮、はじらい、尊敬など、ほかの東南アジアの人々よりもとても近しい感じがします。不思議なことに同様のことを感じた国がもうひとつありました。どこだと思われますか? なんとコソボに住むアルバニア系の人々なんです。見た目には全然違うので想像もつかないかと思いますが、実に似ています。彼らと話していると外国人と話していると言うことを忘れてしまうくらいでした。」
??財団のお話をいろいろうかがってきましたが、なぜ『赤十字』から『日本財団』へ移行なされたのかをお聞かせ願えますか。
斎藤 『赤十字』というと、いわゆる事業実施団体。『日本財団』は、そうした事業実施団体に資金を提供する助成団体。つまり、お金を受け取る側と出す側という意味では、相互にまったく反対の立場です。事業実施の側に長年いたので、「援助」というものを別の方面から見てみたいと思ったんです。また、『赤十字』のような老舗で全世界的なネットワークを持つ最大手のNGOにいると、「井の中の蛙」になってしまい、その他の世界が見えなくなってしまうんです。事業実施側にいた頃は、助成側の人たちが「援助」についてどのような考えをもっているかなど、思いを巡らしたこともありませんでした。そもそも同じ“援助業界”の仲間としてみていなかったわけです。自分達が現場を一番よく知っているんだ。なのになぜこのプロジェクトに金を出さないんだ。と、そんな風に考えていました。要は、言葉を悪くすれば助成側のことを“お財布”としか見なしていなかったんです。しかし“お財布”側に回ってみると、日本財団は日本財団としての助成戦略やプライオリティーがある。しかも、私どもが年間に受理する海外プロジェクトヘの助成申請は数百件になりますが、実際に助成協力をさせていただけるのはその内の数%です。申請者にしてみれば一番のプロジェクトかもしれませんが、私どもにしてみれば、比べられる材料がいくらでもあるわけですからね。
今こうした2つの立場から「援助」を眺めると、事業実施側のみならず助成側も含めて“援助業界”であり、柑互に意見交換、議論をして“業界一丸となって”仕事をすることにより、大きなものが生まれるはずであると考えるようになりました。」
??では、今は助成援助団体側に属しておられるわけですが、助成援助団体であるからこそできることとは何ですか。
斎藤 「事業実施団体には確かに現場の面白さがありますね。しかし、助成側にしかできないこともあります。それは国レベルや援助分野(セクター)レベルの戦略を持ち、質的のみならず量的にもインパクトのある変化をもたらす可能性をもっていることです。たとえばある国の母子保健を改善したいとすれば、その分野において様々な活動をする複数の団体(国連機関やNGO)に助成をする。点ではなく面での介入を可能にするわけです。これは、活動の種類、規模、方法論などにおのずと制約がある一団体では、出来ないことです。我々の想像は、潜在的に実現性をもっている。何らかしらの「仕組み」をしかけることで、少し大げさかもしれませんが、社会を変えることも可能でしょう。これはまさに財団ならではの仕事の面白さと言えると思います。」
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