|
≪ 博物館に刻まれた弾痕 ≫
「日本は東洋のスイスたれ」なんて無邪気なことを言った時代があった。極端な平和主義国家に変身した戦後日本の思い込みである。スイスは永世中立を国是としているものの、ハリネズミの如く、他を寄せつけぬ国防力の滋養を怠らぬしたたかさをもっている。憲法上、平和の他力本願を旨とする日本とは異質であるところから、スイス・アナロジーは、いつしか流行らなくなった。
だが、地球の裏側の中米で、中立主義を国是とするコスタリカ国の平和主義は、日本人に誤解されたまま今日にいたっているようだ。
「この国は天国だ。平和憲法をかかげ軍隊を持たず……。民主国家コスタリカの素顔は、その美しい自然とともに、私たち旅人の心を温かく満たしてくれる」。日本から持参した日本語の旅行案内書には、そう書かれていた。なんと甘口の感傷であることか。現実主義に立脚するこの小国のもつしたたかな、平和憲法と、日本のそれとは平和の理念と戦略において、似て非なるものではないのか。中米のスイスと言われるコスタリカの美しい高原を旅しつつ、そう思ったのである。
標高1150メートルにある首都サンホセ。「年間を通じて夏の軽井沢のような気候です」。コスタリカの女性と結婚、サンホセに住んでいる下村昌也さんがそう言った。国立博物館前での会話である。質素で落ち着いたコロニアル調の街並みに博物館はある。アフリカン・チューリップ(火焔樹)の大木のつける赤い花が、灰色の石造りの建物に色彩りを添えている。北緯10度、乾期の高原のそよ風が頬をなでる。そんなつかの間の旅の情緒を覚まされたのは、博物館の外壁に刻まれたいくつもの弾痕だった。
コスタリカ共和国は、他の中米諸国のように金の略奪を業とする植民者が建国したのではなく温和な農民が国造りにはげみ、独立を達成した国である。そのことは前号で詳しく述べた。だが、この国も、略奪、クーデター、国境紛争といったキナ臭さがともなう他のラテン・アメリカの国々と同じく、軍隊をもっていた。
博物館の建物の前身は要塞であり、陸軍司令部が置かれていた。1948年、この要塞をめぐり40日間の内戦が展開されたのだ。それはまさしくコスタリカ史の転換点であった。この砦をめぐる攻防戦こそ、コスタリカの軍備廃止の重要な伏線だったのである。
「コスタリかの平和主義とは何ぞや」。私はそれを検証するため、米国で出版されたコスタリカの解説書「Costa Rica Hand Book」をサンホセの街で求めた。「改革主義者と内戦」の章を読み、私の見た要塞の弾痕のもつ意味を知ったのである。それは、以下のようなストーリーであった。
≪ クーデター除けの軍隊廃止 ≫
第2次大戦後、コスタリカでは家父長的な独裁政権と小規模事業者、労働者、専門家、知識人、学生との対立が激化した。1948年の大統領選で、改革主義者の擁立する候補が僅差で与党の守旧派候補を破った。守旧派の候補の黒幕は、カルデロン前大統領であった。彼は子分の落選を認めず、投票はインチキだと騒ぎ、投票箱を押収した。ついに内戦が勃発した。改革派の指導者は、コーヒー農園主のホセ・マリアで、彼は工学士、経済学士、哲学士の学位をもつ知識人であった。彼は武装蜂起を呼びかけた。グアテマラに亡命中のコスタリカ人も、武器をもって飛行機をチャーターして馳せ参じた。守旧派の政府軍は隣国、ニカラグアに軍事援助を求めた。双方で2000人の死者を出した“40日戦争”は、改革派の勝利に終った。
世界でも、きわめてユニークな軍備なしの「コスタリカ平和主義」はここから始まったのだ。指導者となったホセ・マリアは1949年、軍人、中国人(軍人はジャマイカからやってきた鉄道建設労務者、中国人はパナマ運河建設のための労務者)などへの市民権の付与、婦人参政権、銀行の国有化など民主化、社会主義化のほかに、常備軍の廃止を盛り込む憲法を制定した。どこかのオメデタイ国のように「軍隊がなければ、他国が攻めて来ない」と考えた結果ではない。他国との安全保障問題というよりも、内戦やクーデターの防止策として軍備の廃止だった。武装蜂起の張本人が、“哲学”したあげくに到達した結論が軍備廃止の「平和憲法」とは興味深い。たしかに軍隊がなければ、軍事クーデターは起こしようがない。
だが国内の秩序はそれでOKなのだろうが、外敵の脅威にはどう対応してきたのか。平和国家コスタリカは、したたかであった。何度かの危機を乗り越え、今日にいたるまでかろうじて非武装平和を貫いてきた。
最大の試練は、隣国ニカラグアの内戦だった。1980年代の初め、革命が起こり、キューバと一脈通ずる左翼政権が誕生した。中米の共産化を恐れた米国は、ニカラグアの反政府右翼組織コントラ(スペイン語で反対勢力という意味)を軍事支援した。周辺のホンジュラス、グァテマラ、エルサルバドルは、米国の要請で出兵、戦火にまきこまれた。1986年、コスタリカ大統領に就任したオスカー・アリアスは、米国への協力を拒否、中米5カ国による和平協定を提案した。それは、関係国は戦闘をただちに停止するだけでなく、ニカラグア国内においては、コントラを含むすべての反政府ゲリラを恩赦し、自由選挙で政権を選ぶというものであった。レーガン米大統領は「致命的欠陥をもつ案だ」と批判した。ところが案に相違して、戦争と難民対策でくたびれ果てた中米5カ国は、紛争そのものの震源地となったニカラグアのオルテガ大統領も含めて、協定に調印した。
アリアスは調印1カ月後、米国議会で、こう演説したという。「この長い戦争で、中米では数万人の死者を出し、地域内の貿易は60%減となった。ニカラグアは、大量の難民を周辺国に⊥まき散らした。コスタリカ人は40年前に軍備を廃止した。そのことによって引き起こされる国家の危機や、平和への苦闘は、はてしなく続く戦争コストにくらべれば、リスクは小さいと信じている」と。
彼は1987年のノーベル平和賞を受賞した。
1949年制定のコスタリカ憲法にはこう書かれている。
第12条恒久制度としての軍隊は廃止する。公共秩序の監視と維持のため必要な警察隊は保有する。大陸間協定により、また国防のために軍隊を組織することはできる。
第31条コスタリカ領土は、政治的理由で迫害を受けている人の避難所である。
≪ 「平和憲法」も高くつく ≫
以上が、「コスタリカの平和主義」の実像である。はたしてこれが、平和憲法をもつ国、日本のそれと似ているのか。検証の結果は、両国は平和の理念と戦略が全く異なっている。それは以下の通りだ。
第1に、日本の平和主義は、他力本願であるのに対し、コスタリカは自力救済である。日本国憲法前文には「日本国民は……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。童話の世界ならともかく、現実世界ではナンセンスである。コスタリカのそれは、あくまで自力救済が基本で、平和維持のためのしたたかな主義である。しかも個別自衛権もしくは集団的自衛権行使が必要なときは、いつでも軍隊を保有する余地を憲法に明記している。
第2に平和憲法の発生の土壌が全く異なっている。日本のそれは米日合作の戦後の一夜漬けの精神論的作文であるのに対し、コスタリカは、自国のクーデター防止という実利から発生したもので、現実にのっとった功利主義から生れたものだ。
第3に、日本の平和構築路線が、憲法上の制約でつねに受身であるのに対し、コスタリカは、平和主義の旗印のもとに、思い切った策を打ち出している。アリアスの中米和平調停が成功したのは、実は憲法31条にもとづいて、25万人のニカラグア難民の引き受けを条件にしたからだ。当時のコスタリカの人口は250万人。人口の10%もの異民族を受け入れるとは、なんと高い平和のコストであることか。仮りに日本が北東アジアの平和のために北朝鮮人を難民として我国の人口の10%相当を受け入れるとしたら、いったいどうなことになるか。
平和の実現とは、ロマンではなく痛みを伴うものなのである。九州と四国を合わせたくらいのくらいの小さな国に大量のニカラグア難民を。この国の社会的緊張は、今日でも続いている。平和主義国家、コスタリカは決して「天国」ではない。
|
|
|
|