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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: エチオピアを知ってますか(下)  
コラム名: 旅日記 地球の裏読み  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2003/07  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   旧約聖書に敬意を表して、人類の起源は、アダムとアダムの肋骨で神が創ってくれたイブのカップルということにしておこうか。でも原始の時代、この地球上にアダムとイブが何組いたのか。これは、考古学の大論争のテーマであり続けた。エチオピアの高原で見つかった320万年前の最古の猿人「ルーシー」の話は前号で紹介したが、このルーシーの子孫たちが、欧州やアジアに渡り、各地で独自に進化したという説が有力だった。人類の複数起源説、つまりアダムとイブのカップルは、複数存在していたと考えられていた。

 ところが、2003年6月、エチオピアの首都アジスアベバの北東230キロの村から、とんでもないものが発掘された。現代人(ホモサピエンス)の化石としては最も古い、男2人と子ども1人の頭骨が出土した。これにより、現代人のアフリカ単一起源説が証明された。アダムとイブは1組だった。そして考古学的見地に立てば、エチオピアこそが「エデンの園」ということになろうか。以下は、知られざるエチオピア紹介のための後編である。


≪ エチオピアの古事記とシバの女王 ≫

 エチオピアが「エデンの園」であるのかどうかはともかくとしてもこの国の歴史は古い。アフリカ大陸で、古代から綿々と続く歴史をもっているのは、エジプトとエチオピアだけだ。エチオピアが世界史に登場してきたのは、紀元前1000年のことだという。シバの女王が、はるばるエルサレムに出かけ、ソロモン王を訪問した。「その事は、旧約聖書とイエメンの民話にかかれている」。案内役のこの国の農林省の元農業普及局長、タケレ・ゲブレさんがそう言った。そして「シバの女王は、ソロモン王との間に、エルサレム訪間中、子どもを設けた。女王の息子、メネリックがソロモン王の庇護を受け初代エチオピア王となり、エチオピアのアスクムに都を定めダビデ2世となった。つまりは初代皇帝です。そして最後の皇帝が、1974年青年将校たちの社会主義革命によって退任させられた。237代目です」と誇らしげに解説してくれた。

 アジスアベバの本屋で「Kebra Nagast」という表題の本を求めた。英文で「The Glory of Kings」とある。「栄光のエチオピア皇帝史」とでも訳しておこうか。いうなれば、日本の古事記、日本書紀に相当する本だ。14世紀、多くの伝承を集めて書かれた叙事詩で筆者不詳。エチオピア人の元祖は南アラビアのイエメンであること。紅海を渡ってアフリ力東部にやってきた。暑さにたまりかねて高原をよじのぼって移動をつづけた。そこが夏も涼しいエチオピア高原であった。シバの女王は、このイエメンからの植民者の3代目だった。シバの女王のエルサレム訪問によりエチオピア皇帝は、正統的なユダヤ人の血筋であるなど建国のストーリーが展開されている。シバの女王がモーゼの十戒の木版を持ち帰ったとも書かれていた。

 「シバの女王とソロモン王のLove Storyは、実話ですか」

 タケレさんに聞いた。

 「それは、ユダヤ人の旧約聖書とエチオピア人のケブラ・ネガストが本当かどうか質問しているに等しい。エチオピア人がユダヤ人と同様、セム系の血筋をひいていることは事実です。ユダヤ人の末裔を名乗る人々の村がエチオピアに残っていたが、数年前、集団でイスラエルに移住していった」

 つまりは、このような国の起源にかかわる叙事詩を個有の文化として肯定的に受け止めるかどうかの問題なのだ。古事記、日本書紀のケースも同じだろう。

 エチオピアの最後の皇帝ハイレ・セラシェは、日本を共通の歴史と伝説をもつ国と認識し、とりわけ親日的だったという。昭和の初期、自分の甥の妻に日本の華族、筑前の黒田家の娘を迎えようとしたが、日・独・伊3国同盟の締結で沙汰止みとなったとのことだ。


≪ コーヒー・セレモニー ≫

 「エチオピアは、コーヒーとオリーブと小麦の原産地です」

 タケレさんがいう。昨今のエチオピアは飢餓の代名詞のように思われているが、この話はどうやら本当らしい。オリーブと小麦は、他国に売るほどの収穫はないが、コーヒーはエチオピアの輸出額の90%を占めており、外貨の稼ぎ頭だ。世界の原産地だと自負するだけあって、この国には、日本の茶道にあたるcoffee ceremonyなる伝統文化がある。茶道と同様、家庭で客をもてなすための小さな儀式だ。

 主人が小さな炭火のストーブの前にすわる。フライパンでコーヒー豆をゆっくりと煎る。ほのかに煙が上がったところで、フライパンを客にさし出し、芳香を楽しんでもらう。客は「Lovely!」とか「結構な香り」などと言って答礼する。煎った豆を鉄製のスリ鉢で挽く。これを鉄瓶の熱い湯に入れ、小型のコーヒーカップに注いで客に出す。ポップコーンと砂糖のツボがある。これには手をださなくてもよい。砂糖も点心のポップコーンもお好みによる。所望すれば何杯でもサービスしてくれる。

 これがエチオピアの茶道ならぬコーヒー道だ。ホテルのロビーには必ずといっていいほどcoffee ceremonyのコーナーがあった。


≪ エチオピアン・オーソドックス ≫

 この国のコーヒーの始まりは12世紀で、妙った豆を煮出して飲料とした。やがてこの習慣がアラビアを中心とするイスラム国に伝わったという。

 ヨーロッパ人がコーヒーを飲むようになったのは17世紀とのことだ。コーヒー以外にもこの国には古い文化がある。代表格は、エチオピアのもつ古い文字や、暦、そして原始キリスト教の文化だ。エチオピアの公用語はアムハラ語という。アラブ語やヘブライ語の親戚で、アルファベットは37、母音は10個もある。この国の古い文明に対して古代ギリシャ人は敬意を表していたらしく、ギリシャ最古最大の叙事詩人ホメロスが、「非のうちどころのないエチオピアの人々」と称賛したとの説もある。大昔のギリシャ人が、ライオン見物にやってきたという話もあり、この国で求めた英文の旅行案内書によれば、エチオピアの名付け親はギリシャ人で、「日焼けした人々の土地」という意味とのことだ。

 エチオピアにキリスト教が入ったのは、ローマより早い。4世紀ギリシャ人がもってきたという。ギリシャ語から訳された現地語の聖書が5世紀には出現している。この古いキリスト教をエチオピア正教というが、この人たちに断食の習慣があるのには驚いた。7世紀にはアラビアからイスラム教が入ったが、その影響かどうかはさだかではない。私がこの国で食事をした15人ほどのエチオピア人キリスト教徒の半数は断食するキリスト教徒だった。

 アジスアベバの中華料理店で、私の訪問先であった農業普及のNGOの人々と夜の会食をしたときの経験だ。断食派と非断食派の2つのテーブルに分かれた。彼らはエチオピア暦という特殊なカレンダーをもち、1年に184日はなんらかの形で、飲食を制限している。断食派はふだんも酒を飲まないが、肉、ミルク、卵、魚なども断食日には絶対食べない。午後7時以降、ベジタリアンの食事をする。

 初めてのエチオピアで思ったこと。それはこの国の昔と今の強烈な「明」と「暗」のコントラストであった。太古、初の現代人を発生せしめた美しく豊かな自然、古代にさかのぼるほど輝いてくるこの国の歴史、多様な伝統文化。古きものは、すべて「明」であり、現代に近づくほど「暗転」する。それは何故なのか。旅の期間中、私はずっとその事を考え続けた。


≪ サブ・サハラ食糧増産事業 ≫

 今回のエチオピア訪問の目的は、1986年のエチオピアの飢餓をきっかけに設立された笹川アフリカ協会のサブ・サハラ・アフリカの食糧増産事業の視察であった。エチオピア政府は、この農業技術移転プログラムを熱心に推進している。

 アト・ベレー・エジグ農林大臣が私にこう言った。「この国の国民の3分の1は、1日1ドル以下の収入で暮している最貧困層だ。農業生産性の向上で、これを1日、2ドルにしたいんだ。エチオピア人の85%は農民だ。GDPの50%は農産物なんだが、それを国民が全部食べても飢餓に直面した時代もあった」と。この国のいまは、確かに貧しい。1人当りGDP115ドル(3万5000ドル)、識字率35%(100%)、乳児死亡率1000人につき107人(1000人につき3人)、平均寿命男48歳、女52歳(男77歳、女83歳)。考古学的には「エデンの園」であった現代エチオピアの悲惨なデータだ。( )内は、日本の数字であり、まさしく天国と地獄を示す数字であろう。

 笹川アフリカ協会の現地駐在員、間遠俊郎さん、そして現地のホスト役のタケレ・ゲブレさんら一行と、車体の高い四輪駆動車で農村地帯に出かける。間遠さんは、海外青年協力隊で奉仕活動をやったのち、ロンドン大学で経済学の修士号をとり、学問と実践の一致をめざしている人だ。

 車はこの国の数少ない舗装の幹線道路をなだらかなカーブを描きつつ、首都のあるエチオピア高原から標高にして1500メートルを徐々に下り、アフリカ大地溝帯に入る。幅40〜60キロメートルの高地と高地の間の平地で、中央に何本もの川が流れている。アフリカ大地溝帯の造山活動は、まだ死んでない。火山帯が通っており、温泉がいくつもある。

 やや黒味をおびた茶色の土の上に、黄土色の細くて短いワラの束が転々と積み上げられている。収穫の終ったエチオピア人の好物の主食の「テフ」畠が、果てしなく続いているのだ。テフの育成には手間がかかる。ヒエに似た穀物で栄養価は高いが、栽培に手間がかかるだけでなく収穫量が小さい。エチオピア人はこれを粉にして、「インジェラ」という名のパンにして食べる。一度試してみたが、酸味があってウマイとはいえない。「エチオピア人は、米を粉にしてテフの代用食にするが、薬みたいで不味いと言っている。米やトウモロコシなら1ヘクタールで5トン以上とれるが、テフは1トン以下、このへんがエチオピアの食糧問題の悩みのひとつ」と間遠さんは言う。

 沿道には小規模の穀物の売買マーケットがあり、袋詰めのウシの糞(肥料ではなくて燃料)や、たき木を売っている、村人がはるばるロバや馬で運んでくる。エチオピアの馬は小さい。「高地の馬は小さいんです。少ないカロリーで、運動能力を発揮しようとすれば、図体は小さいに限る。神はそのように創り給うた」。タケレさんはそう言う。わかったような、わからんような説明だと思っていたら「隣の国のスーダンに行ってごらんなさい。あの国は平地だから、ロバも馬も大きい」と、ダメ押しされた。

 川の付近には緑がある。だが川から500メートルも離れると、草も木もほとんどなくなる。エチオピア高原の降雨量は年間2000ミリ。アフリカにしては雨は多い。ところが、この国には、12、3年に一度、周期的に大旱魃がやってくる。エルニーニョ現象と関係があるというが、かつて緑だった森林が太古の昔そのままに保存されていたら、旱魃とか食糧危機とは無縁だったろう。昔から多くの人間がエチオピアに住んでいたのは、もともと豊かな土地であったからだ。だからこそ人口が増加した。しかしある限度を越えて人が増えると、自然と人間とのバランスが破壊される。


≪ ダビさん、マサエさん夫妻を訪ねる ≫

 1935年、1500百万人の人口が、2003年には、6500万人にふくれあがった。人々は、たき木を求めて、森林を伐採し、そこを農地に替える。ここ半世紀で、エチオピアの森林の70%が失われたといわれる。「飢餓を招く大旱魃の原因は、森林伐採による土壌の保水力の喪失にある」。間遠さんはそう診断している。

 この国では、森を破壊してしまうと、そのあとには樹木はおろか、草も生えない。エチオピアには、森の破壊で樹木のもつ保水力が喪失したために1ヶ月も雨がないと耕作不能となり、棄てられた農地が沢山ある。私たちが訪れた、ダビさん(30)と奥さんのマサエさん(28)の6人家族の農地もそのひとつであった。ダビさんのもつ先祖代々の農地の裏の小高い緑の丘は、20年も前、燃料用に樹木が伐採され、茶色のガレ場になってしまった。ガレ侵蝕が始まっている禿げた丘に降った雨水は、ダビさんの農地を僅かに潤してはくれるものの、大半は低地を流れる川まで直行してしまう。マサエさんは、日照りには毎日、2往復2匹のロバの背にバケツを積んで、7キロも離れた村の川まで水汲みに出かけた。

 だが、いまではダビさんの農家は、エチオピア農業再生のモデルとかで、首相も見学に来たという。笹川アフリカ協会の農業指導で、裏にあるガレ山から500メートルほどの細い雨道を建設し、800リットルの農業用水を常時、タンクに貯蔵、2ヘクタールの農地で、4トンの穀物と野菜2トン、牛を2頭飼って1日、20リットルの牛乳を生産するようになった。

 「水路の建設で協会から借金したが、あと2年で全額返済できる。余った水は村人に売っている。金ができたら、裏のガレ山に木を植えて昔の森を復活させるつもりだ」とダビさん。「サブ・サハラや中東では、水汲みは女の仕事なので、水場から遠い家には嫁にいくなの言い伝えがあるそうだが」。奥さんのマサエさんに水を向けたら「もう水の事は考えなくてもよくなった。これからは子どもの教育について考える」。嬉しさを隠すように控え目にほほ笑んでみせた。

≪ この国の土地は、月の裏側の色ナリ ≫

 ダビさん、マサエさんのケースは、稀に見る農業再生の成功側ではある。だが、エチオピア政府と笹川アフリ力協会との連携動作で、100万人の餓死者を出したとされる1986年の当時に比べれば、エチオピアの穀物生産量はおしなべて30%あがったといわれている。種の改良とはほんのわずかな肥料を使った近代農法が、本来、穀物の生育に適していたエチオピア高原の土壌とうまく適合した結果といえるだろう。

 「昨年まで、周期的な気象異変による大旱魃がこの国を襲っていたが、人口は依然増えているにもかかわらず、今回は餓死者は出ていない」間遠さんとタケレさんがそう言った。

 現代エチオピアをエチオピア詩人が詠んだ歌がある。

 「エチオピア。汝は7色の虹の8つ目の色を出す土地なり。その色は黒なり。太陽の光の当らない月の裏側の暗い半球の色だ」

 1994年作の英詩だという。古代は虹色に輝いていたエチオピア、それが現代になると暗転する。それは何故なのか。私は、いまだにその答を出しかねている。

 アジスアベバからの帰路、ロンドン行きの飛行機の中で、駐エチオピアの日本大使、奄原さんと隣り合わせになった。農業、とりわけ灌漑の専門家である彼はこう言った。

 「やっぱり土地と人間の相互関係ですよ。エチオピアは、限られた人数の人間集団が住むには素晴らしい土地です。地味も悪くないし。恵みの雨もある。でも農業余剰を大きく生み出すモメンタム(はずみ、勢い)がなかった。だから膨大な数の人々が満足な生活を送るのは難しい。その点、中世の日本の農業発展はめざましかった。それが、日本列島の多数の人間を養う基礎になった。エチオピア高原は1年で2000ミリの雨が降るのに、大部分は蒸発してしまうし、残りは肥沃な土壌とともにナイル川を流れ、エジプトに行ってしまう」と。

 機はナイル川を左右に見ながら北上する、アスワンハイダムが見えてくる。エチオピアの水を集めたナイル川なかりせば、この地球に、エジプトは存在しなかっただろう。そんな思いにひたるうちに、ロンドンとの中継地、アレキサンドリアに到着した。
 

エチオピアの飢餓について  
アフリカに農業革命を!SG2000プロジェクト  
「笹川アフリカ協会」のホームページへ(SG2000の活動内容)  


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