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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: コスタリカを知ってますか?(上) 中米「チコ」の国  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2003/07/22  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 君の名は「金持ち海岸」 ≫

 中南米の小さな国々は、日本人にとっておよそなじみが薄い。たまに日本の新聞で国名にお目にかかるとしたら、サッカーの国際試合の記事くらいだろう。ブラジルのスーパースター、ジーコ氏が全日本の監督になってから、ラテンアメリカの国々との試合が増えてきた。コスタリカ共和国対日本の試合も、そのうち行われるに違いない。

 2002年の秋、私はこの国を訪れた。美しい高原の村々には、よく整備されたサッカー場があった。「コスタリカのどんな小さな田舎の村にも、必ず3つの建物がある。それは教会、居酒屋、そしてサッカー場だ」。コスタリカ人が、私にそう言っていたのを思い出す。

 コスタリカは遠い国だ。地球の裏側にある。世界地図を開く。北米と南米の2つの大陸が、へその緒のようなヒモ状の陸地の下からつながっている。この細長い地狭の下から数えて2つ目の国がコスタリカだ。人口380万人。九州と四国を合わせたくらいの小さな国だ。彼らはみずからを「チコ」(CHICO)と称する。チコとはスペイン語で小さいという意味である。「チコ」の国、コスタリカとはいかなる国か。そもそも論からいこう。

 まずは、地峡の生成から。超大昔、南北アメリカは海によって隔てられていた。ところが2000万年ほど前から、だんだんに南北をつなぐ陸の橋が形成されていった。この地球は4つの巨大な地殻の板(テクトニック・プレート)があり、今でもそれぞれが思い思いの方角に、1年間に動いているという。巨大なプレートが、もう1つのプレートとぶつかり、押し合った。その結果、2つのプレートのつなぎ目の岩が盛り上がり、その上に火山灰が堆積し、細長い陸地が出来あがったとのことだ。

 ところで、中米とは、約3000キロに及ぶこの地峡にある国々のことだ。コスタリカのほかにグァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、パナマ、ベリーズの計7カ国で構成されている。中米を発見したのは16世紀の初頭であった。

 1502年、コロンブスの船団がやってきた。彼は、はるばるやってきたカリブ海の海域を、アジアの多島海だと信じこんでいた。そこで目的地にインドに到達する「海峡」を見つけようと海岸沿いに航海した。だがここは「地峡」であり、「海峡」があるわけがなかった。疲れ果てたコロンブスは、熱帯雨林に囲まれた美しい海浜に上陸、17日間を過ごした。そこで先住民たちに遭遇した。金細工の装飾をいくつも身につけていた。

 「きっとジャングルの向こうの内陸には豊かな金の文明がある」。コロンブスは、そう思い込んだ。そしてこの地を「金持ちの海岸」(スペイン語でCostaは海岸、Ricaは金持ち)と命名した。コスタリカの由来である。


≪ コロンブスの誤認と平和国家の起源 ≫

 この国で求めた旅行ガイドブックに、「コスタリカは、民主政治と平和、そして美しい自然の保存される中南米一の天国」と書かれていた。中米と聞くと、略奪、クーデター、国境紛争といったキナ臭さがともなう。なぜコスタリカだけが、中米でただ1カ国、「平和の地」という美名で呼ばれるようになったのか。この謎解きは、私のコスタリカ訪問のテーマのひとつでもあった。

 首都サンホセ。標高1150メートル、人口30万人。国立博物館を訪れた。「いろんな人々が、ミックスして仲よく暮らすコスタリカ」の看板をかかげた、ジオラマがあり、30体ほどの等身大の人形が並んでいた。純粋白人風、黒人、中国人風のアジア人もいるが、大部分が混血だ。白人と先住民の混血であるメスティーソが、多数派だ。

 「あそこにいかにも誠実そうな田舎のオジさんがいるでしょ。これが働き者のコスタリカ人の代表的な顔で、この国に移民した白人農民の原形です」。

 現地で通訳、ガイド、運転手の1人3役をやってくれた下村昌也さんが教えてくれた。下村さんは、バックパッカーで中米を旅しているうちに、コスタリカの自然に魅せられ、メスティーソのコスタリカ女性と結婚、サンホセに住んでいる。

 なるほどそう言われてみると、ケンタッキー・フライドチキンの白髪のオジサンにちょっと似ている人間の表情は温和そのものだ。スペインのカスティージャ地方からやってきた農民だという。

 下村さんの話は、私にとって意外であった。コロンブス以後、スペイン人たちが中米征服に狂奔したのは、金(きん)が目当てであり、地道な農作業ではなかった筈だ。

 「中米に移住したスペイン人の先祖たちは、豊かな文明を営んでいた先住民族を滅ぼし、遣跡から金製品を剥ぎ取り、これを融かして金塊にして本国の王のもとに運んだ。コスタリカの白人の原形も、その種の荒ぶれた人々ではなかったのですか。コスタリカという地名から判断して金(きん)が一杯あったんでしょ」。

 下村さんの答えが、これまた案に相違していた。

 「この地を“金持ちの海岸”と名付けたコロンブスの大いなる誤算だったんですよ。この国には金(きん)がなかったんです。先住民文明の遺跡である金細工や金の像がなかっただけでなく、先住民族もあまり住んでいなかった。

 ここは、南北アメリカをつなぐ地峡のほぼ真ん中です。北のマヤや南のアステカ文明の土地から遠く離れていたので、ここまでわざわざやってきた先住民はごく僅かだった」と。

 一捜千金を夢見た荒くれ者の植民者たちは、この地を早々に切りあげ、金(きん)を求めてよその土地に去っていった。そして本国からはるばる牛や馬をつれて移民してきた争いを好まぬ温和な開拓農民だけが、とどまり、国造りにはげんだ。

 歴史とは何と皮肉なものか。この土地が、金(きん)の魅力のない土地であったからこそ、美しい自然と豊かな農作物、そして中米でたったひとつ平和が売り物のコスタリカ共和国が誕生したといえる。金(きん)目当ての男たちが去ったあと、マドリッドからそう遠くないカスティージャからやってきた働き者の農民たちは、国の中央部にある標高1000メートルから1500メートルの高原で、農業を営み、いよいよ数少ない先住民と混血していった。

 「コスタリカに移民した働き者の農民たちはどうやって、この地に豊かな農業を築いたのか」。


≪ 5コロン札が1ドルになる理由 ≫

 下村さんはこの問いに答えるかわりに、サンホセの下町にある国立劇場に私を案内した。小さいながらパリのオペラ座そっくりの建物だった。1ドルの入場料を支払って劇場に入る。天井に大きなフレスコ画があった。「百聞は一見に如かず。この絵が答です」と。1897年、イタリアの画家J・VILLAの描くコーヒーの収穫と積み出し、バナナ運搬風景だ。港には、2本煙突、2本マストの貨物船が、何隻か停泊している。

 19世紀の初頭、細々と酪農を営んでいた開拓農民は、ジャマイカからコーヒー豆を輸入し、試みに中央高原地帯に植えてみた。コーヒー栽培は、火山土で形成されたこの地の熱帯乾燥林にぴったりだった。火山のスロープから太平洋を見下ろす丘陵まで、たちどころにコーヒー畠に変身した。カリブ海沿岸にはバナナ畠が出現した。中米一のリッチ・カントリーになった。1人当り国民所得は4000ドル、ちなみに隣のニカラグアは420ドル。この国のGDPの70%は農業である。

 「コスタリカの農民はコーヒーを1袋輸出するごとに5コロンの税金を積み立て、さらにこれにバナナの輸出税を加えて、オペラ座を真似て小劇場を建設しました。それがこの国立劇場です。19世紀末の建物で、コスタリカの農民は、われわれ1人ひとりが、この劇場を建設したのだという自負をもっている」。

 下村さんの解説である。5コロンの税金にちなんで、5コロン札の裏には、コーヒーとバナナのある風景を描いたこの劇場の天井のフレスコ画が、鮮やかなカラーで印刷されているという。

 旅の土産に1枚ほしいところだ。だがよくよく考えてみたら、5コロン札の現在価値を、今の為替レートで換算したら、たったの2セントだった。そんな札を中央銀行が発行したら、印刷代と紙代で大赤字になってしまう。「流通してないんでしょ」と私。「いや。由緒あるお札なので、細々と印刷されてます」。そう言う下村さんが紹介してくれたのは、絵はがき売りのおじさんだった。100枚ほどのピン札の束から、1枚大事そうに抜き出して売ってくれた。

 5コロン札1枚がなんと米ドルで1ドルであった。額面以上の値うちのあるこのお札は、流通されずに土産用として退蔵されていたのだ。「悪貨は良貨を駆逐する」。現代の中米で体験したグレシャムの法則である。
 



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