共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: フィルムを交換する  
コラム名: 私日記 第44回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2003/08  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  2003年5月21日〜26日

 ずっと三戸浜で暮らす。花、夕陽、海、月光、すべて心躍ることばかり。そのうち2日間、坂谷豊光神父が葉山から夕食を食べに来てくださる。神父は奄美大島で老人ホームの責任者の仕事に就かれるために、資格を取る必要があって合宿していらっしゃるのだという。もっと素朴に経営ができないものか。心があれば、老人介護などという仕事は何とかやっていかれるのだ。しかし技術や資格があっても、心がなければどうにもならない。

 24日に珍しく太一(孫)が泊まりがけでやって来る。ハイデガーを原語で読まねばならないのだという。ハイデガーはヨーロッパの現代哲学の中で、認識者ではない客観世界を意味づけようとした人だという。デカルトとは非常に違うことだけは、私にもわかる。むずかしい本を読む時には、自炊しなくて済むとはかが行くので、泊まりに来る気になったようだ。「僕は将来、学問して貧乏すると思います」とかねがね言っているから、ここでは毎日夕方1時間ずつ農作業をさせることにした。人間は頭と体と両方を使わねばならないし、将来貧乏する気なら、地価の安い田舎に小さな畑を持ち、そこに野菜を植えて暮らせば、かなりの貧乏でもやっていける、というちょっとした自信のようなものも持たせた方がいいと思うからだ。

 第1日目は、たった2畝ほどだが、耕してそこにタァサイの種を蒔かせた。2日目は、ソラマメを収穫し終わった後の始末。ソラマメは私の背より高く伸びていて、根もけっこうしぶとく張っていて、鍬で掘り起こさなければとうてい抜けない。しかも倒れないように針金でしばってあるのを「切れば楽だけど、針金はまだ使うから、ほどいて丸めておいて」と命令したので、これが結構手数の掛かる仕事だった。しかし思いの他、馴れた手つきで綿密にやる。問い詰めたら、育った神戸の六甲の山野を、母親に内緒で跋渉して歩いていた子供の頃から、「針金をかいくぐったりいろいろとやった」と言う。ソラマメ畑の始末には2時間かかって、夕暮れになった。


5月27日

 出勤の前に、お台場の「船の科学館」に寄る。5月31日から、北朝鮮の工作船を鹿児島の第十管区海上保安部から持って来て、「船の科学館」の敷地内に展示することになっている。「船の科学館」は日本財団が100パーセント助成をしている事業で、今回、工作船を持って来て4カ月展示するのにかかる費用は8000万円である。入場料は無料。私が「船の科学館」の責任者だったら、人員整理にお金もかかるし、ほんとうは入場料を取りたいと思うだろうが、国家的な仕事を儲けの種にしてはいけないということで、最初から無料の線は揺るがなかった。

 工作船はもっと早く着いているはずなのに、途中で輸送中の船が嵐に遭い、伊勢湾に逃げ込んでいて、到着が遅くなった、という。

 私が現場に着いた時、工作船は高々とクレーンでつり上げられ設置場所近くに下ろされるところだった。鹿児島で見た時と印象が違う。もっと大きい。あの時、かなり強い臭気がしたのだが、それはもうないという。撃たれて船体に穴が開いた時、工作員たちは自分が着ていたシャツや股引きを脱いで必死に穴に詰めて浸水を防いだ。その衣服が引き揚げた時はまだ数ヵ所に残っていた。それは検査の時も、1ヵ所だか残してもらったという。あれが一番たまらない。

 「船の科学館」の庭に植えられている椰子の上につり上げられた工作船は、しかしその時の印象よりはるかに大きく見える。

 「もし椰子1本折ったら、90万円補償してください、と言われているんです」と財団職員が私の耳元で轟く。マスコミも大勢集まっている。日本財団の海洋船舶部はここ数日、取材に応じるので寝不足が続いている。夜明けと共に撮影を始めたいというところもあったが、できるだけ希望に応じているそうだ。

 すぐ近くのニッポン放送に寄って、テリー伊藤さんのラジオ番組に出てから財団に帰る。過去に発表された新聞や雑誌などの記事を、ホームページ上に集める「日本財団図書館」は近くスタートするが、その進捗状況についての打ち合わせ。今はまだほんのスタートしたばかりだが、差し当たりは「拉致問題」に関して、過去にどういう人たちが何と言っているか、を徐々に、究極的にはすべて集めたいと願っている。しかし思想で選ぶのではない。どのような意見もすべて網羅するのが目的である。そうすれば、誰でもが昔の新聞雑誌の必要な記事をいながらにして資料として見られるようになるだろう。

 夜は6時から、赤坂プリンスホテルで行われた中曾根康弘元総理のお誕生祝いの会に出席。中曾根総理の最大のお宝は奥さま。

5月28日

 日本財団へ出勤、執行理事会の後で、自沈した工作船に乗っていて死亡した北朝鮮の工作員に対して花を捧げたい、と希望を伝えた。

 その後、日本財団評議員会。

 夜は晴海の第一生命ホールで、日本音楽財団主催のアイザック・スターン・メモリアル・チャリティー・コンサートが開かれた。ピンハス・ズッカーマン氏がシューベルトを弾かれることになっている。ズッカーマン氏は、日本音楽財団が所有するヴァイオリンの名器、「デル・ジュス」を貸与されているヴァイオリニストである。

 「デル・ジュス」はベルギーの名ヴァイオリニストであるウジェーヌ・イザイ(1858〜1931年)が所有していたので、通称「イザイ」と呼ばれていたらしいが、その後「イザイ」はアイザック・スターン氏のものとなった。日本財団の傘下の日本音楽財団は世界のストラディヴァリウスなどの名器を買い集めて保管し、世界中の若手をも含む多くの名演奏家に無料で貸与して、楽器が死蔵されることなく、多くの人に聴いてもらう機会を作り続けて来た。「イザイ」もスターン氏の死後譲り受けたもので、ズッカーマン氏が現在使ってくださっているのである。

 今日は皇后陛下がおでましになるので、カクテルの会場入り口でお迎え申しあげ、後はお近くでお話しになりたい方がたくさんおられるので、すぐ遠くに下がった。


5月29日

 時々咳き込むのはもう3年くらい続いている。最近のSARS騒ぎのおかげで、咳をするとほんとうに肩身が狭い。近くの人から睨まれているような気がするので、聖路加国際病院の松井先生に見て頂くこと忙する。レントゲン写真は素人が見てもきれいな肺で、お見合い写真に使えそうだ。何で咳がでるのかわからない。「しいて言えば軽い喘息」なのだそうだが、息苦しくもない。これで咳が癌でも結核でもSARSでもないことがわかって大きな顔ができる。

 急いで帰って日本財団理事会に出席。

 午後、雑誌2誌のインタビュー。

 その合間を縫って六本木の花屋さんへ。デザイナーという人は若いオランダ人だった。工作船へ贈る花の目的を話し、何の花がいいと思いますかと相談すると、それはユリに決まっていると言う。私と全く同じ考えであった。それもカサブランカなどの派手なユリではなく、いわゆるテッポウユリでなければいけない。少しうつむき加減に咲き、赤し青白いユリである。

 帰ってから、財団の英語職員と献辞の打ち合わせ。日本文では「2001年12月22日九州南西海域に沈んだ朝鮮民主主義人民共和国の若者たちに捧げる」とした。国名について……私はずっと前から北朝鮮と書き続けて来た。大韓民国を韓国、アメリカ合衆国をアメリカ、とどのマスコミも書いている時に、なぜ北朝鮮だけ「朝鮮民主主義人民共和国」と言ったり書いたりして来たのか。NHKも他のテレビ局も最近になって北朝鮮に変更した。まことに信念がない、というものだ。しかしこの工作船の死者たちに対する献辞では、必ず国名は正式でなければならない。なぜならいかなる国であろうと、それがこの工作員たちが殉じた祖国なのだから、私は礼儀を尽くすつもりだ。

 花を贈るのは……そこに工作船の無残な残骸があるだけでは、ただ憎しみの対象が見えるだけであって、何の建設的な効果も生まないからだ。その船で無残な十数人の死があることを、そして彼らにも、母や妻や子がいることを思う時だけ、工作船の恐怖はもしかすると、人間の英知に繋がるかもしれないからだ。

 夜、南アの根本神父、カメルーンのシスター・末吉なども見えて、海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。フィリピン、パキスタン、南ア、ブラジルなどに対して728万円を決定した。おもしろいのは、最近パキスタンなどで、カトリックのブラザーやシスターが、イスラムの子供たちのために働いているプロジェクトヘの支援が始まっていることで、これがもっとも宗教を超えたカトリック的な思想の具現だと思う。今回決定されたパキスタンヘの支援は、病院の補修費と養護婦さんたちの教育費としての378万円である。


5月31日

 お台場の「船の科学舘」で、午後10時からごく簡素な工作船の展示を始める式を行う予定である。かなり激しい雨。この船は引き揚げる時も、こちらに移送する時も荒れ模様だった。沈んだ日の波高は5メートルだった。

 花屋から届けられたユリの置き場を見る。あくまで見学の邪魔にならず、一歩下がったところでなければならない。幸い見学のラインの最後の地面の上に、ユリの高さも邪魔にならない場所を見つけた。

 海上保安庁が用意した10分ほどの記録映画がすぱらしい。余計な音楽もなく、ただひたすら冷静な記録のみ。工作船が巡視船に対して発砲する音も(むしろ静かに)捉えられている。見ている人がどれだけ気がついているかしらないが、記録映画の最後は海上保安官の記録係の「フィルム交換する」という言葉で終っていた。こういう場合にフィルムが終るということは、撮影者の死亡または負傷、或いは拘束など事態がわからないから、通常のフィルム操作で変える場合は、必ず「フィルム交換する」と言うのだそうだ。規律はきちんと守られている。

 招待者のお客さまと軽食を食べた後で、新潮社の浜崎晶子さんと、池袋の旭屋書店へ。最近、新潮新書として書き下ろした『アラブの格言』のサイン会。来てくださった読者の方たちとお喋りしたり笑ったりしながらサインをしていたら、「こんな賑やかなサイン会はない」と言われてしまった。「私の書いた部分はつまらないのですが、アラブの格言の部分を読めば、ブッシュもパウウェルも、サダム・フセインもオサマ・ビンラディンも、なぜああいうことをしたか、全部わかりますから」などと言っていたのである。

 実はサイン会の前に1階の植木屋さんの出店でつつじの鉢を1つ買ってしまった。仕事より植木なのである。


6月2日

 日本芸術院の授賞式。親友の津村節子さんが芸術院恩賜賞を受賞されるのでお祝いに伺ったのである。

 入り口で天皇皇后両陛下をお迎えしてから式典。他に文芸からはまど・みちお氏、馬場あき子氏、金子兜太氏が受賞された。

 終って両陛下がお発ちの後、外へ出ると、上野の森のホームレスの人がのんびりとちょっとした騒ぎを見ている。

 すぐ日本財団へ。午後1時から辞令交付。今度の人事異動では20数人が動いた。2時、毎日新聞・鈴木琢磨氏、3時、毎日新聞・重里徹也氏と岸俊光氏。4時、外務省から欧州局長・小松一郎氏。


6月3日

 財団で10時にカメルーンのシスター・末吉と、秋の来訪についての打ち合わせ。ヤウンデからシスターとピグミーたちの住む森までは、車で13時間。11時、『フォーサイト』の寺島哲也氏。


6月4日〜8日

 三戸浜。それから東京。7日午後は太一が東京の家に来てくれて、書庫の2度目の整理を手伝ってくれる。再びお風呂桶2はい分くらいの本を整理して出す。


6月9日

 田園調布署の署長さんが新しく来られたのでご挨拶。夕方、都内で、フジ・サンケイ・グループの方たちと夕食をしながら、少し不純に仕事の話も。


6月10日

 今日は日本財団の夏の賞与の支給日。とは言っても、無給の笹川陽平理事長と私には、何の関係もない話。午後ヘレンケラー・ワールド・ワイド(財団)のジョン・パーマー理事長来訪。水路協会・山本長会長。日本音楽財団・小林実会長。造幣局・西原篤夫理事長。それぞれ来訪。

 夕方から早稲田で東京国際大学の講演会。


6月11日

 昨夜、家の庭のテッポウユリはまだ蕾だった。このユリは新しいから切って行って「船の科学館」の工作船に供えるべきかと思ったが、ちょっと心の中で惜しいなあ、と思うけちな気分も動いた。夜中に、「明日ユリが開いていたら工作船に持って行こう。開いていなかったら、後でうちに飾る」と決めた。

 朝、起きると信じられないことだが、数輪がみごとに咲いていた。

 出勤前にバケツに切り立てのユリを入れて、「船の科学館」に飾りに寄った。ちょうど安倍晋三官房副長官が見えたので、ちょっとご挨拶してから財団に帰る。このユリについては、マスコミ関係者の1人が優しい配慮をしてくれた。

 「ほんとうはテッポウユリなんでしょうけど、ただユリと書いておきました。工作船の前にテッポウユリが捧げられたなんて書くと、また戦争がどうのこうのみたいな、余計なアレルギーを起す人もいるかもしれませんからね」

 「船の科学館」の見学者は毎日平均1万人。時には3〜4000人それを上回るようになった。しかし人の動線をうまく工夫するようになったので、待ち時間は段々短くなっている。最近、工作船のすぐ前に海上保安官が制服で立っていてくださるようになった。ほんとうはバッキンガムの衛兵交代のようなものさえあってもいいのだが、これでやっと市民が、海上保安官という任務についている人を見ることができたのである。

 午後は笹川記念会館・国際ホールで「ライフ・プランニング・センター」30周年の記念式典。私も日野原重明先生の前座で講演。

 夜は笹川理事長、尾形常務理事と、鰻屋で定例の意思疎通のための会食。


6月12日

 京都で産経「正論」懇話会の発足に当たっての講演会。アラブの格言は、どれほど今度の戦争の予後を見通しているかを例を上げてお見せした。夜遅く帰宅。


6月14日

 午後、私の自宅で行ったムウェテ・ムルアカさんの取材の時、私の小説に挿絵を描いてくださる毛利彰氏も同席されるよう、お招きした。

 今日の最高の勉強は、ルワンダの虐殺の原因となったフツ族とツチ族の顔や体つきの特徴を、写真から教えられたこと。ただしツチはフツの10分の1の人数しかいないと言われていたから、50人の子供が映った写真では、すくなくとも5人のツチがいるだろう、と思っていたのだが、1人しかいないという。フツがタヌキ顔で、ツチが狐顔だと思えばいいのだ。しかしこつを教わったつもりでも、私の人種区別はなかなかうまくいかない。毛利先生も私の小説の挿絵を1回手がけてくださると、画家の中でも例外的に正確にアフリカ人の人種を描きわけられる方になるだろう。

 ムルアカさんから、今度のアフリカ旅行では、ヨハネスブルグから、チャーター機を使う案が出された。確かに一理ある。まずアフリカではチャーター機が安い。ヨハネスブルグはそうした飛行機のチャーター場所として最適である。そうでなければ、ヨハネスブルグ、カメルーンのヤウンデ、コンゴ民主共和国のキンシャサ、川を越えたコンゴ共和国のブラザビル、アンゴラのルアンダ、を移動する間のどこかで必ず荷物の積み残し、定期便の欠航、乃至は長時間の遅れで、スケジュールはめちゃめちゃになること請け合い、だと思われる。

 夜はアメリカからシスター・江副富美子が夕食に来てくださる。アメリカでは神を指すのに「彼」ではいけないと騒ぐフェミニストの修道女がいる由。瑣末なことにこだわることが新しい意識だと思っている。神が「彼」でも「彼女」でもいけないのなら、「それ」にするか、ユダヤ人のようにその部分でただ黙すればいいだろう。


6月15日

 夕食を、線路向こうの(つまりごくご近所の)同級生の家で食べる。集った同級生4人の共通性は、手をかけた家庭料理を作り、ほんの少しお皿に凝る、ということだ。今普通の家庭料理のことをスロー・フードというそうだ。私の料理はうんと手早いのだから、やはりファースト・フードだと思うのだが……。


6月16日

 午後、法務省で行刑改革会議。

 アフリカでチャーター機をする問題をすぐに手配し、ヨハネスブルグの知人にその飛行機会社が信用できるものかどうかを第三者として確認してもらうよう指示。


6月17日

 アフリカ出張組、夏の聖地巡礼組、それぞれの日本財団からのメンバーが決まる。後はマスコミと省庁関係の人選をそれぞれに決めてもらうだけ。ドクターは、この春まで自衛隊病院で一佐として勤務した安田浩子さん。

 ところがまた私たちの計画に合わせるテンポで、仰天するようなニュースが送られて来た。私たちがまさに立ち寄ろうとしているアンゴラのルアンダ空港で、チャーター機のボーイング727が盗まれたのだ、という。詳細はまだわからないが、CIAはその飛行機がテロに使われることを恐れて捜査しているという。それほどのことはないんじゃないの? どこかでバラして部品はシートの布からトイレの便器まで売るのが目的なんじゃないの? だからもう今ごろは飛行機の原形を留めないまでに解体されているから、衛星写真で探しても見つからないんでしょうよ、と私は思うが、「何でもあり」のアフリカはまた1枚、新たな問題のカードを寄越したようなものだ。大型の自家用機まで空港で盗まれるとすれば、私たちは乗って来た飛行機に交代で不寝番でも立てる他はないのか。

 昼、三枝成彰氏がいらして、氏の主宰する六本木男声合唱団が、この9月にベルリンその他で三枝氏が作曲された「レクイエム」の公演を計画しているという。私がその歌詞を書いている。日本での凱旋公演は、12月9日、サントリーホールで。年の暮れがほの見えて来た。

 午後1時半、文化財保護振興財団の評議員会。4時、文化放送で「浜美枝の『いつかあなたと』」の番組収録。6時半、新国立劇場でヴェルディの『オテロ』。
 

工作船の展示、船の科学館で開始!  
「船の科学館」のホームページへ  
北朝鮮記事「私はこう考える」  
「日本財団図書館」へ  
「日本音楽財団」のホームページへ  


日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation