共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 自決力  
コラム名: 昼寝するお化け 第279回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 2003/07/11  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   先頃、日本抗加齢医学会理事の太田博明先生という方が、毎日新聞の「120歳まで元気に生きよう!」というシリーズの中で、更年期以後の女性の生き方について書いておられた。

 日本人の寿命がどんどん長くなって80余歳ということになると、50歳で更年期を迎えた後も、30年以上を生きて行くことになる。昔と違って女性たちは、行動の自由を得、栄養もよくなり、年齢を越えて学ぶこと、遊ぶこと、おしゃれをすることなどを自由に楽しむようになった。

 しかし一方で女性ホルモンである「エストロゲン」は、更年期以後は自然にしていれば、減る一方らしい。「この(エストロゲンの)低下に各種のストレスが加わると、のぼせ、・ほてり、発汗、抑うつ、不眠などのいわゆる.『更年期障害』といわれる症状が出て」来るのである。それらの症状を改善するのに、ホルモン補充療法というものがある。「女性のクオリティー・オブ・ライフ(生命の質)を保つためには、低下したエストロゲンを外から補うことは理にかなっているという。

 太田先生は、一方でこのホルモン補充療法によるマイナス面も上げておられる。乳がん、心筋こうそく、脳卒中、静脈血栓症、などに罹りやすくなる人がいる。「特に、肥満、喫煙、高脂血症、高血圧などの顕著な人は、このリスクが高まる」恐れもあるという。

 しかしこの記事がすがすがしかったのは、太田先生が、次のように結んでいられることだった。「補充を受ける際には、ホルモン補充療法について客観性のある説明ができる医者を選びましょう。話を十分聞いた上で、どうするかを決定するのは患者さん自身なのです」

 これはまことに当然なことなのだが、日本の大人たちの中には今でもこのように自立していない人がいる。「私はお医者じゃないんだから、そんなことわかるわけないじゃないの。決めるのは、お医者よ。そしてその結果には責任を持ってくれて当然じゃないの」

 と自分の体のことなのに、まるで人ごとなのである。

 この世で悪い面のないものはないらしい。あらゆる薬は毒性の面を持つとも言うから、両刃の剣なのである。考えてみれば、人間の性格もそうだ。短気の人は、決断は早いが判断を間違うこともある。熟慮する人は、多くの場合慎重に道を選ぶように見えるが、時期やチャンスといった大切なものを失する恐れがある。

 私は今働いている日本財団から、毎年「世界の最貧困を学ぶ」旅行に出ている。中央官庁の若手の公務員、マスコミ、日本財団の3者の混成部隊で、アフリカや南アメリカの貧困地帯に入るのだが、こうした土地には、私の知人のカトリックのシスターたちが、もう何年も水道も電気もない村に住み着いて働いていてくれるから、私たちは彼女たちを訪ねて行けばすんなりと土地に入れる。村の家を一軒一軒訪ね、小さな家に招じ入れてもらい、家族の話、食事に何を食べているか、お金は何で稼いでいるか、借金はあるか、借りていれば金利はいくらかなどということさえ聞くことができる。

 ただこの旅には、いつも1つの問題がある。それは旅行する国々が「あらゆる感染症は何でも取り揃えてあります」と言いたい土地なのである。メンバーの中の医師たちには「エイズ、エボラ出血熱、マラリア、結核、ハンセン病、何でもありのドクターたち垂涎の土地です」と恩にきせることにしている。

 しかし一般のメンバーにとって一番厄介なのは、マラリアに対する対処の仕方である。日本財団が企画した旅行なら、財団がマラリアに罹らないようにしろ、と言われてもそれだけはできない。

 私自身はもう30年以上こういう土地に入っているが、まだ一度もマラリアに罹らない。単に運がいいだけのことなのだろうが、私なりに防備はしている。決して半袖の服を着ない。マラリア蚊は夕方から夜にかけて出て来るのだから、その時間にはできるだけ外を出歩かないようにする。どうしても出る時には、必ず蚊とり線香を腰につけて歩く。とは言っても、この程度の防備で100パーセント安全というわけにはいかない。

 しかしマラリアの予防薬というものは、素人にはなかなか扱いがむずかしいものだ。私は不潔な食べ物にも薬にも強くて、どこの土地へ行っても必ず現地のものを食べ、たいていの薬を飲んでも胃など悪くならないし、食欲も落ちない。つまり鈍感にできているのがお得意だったのである。しかしマラリアの予防薬だけは違った。日本に帰国後も2か月間だけは週に1回だけは飲みなさい、と言われたので、その通りにしていたのだが、この薬だけは、鉄壁の如き丈夫な胃の持ち主であるはずの私が、運転していた車を止めて道端で吐いたくらい強かったのである。

 こうしたマラリアのある地方に暮らす日本人駐在員は、1年に1か月間はヨーロッパか日本で休暇を過ごすという。その間だけ、マラリアの予防薬を飲まずにいることで、肝臓を休めることができる、というのである。

 私は薬を吐いて以来、予防薬を飲まないことにした。まず蚊の出る時間にはできるだけ戸外に出ない。長袖を着て防備する。普段から畑で使っている農耕用の蚊とり線香をこまめにつけて歩く。夕食後は、修道院に入ったように極めて禁欲的に早く寝る。現地の体験者の話に、マラリアに罹るかどうかは、蚊に刺されないこともあるが、刺されても過労でなければ発症しなくて済むらしいとわかったからである。「2階へ昇る階段がどうも辛いと思ったら、予兆ですからすぐ仕事を止めて寝ます。そうするとどうにか出なくて済みます」と言った人もいる。

 「世界の最貧困を学ぶ」旅に出る前に、私は必ずメンバーに言うことにした。予防薬を飲んで肝臓に負担がかかってもマラリアを防ぐか、運にかけて予防薬は飲まずにやってみるか、どうぞご自分でお選びください、と言うのである。不思議なことに、日本国内ではマラリアの予防薬を汚染地域への旅行予定者が買うことができない。仕方がないから、パリ、フランクフルト、ロンドンなどに着くとすぐ財団の職員が薬を買いに走る。飲みたい希望者には配る。しかしお飲みなさいとは言わない。

 昨今の日本人にもっとも欠けているのは、自分で運命を選択するという「自決力」である。必要なデータを与えられれば、どちらのメリットとデメリットを取るかは、当人が決める他はない。自分の体と性格を一番よく知っているのは当人なのだ。そしてまた、完璧とか100パーセントの安全というものもこの世にはないということを、よくよく自分の心に言い聞かすことである。
 

「アフリカ貧困視察2002」シリーズ  


日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation