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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 初めて訪ねたイラン(中) アラブの心とペルシャの心  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2003/06/10  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 「おしんによろしく」 ≫

 テヘラン市北端の山の斜面にある世界最長といわれるロープウェーで、山頂を折り返し始発駅に戻った。往復で約6400メートル、約2時間案内役のレザ君と2人乗りのゴンドラの旅であった。始発駅には、100人ほどの黒い布をかぶった女子大生が、ロープ・ウェーの出発を待っていた。イランでは女性にカメラを向けてはいけないと聞いていたが、意外にも「どうぞ撮ってください」との返事だった。何枚か撮らせてもらって「Thank you, ヘイリー・マムヌーン(ベルシャ語のどうもありがとう)」と言ったら、ペルシャ語で何か言いつつ、手を振ってくれた。

 レザくんに通訳してもらう、「日本に帰ったら、おしんによろしく伝えてね」と言っている。イランではおしんの連続TVは、超人気番組だったという。東南アジアの農村ならともかく、インド・ヨーロッパ系のアーリア人の子孫であるイランの人々の間で、純日本風忍耐は美徳の物語、「おしん」がそんなに人気があったとは思わなかった。日本で6年の出稼ぎの経験をもつレザ君はこう言った。

 「イラン人には日本人の気持ちがわかるんだ。でも、アラブ人には、日本のおしんの話は理解できないよ」。

 中東の細長い海を隔てて、隣同士に位置する2つのイスラム圏、そこに住むイラン人とアラブ人は、同じ絶対神アッラーの信者であっても、それぞれの文化も気風も大いに異なることを彼に知らされ、はっとしたのである。

 イラン史を振り返ってみる。イランがアラブの侵攻によってイスラム化したのは7世紀のことだ。

 イラン人、というよりもペルシャ人たちは、農業の発展を背景に絢爛たる文化を築いていた。ササン朝ペルシャの美術の影響は、中国を経由して遠く日本の飛鳥・奈良時代の文化にまで及んでいた。ところがササン朝(イランの前身)は、中東のもうひとつの文明圏ビザンティン帝国(キリスト教東方正教)と長年にわたる戦いで、少しずつ疲弊していった。

 この2つの文明圏の戦いが、アラビア半島でイスラム教を生む土壌を形成し、ひいてはペルシャがアラブに占領される遠因となった。この戦いによって、東西を結ぶ大陸の交通路が遮断され、迂回路としてずっと南のアラビア半島の交易ルートが発達した。
 
 その結果、紅海の海岸から100キロも離れた荒涼とした丘陵の土地、メッカは隊商貿易の中心地となり、都市の大商人と伝統的な遊牧民との間の貧富の差が拡大した。貿易による経済の繁栄は、アラビアの古い部族制社会を揺さぶり、社会不安を増大させた。

 こうした社会的混乱状況が預言者マホメットの出現を促したのである。彼は、現世に平等な社会「ウンマ」の建設を説き、コーランの教えをもとに、崩れた部族社会を、統一アラブ教団国家として結束させた。

 それだけではない。ササン朝ペルシャが、ビザンチン・キリスト教文明と戦ったおかげで、アラビア半島は繁栄し、それ故に発生したアラブ教団国家に滅ぼされ、アラブの宗教であるイスラムにあっという間に改宗させられた。歴史とはなんと皮肉なことか。


≪ 「アラブ人はお好きですか?」 ≫

 「風が吹けば桶屋がもうかる」を地でいくような話だが、それがイランという国にとって幸いだったのか、それとも不運の歴史の始まりだったのか?歴史に“IF”はないから、イスラムなかりせば、イランはどうなっていたかを考えることは、“クレオパトラの鼻が、もうちょっと低かったら”の類の話で、いまさらそれを言ってもはじまらない。

 でもペルシャという国は、イスラム導入以来、この単純明快なアラブの宗教といかにうまくつき合うか、そして、アーリア民族としてのペルシャ人の誇りをいかにして、征服者アラブに対して維持するか、苦労したのではないか。この旅行を前にイラン史を通読した私はそう思っていたのである。

 話を元に戻そう。「アラブ人にはおしんの話はわからないよ」といったレザ君に、「イラン人はアラブ人を好きか」とずばり聞いてみたのである。

 「ホメイニはね、アラブ人はいい人だと宣伝したが、イラン人の本音は、アラブ人が好きじゃない」と明快な答えが戻ってきた。私のイラン史の裏読み的解釈は、当らずと言えども遠からずであったのかも知れない。

 テヘランに住むイランの知識人に、ペルシャの心とアラブの心を聞いてみたのである。ちなみに「イラン」と「ペルシャ」はどう違うのか。かくいう私もテヘランに出かけるにあたり、イラン史を学習するまでは、いささかあやふやであった。双方とも同じ事柄をさしている呼称であることはいうまでもない。かつてイランはペルシャと呼ばれていた。ペルシャは、先祖のアーリア人が、最初に入植した地方だった。1934年、パーレビ国王の父親、レザ・カーンが、この国の近代化の一環として「イラン=アーリア(高貴な人々という意味)と改名した。しかし、この国の伝統的文化については、いまでもペルシャ(ペルシャ美術、ペルシャ絨毯とか)と呼んでいるのだ。

 「そう。アラブとペルシャは宗教は同じイスラムでも、文化と歴史が違うから、イラン人は必ずしもアラブ人が好きではない。その証拠に例えばね、小さな子が親の制止を聞かずに、オムツのまま外に飛び出したとする。すると親は“ダメ。お前はアラブ人じゃないんだよ”と大声で叱りながら追いかける」。この知識人の答えも、案内役のレザ君と大同小異であった。

 ペルシャは7世紀、伝統宗教、ゾロアスター教から、アラブの宗教、イスラム教に帰依したことはすでに述べた。おまけにマホメットの統一アラブ教団国家建設の故事に習って、1979年にはイスラム革命まで起こし「神政イスラム国家」を宣言したのがイラン人である。だが、そのイラン人も古代から刷り込まれたカルチャーは、異なっていた。

 アラビア半島とシリア砂漠でラクダを飼う遊牧民であったアラブ人と、その頃すでに高度な文明をもっていたイラン人との間には、文化の洗練度や気持ちの繊細さにおいてかなりの隔たりがあったのではないのか。


≪ 「幸せです」イランの日本人妻 ≫

 隣のアラブ人嫌いのイラン人は、むしろ地理的に遠く、しかも異教徒の日本人と気持ちが通い合うところがあるらしい。テヘランに長年駐在している、丸紅の現地法人社長の野田修さんにイラン人の心について聞いてみた。

 「イラン人は、アラブ人に対して心の底では優越感をもっているようだ。日本人に対しては親近感をもっている。日本に出稼ぎで、5年なり10年なり住んだのち、帰国したイラン人で、日本人に悪い感情をもっている人はまずいないのではないか。イスラム教徒なのに日本の神道の葬式は素晴しかったなどという日本帰りの知識人もいます」とのことだ。

 日・イ合作映画「ファルダー」(ペルシャ語で明日という意味)が、2002年にテヘランで上映され評判になったという。

 イラン人の出稼ぎ労働者を大勢使っていた日本の中小企業が、バブル経済の崩壊で倒産した。イラン人労働者たちは不況の日本で他に就職もなく、ビザも期限切れとなってしまった。彼らは給料も未払いのままやむなく帰国してしまった。義理と人情に厚いこの倒産会社の社長は、私財を整理して手元に残った現金で、未払いの給料を支払うべくイランにやってきた。預かった履歴書に記載された住所を頼りに、元従業員を1人ひとり捜し歩くという筋書きだ。

 日本では「旅の途中で」の題名で上映されたとのことだが、この映画がイランでは大変うけたという。

 「どうしてかといいますとね、イラン人も義理人情が好きなんですよ。日本人とイラン人、どうやら人情の機微をキャッチする周波数が似ているらしいんです」。野田さんはそう言う。現代イラン人の映画鑑賞力は大変優れているとのことだ。というのは79年のイスラム革命後、宗教上のタブーで言語による表現の自由が大幅に規制されたので、“目は口ほどに物を言う”表情豊かな映画が開発されたからだという。

 「イラン人は繊細なんです。イラン人の心は日本人に近い。イラン人の出稼ぎ労働者と結婚して、この国にやってきた日本人妻がテヘランを中心に200人います。“心から幸せです”という人が多いです。イラン人の夫は、マメで奥さんにやさしいんですよ。それに、日本の女性が1人で見知らぬ遠い国に嫁に来てくれたといって、親戚中が可愛がってくれる」。テヘランの高級住宅街にある野田邸に集まった日本人駐在員たちから聞いた話である。
 



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