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私は産経新聞の「朝の詩」の愛読者だが、5月15日付の宮川優さんという方の詩は、文学的な気分を離れて、強烈な社会的な意味にうたれて拝読した。引用しなければ、記憶しておられる方も少ないかもしれないので、再びご紹介させて頂く。
「凧が空高く飛べるのは 誰かが糸を 引っぱっているから でも凧は その糸さえなければ もっと自由に 空を飛べると 思っている その糸がなければ 地上に 落ちてしまうのも 知らずに」
今の若者たちは、自分の責任において自由に暮らす分には、少しも悪くない、誰に文句を言われる筋合いもない、と思うから、フリーターもたくさん生まれる。もちろんほんとうに職がないから止むなくフリーターをしている人もいるのだが、親に少しお金を援助してもらったり、親の家に住まわせてもらったりしていれば、フリーターで何とか生きていける、というわけだ。
作家の生活でも若い時代に誰もが同じような不安定な生活を強いられる時がある。危険を犯して小説一筋に貧乏にも耐え自ら退路を遮断して作家になる道を選ぶか、最低の職業だけは放棄せず夜と週末にだけ書いて一人前になるか、いずれかであった。この2つの道は、どちらがいいとか悪いとかいうものではない。当人の性格、到達への道程の選び方で決まるのである。
自由とは、自分がしたいことをすることではなく、するべき義務を果たすことだという。
昨今増えつつあるフリーターを寛大に容認することには、いささかの問題もある。もちろんほんとうに職のない人もいるが、青年もまた社会人としての義務を果たさねばならないからである。一定の年になったら、自分の将来を設計し、親の晩年の生活をみるのが義務だろう。逆説的だが、人間としての義務に縛られてこそ、初めて凧は悠々と悲しみと愛を知って空を舞う。
最近はボランティア活動も盛んだが、気になる傾向もある。ボランティアは、身近な人から手を差し伸べるのが順序だが、遠くの人、今なら流行の「イラクの戦後処理」のようなマスコミのハイライトを浴びる面にだけ、馳せ参じたがる人もいる。ボランティアは、まず自分の親兄弟や、隣に住む老人など、身近な人の困窮を見捨てないことだ。
凧の糸は、失敗、苦労、不運、貧乏、家族に対する扶養義務、自分や家族の病気に対する精神的支援、理解されないこと、誤解されること、などのことだ。それらは確かに自由を縛るようには見えるが、その重い糸に縛られた時に、初めて凧は強風の青空に昂然と舞うのである。
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