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小説家には、協会のようなものがあるのですか、と時々聞かれることがある。推理小説の専門家も、脚本を書かれる方たちも、詩人たちも、それぞれにグループがあるはずだが、私が入っているのは日本文芸家協会と言って、原稿収入を得ている人なら、どのような作品を書く人でも入れてもらえ、創作をして生きて行く上での、或いは著作権の上での、多くの権利を守ってもらう同業者の組織である。
もう1つ、日本ペンクラブというのがあるが、私は或る時から脱退した。その理由は、今度新しい会長に就任された井上ひさし氏の「就任の挨拶」にもよく現れている。井上氏は「私は言論のとりでを守り、反戦反核を貫くペンの精神を若い方々に引き継ぐ踏み石です」と言われたと新聞は報じている。
多分私を含めて多くの作家たちが、反戦であり、反核でもあろう。しかし作家というものは、実に雑多な、個人的情熱を持って書くのだ。私はそれを「作家は私怨で書く」と言っている。肉親への愛憎が私怨になることもあり、戦争、貧乏、病気、異性関係、などが私怨になることは多い。ただ私は女々しい性格なので、反核・反戦くらいでは、いい小説は書けないとわかっている。もっと個人的恨みが深くないとだめなのである。
反戦・反核で書き続ける人もいて当然なのだ。しかしそれと同じくらい、別の理由で書く人もいるのである。私は残る短い余生を、悪の追究をして作品を書きたいと思っているのだが、それは直ちに反戦にも反核にも結びつかない。小説で結論を書けば説明になる。描写とは経過を書いて、結論は読者に出してもらうものだと私は思っている。
もう1つ、私が日本ペンクラブを脱退した理由は、この組織がすぐアピールを出すようになったからだった。ペンクラブの会員たちは、誰もがものを書く人たちだ。詩歌、演劇、エッセイ、評論、どれも世の中に働きかける大きな方途で、会員は個別にその力を持つ人たちばかりなのだ。彼らがそれこそあらゆる媒体で、独自の言葉で反戦・反核を表現できるのに、何で衆を頼んで、同じ文章でアピールを出さなければならないのか私にはわからないからである。
同じ気持ちを表すのにも、私は「一言だってこの言葉は使いたくない」「どうしてもこの字句を使いたい」と思う時がある。既製品のアピールの文章に妥協しなくても、反戦・反核の意図は充分に伝えられる筈だ。
さらに、反核・反戦でなければ作家とは言えないこともない。犯罪者も、性的倒錯者も、守銭奴も、色情狂も、誰もが作家たり得ることは、世界の文学史が証明している。フィランソロピストも平和主義者もその1人に過ぎない。
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