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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: バルカン紀行 葬送、ユーゴスラビア(下)  
コラム名: 旅日記 地球の裏読み  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2003/04  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   この読みものは、2年前の私の旅日記をもとに綴ったありし日のユーゴスラビアものがたりの後編である。「ありし日」とわざわざ断ったのは、「ユーゴ」なるものは、もはやこの世に存在しないからだ。2つの共和国によってかろうじて保っていた連邦は、2003年2月5日をもって解消し、「ユーゴスラビア」の地名は、世界地図から消えてしまった。新しい名称は「セルビア・モンテネグロ共和国連合」。ひとつの家に同居している夫婦が、それぞれ別の苗字の表札を出しているような変てこな国名だが、近い将来の離婚、つまりモンテネグロの独立の前兆とみなされている。以下は前編のセルビアにひきつづき、モンテネグロで見聞した解体前夜の連邦の風景だ。


≪ 山と海の小国モンテネグロ ≫

 2001年の5月、セルビアの首都ベオグラードから飛行機で1時間も飛んだら、モンテネグロの首都、ポドゴリツァであった。共和国の総人口は65万人、ここは人口16万人の小じんまりとした首都だ。セルビアとモンテネグロは地理学的にいうと別世界だ。セルビアは、それほど高くない山と平野で構成され豊かな農地がある。モンテネグロは、険しい山岳と海からなり、平野と呼べるほどの広さをもつ平地はない。その代わり、アメリカのグランドキャニオンに次ぐ、世界第2の長さをもつモラサ・タラ峡谷や、アドリア海のダーク・ブルーの海岸がある。

 町を散策する。針葉樹のうっそうと茂る黒に限りなく近い濃い緑の山(モンテネグロとは黒い山という意味)から流れる渓谷が、市中を何本か横切っている。コバルト色の水の流れは速く、岩に砕けて散るしぶきが冷たい。このあたりから地中海性気候の圏内に入るそうで、中央ヨーロッパの内陸性気候のセルビアとは風土を異にしている。黒松と杉の林が多い。ブドウ畑もあるとのことだ。「モンテネグロの赤ワインにはいいものがある」。同行の通訳、山崎ひろしさんがそう言った。山崎さんは、セルビア在住20年、お父さんはユーゴ人、お母さんは日本人で、ベオグラード大学で、日本学を教えている。

 この町はベオグラードとは雰囲気が異なる。私にとってはそれは自然が形成する風土の違い以上に、人間の営む文化の違いに由来するように思えた。同じ連邦でも違う土地にやってきた??のを実感したのは、この国の文字と通貨だった。言葉は同じセルビア語なのに、使用文字は、ロシア語のアルファベットのキリールではなくローマ字であることに、気づいたのだ。

 韓国旅行中にハングル文字が、突如として仮名文字になったようなもので、親しみがもてる。銀行で、ドルを、ディナール(ユーゴの共通通貨)に替えようとしたら、ドイツ・マルクを勧められた。ベオグラードの銀行では考えられないことだ。このお札を使って街角のテラスでコーヒーを飲んだら、エスプレッソ1杯、1マルク(約65円)だった。

 山間の曲がりくねった舗装道路をマイクロバスで縫うように走ること3時間、人口2万人のモンテネグロの古都、ツェティーネに入った。

 「第2次大戦中、山の民モンテネグロは、チトーの率いる対ナチス軍バルチザンに参加、勇猛果敢に闘った。その結果、戦後ユーゴスラビアの一共和国と認知された。1946年、首都をツェティーネからポドゴリツァに移し、チトーグラードと改名された。ポドゴリツァはモダン都市で、旅人の興味をそそるような場所はない」。持参の旅行案内書「Lonely Planet 東欧編」にはそう書いてあった。ちなみに、日本語で書かれたユーゴの旅行案内書はない。

 中世のバルカン諸国は、半島を北上してきたオスマン・トルコによって4世紀の間、占領された。しかし、このツェティーネを都とする山岳国家、モンテネグロは唯一の例外として、トルコ軍の進入を食い止め、独立を死守した歴史を持つ。ここに到達する道中は、山また山、段々畠が時折、展開するが、あとは原生林で昼間もなお暗い。「箱根の山は天下の嶮」みたいなところだ。「こんなところ誰も攻めて来る奴はいない」と思っているうちに山上の古都に着く。王宮と呼ぶには、あまりにも小さく、質素な元王宮の建物が博物館になっていた。

≪ 「日露戦争の講和条約がまだ済んでません!」 ≫

 「自然の要塞が、古都をトルコ軍の攻略から守ったのは確かです。でもそれだけではなく、モンテネグロの山の部族は、白兵戦が強い。男たちは戦のないときは、酒を酌み交わし、一弦琴の弾き語りで、英雄の叙事詩を互いに朗読する。私たちの国は、武を尊ぶサムライです」。われわれ一行が日本人だと知って博物館の中年の学芸員女史がそう言った。

 この女性、博士号を持っているそうだが、たんなる物識りではなく、見学客を逸らさない話術の持ち主だった。

 「この女博士さん、日本人の珍客が来たので張り切ってますよ。彼女、モンテネグロと日本は、日露戦争当時の講和条約がいまだ締結されてない??と言ってます」

 通訳の山崎さんがそう言う。

 「エッ、冗談言ってるんでしょ」

 「いいえ、本当の話ですって」

 彼女の説はこうであった。日露戦争当時、モンテネグロ公国はロシアと同盟を結んでいた。そこで1904年(明治37年)、この国は同盟のよしみをもって日露戦争に参戦、兵を満州に送った。今風に言うと集団的自衛権の行使だ。

 日露は、米国のポーツマスで講和条約を結んだが、ロシアも日本もモンテネグロの同盟軍を無視し、なんの呼びかけもなかった。だから、国際法上、日本とモンテネグロは、交戦状態が続いていると。

 資料のケースには、日本の勲章や、外交文書らしきものも展示されていた。「日本に帰ったら、外務省の人に平和条約結びましょうと伝えて下さい。お互いにサムライの国なんだから…」半分真顔でそう言った。

 この地は標高800メートル、山に囲まれたスリ鉢状の盆地だ。周囲の山々の組成は石灰石なので、雨が降り続くと、伏流水が地上にあふれ洪水になるという。

 この高原の町には、旧王宮の他に正教の修道院や旧大使館街がある。元イタリア大使館が一番大きな建物だった。

 20キロほど離れたところに霊峰と呼ばれるロブセン山(1749メートル)があり、頂上に16世紀のこの国の中興の祖、ペトロヴィッチ・ニェゴス公の墓がある。聖職者兼詩人だったそうで、山の民としての質実剛健、英雄と武を好む気風は、この頃から養い育てられた部族特有の文化だという。

≪ 小話にみるモンテネグロ気質 ≫

 山の古都から30キロも西のアドリア海に向かう。途中、断崖絶壁が何箇所もあり、転落した車が木に引っかかっていた。斜面に岩で塀を作り、土を貯めてジャガイモを栽培していた。山の民をとり囲む自然の条件は厳しい。

 「このあたりは、昔から外界から隔離された地域ですよ。だから彼らの文化は、平地の民であるセルビア人とは違うんです」

 山崎さんが、セルビア人の作った小話を教えてくれた。

【小話その1】
 質実剛健が売りものの田舎もののモンテネグロ人の息子が、医学部に入学、労働医学を専攻した。そしたらオヤジが突如、怒り出した。「バカモン、労働は病気じゃーない!」と。

【小話その2】
 負け惜しみの強いのがモンテネグロ人の特徴だ。ロシア人が「俺の国は広い」と自慢した。モンテネグロ人はすかさず言った。「俺の国も結構広いよ。アイロンかけて平にすればな」(この国の面積は1万3000平方キロ、東京、神奈川、埼玉、千葉の合計と同じくらい)。

【小話その3】
 モンテネグロの南端に「スカダル」というバルカン最大の湖があり、中央にアルバニアとの国境線が通っている。アルバニア人は地中海からやってきた民族で、スラブ人ではないというところから、モンテネグロ人とは仲が悪い。

 アルバニアは、遠交近政策をとり、毛沢東と手を結んだ。そこでこんな小話もある。

 「天敵アルバニアの同盟国の中国が攻めて来たらどうする?」「あの国、人口が多いので、攻めて来たら困るなあ。奴らをやっつけるのはたやすいが、葬ってやる場所がない、俺の国、小さいから」

 急唆な山道をバスでジグザグに、1時間ほど下降する。黒い森林地帯が終わり突如として、視界が開けた。眼下にアドリア海が、コバルト色に輝いていた。「モンテネグロは、小さな国だが、世界にも稀な観光資源をもっている。山と海のコントラストだ。とりわけ海岸の美観たるや旅人を魅了する」。ツェティーネの土産屋で求めた観光案内書には、そう書いてある。


≪ アドリア海・欧州一の観光スポット ≫

 この国の海岸は素晴らしい。アドリア海沿いに300キロの海岸線をもち、砂、小石、もしくは岩の浜辺が117ヶ所もあるという。ヴドバの町に入る。オレンジがたわわに実っている。樹齢2000年と称するオリーブの大木と対面した。その背後には黒松の林が。典型的な南欧の景色だ。

 この町の海浜は、1936年パリで開かれた世界観光地コンテストで、欧州で最も美しい観光スポットとして、グランプリを獲得したという。北からクロアチア、モンテネグロ、アルバニアと続くアドリア海東岸一帯は、紀元前はローマ帝国の属領だった。

 クロアチアやモンテネグロ人のような南スラブ民族が、ここに移り住んだのは、7世紀以降のことだ。それ以前のモンテネグロ海岸は、ベネチアの植民地だった。その頃の街並みが無傷で残っていたが、1979年のモンテネグロ大地震で倒壊した。しかし社会主義の時代、豊かな大国であったユーゴスラビアは、大金を注ぎ込んで、数年で昔の趣を復元した。

 案内書には、「モンテネグロ海岸地帯は、地中海性気候で、夏の平均気温は27度、冬は寒くても10度。1年間で晴れの日が220日、年の半分は海水浴可。海の色はコバルト色、透明度は38〜50メートル。波はいつも静かで、波高2メートル以上になることは稀。沿岸で獲れる魚は116種類、このほか、多くの種類の貝が生息している」とある。

 ヴドバの町とその北にあるフィヨルドの入江、コトラには、1泊5ドルの大衆向け民宿から、数百ドルの超豪華なホテルや貸別荘が並んでいる。夏のシーズンの3ヶ月で1年分の収入を稼いでしまうとのことだ。それでもアドリア海の対岸にあるイタリアの観光地に比べれば、はるかに安くて、海も美しいので、ヨーロッパのリゾートの穴場である。

 コトラの入江の水深12メートルの海に小さな人口島がある。ここに1754年に建設された聖母教会を舟で訪ねた。200年かかって島を造り、100年かかって建物を作ったという。カトリックではなく正教(東方教会)だった。船乗りの守り神で、さしずめ正教の金比羅さんといったところか。

 「入江のほとりには南スラブ人として初の航海学校が設立され、200隻の帆船隊をもっていた」

 堂守りの老人の話だ。

 この学校は、モンテネグロ大学海洋学部の前身だ。海洋学部に立ち寄ってみた。

 「モンテネグロ人の船乗りとしての文化はこの入江に脈々と続いています。でも悩みは本学部に練習船がないこと。10年にも及ぶ西側の経済封鎖で維持費がまかなえず廃船になってしまった」

 学部長氏の嘆きだが、海の美しさだけは、昔も今も変らない。

 「19世紀の初頭、ゲーテはこのあたりを旅行してます。『イタリア紀行』に、イタリア側よりモンテネグロから見たアドリア海の方がはるかに美しい。神は不公平だ??という意味の1節があります」山崎さんの解説である。


≪ ブヤノビッチ首相会見記 ≫

 この国のフィリップ・ブヤノビッチ首相と会見した。私の旅日記によると2001年5月19日のできごとだった。首相は言った。

 「1918年までモンテネグロは独立国だった。ソ連崩壊をきっかけにこの10年間で、ユーゴスラビア連邦を構成した6つの共和国のうち、4つの共和国が独立し、連邦の盟主、セルビア共和国から離れていった。われわれモンテネグロ共和国のみが、セルビアと連邦を組んでいる。これを新ユーゴと称しているが、このシステムは、モンテネグロにとっては対等の共和国連邦とは言い難い」

??でも、2つの共和国は対等の立場で連邦を組み、双方の合意で、セルビアの首都ベオグラードに連邦の政府を置いたのではなかったのか。

 「そう。形式的には平等だが、実質的にはセルビアヘの従属を余儀なくされている。セルビアはわが共和国の16倍の国土をもち、人口も15倍ある。あらゆる経済指標からみても、そして国の生成の歴史や固有の文化からみても、この2つの共和国が1つの連邦の中で、対等に共生することはどだい無理なんだ。例えば、同じ言語を話すといっても、使用文字が異なっている。文化も微妙に異なっているのだ。国も、国家も、通貨も違うのだ」

??ソ連の崩壊で共通の脅威がなくなった以上、もうセルビアと手を組む必要がなくなったのか。

 「対ロシアもさることながら、ミロシェビッチのようにかつてのユーゴスラビア王国の盟主をめざす大セルビア主義者を生んだ国と同居するのは、危険なのだ。私の願望は独立であり、国民の多くはこれを支持している。モンテネグロには天然資源がある。海と山の観光で大きく外貨を稼ぐこともできる。山の向こうのセルビアではなくて、アドリア海に将来の発展の可能性を画くべきなのだ。われわれが独立すれば、ユーゴスラビア解体の全プロセスが終るのだ」


≪ 離婚の構図「そして誰もいなくなる」 ≫

 私と山崎さんは、首相との会見の後、セルビア・モンテネグロの「離婚の構図」とバルカンのゲオポリティーク(地政学)について、一晩じっくり語り合った。以下は当時の問答のメモだ。

??セルビアは海のない国になる。モンテネグロと離婚すればね。いずれ離婚でしょ。

 「モンテネグロは、セルビアから心が離れてしまっていることはまぎれもない事実だ。アドリア海で、イタリアの密輸船を連邦軍(事実上セルビア軍)が捕獲したら、船にモンテネグロの警官が乗船しており、入港の手引きをしていたなんていう話さえある。モンテネグロの予算の3分の2は欧米の援助で成り立っている。セルビアより外国の受けははるかによいのだ。彼らは確実に西欧に向かって行く」

??セルビアは、バルカン半島の憎まれっ子なのか。

 「バルカン半島は、東西と南北に異文化の行き交う十字路だった。その要衝を占めるセルビアは強国だった。異文化イスラムの進入とたたかっただけでなく、ときには東西、南北の隣国を制覇した。だから、高速道路の真ん中に建てられて不法建築の家みたいに、まわりの国から嫌われ邪魔者扱いされる。そのフィナーレが、NATOの空爆と、西欧によるミロシェヴィッチの戦犯裁判だ」

??ユーゴの各共和国は、もともと同根同種のルーツをもって、ユーラシア西部から移住してきた南スラブ人だろう。それなのにどうして、かくも憎しみが増幅されたのだろうか。

 「バルカンの内陸部は、山と渓谷で、幾つもの地域に分断されている。もともと同じ文化に属していた南スラブの民族も、何世紀もの間、地理的に隔てられて別居しているうちに、気風が変化し、互いに異邦人化していったんだ。対ナチス、対スターリンの政治的事情で、セルビアを親分とする『大ユーゴスラビア』の旗のもとに、いったんは結束した。だが、国際政治の大状況が変化すれば、6つの共和国はばらばらになる運命にあったのではないか」

 以上が、地球の裏読みレポート「葬送、ユーゴスラビア」の結語である。3年後には、モンテネグロの独立を問う住民投票が行われる見込みで、離婚が正式に決まる。ユーゴ時代のセルビアの仲間は、そして誰もいなくなる。
 



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