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水も電気も食料もないほど、自国が外国の軍隊に荒らされた。誰が一番悪いかというと、自国をそういう状態に陥れた為政者が一番悪いのである。しかし人々はそうは考えなかった。自分たちが頼んでもいないのに国土に攻め込み、町の機能を破壊したのはアメリカなのだから、彼らが水も食料も持ってくるのは当然だ。持って来方は遅過ぎ、少な過ぎると考えたのである。
イラクでの食料配給の現場をほんのわずかなテレビの画面が伝えていたが、「我がち」の混乱もあった。兵士たちは、こうした援助物資を配るベテランではないから、うまく配れないのも当然だ、と庇う発言もあった。
一旦もらった男が再び知らん顔をして列に並んでも、アメリカ兵にはアラブ人を人相で判断することはできまい。名前だって、イスラムの人たちは同じ名前が多いから、外国人はどうして個人を判別したらいいのかわからない。
イギリスもアメリカも、こうした物資の補給は人道の故だ、と考える。しかしもらう方は、現在も今後も、そうは思わないだろう。相手(アメリカとイギリス)は、悪いことをしたという自覚があるから、持って来たのだ。それならもっと取ってやればいい、という論理である。
戦後の沖縄で聞いた話で、今でも忘れられないものがある。1945年の沖縄戦の時、12歳の少女だった人が後年語ってくれた体験である。渡嘉敷島の村民の一部が玉砕した日、彼女たち3人姉弟は、両親が自決した後もまだ生きていた。一番下の弟は2歳で、死んだ母の乳房にすがっていた。
そこにアメリカ兵が来て、姉弟にチョコレートを差し出した。すると近くにいた年上の女たちが、「毒が入っているんだから、食べてはいけないよ」と注意した。
12歳の少女は考えた。どうせ皆死んだのだ。お母さんが死んでおっぱいもなくなれば弟も生きていないだろう。だからこの毒入りのチョコレートを与えて死なせればいい。12歳の少女はアメリカ兵からチョコレートを受け取り、それを弟に与えた。その時それを見守っていたアメリカ兵は激しく泣きだした。少女はその涙を長い間忘れなかった。
ここに登場するのは、恐ろしく高級な意識を持った2人である。若いアメリカ兵も戦いと人命について深い人間的思慮を持っていた。そして少女もまた12歳ながら、「死を受け取る」という堂々たる選択を果たした。しかしこんな高度な、抑制の効いた精神的関係は、先進国でしか発生しないだろう、と思う。
もっともこのアメリカ兵については、彼は恐らくそれまで、どうしたらいいかわからなかったのだが、その深い困惑が受理された時、安堵のあまり涙したのだ、と解釈する日本の若者もいる。
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