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経済の専門家である『財界』の読者に、私のような素人が言うべきことではないと思うのだが、私は7年半前に日本財団の責任者の1人となった時、驚いたことがある。それは、単価というものの意識がないことだった。
財団は、ノートや大根を売るわけではない。シンポジウムや○○会議といったものを主催して、良質の知的刺激を広く社会に与えるというのも活動の1つだから、開催自体は有意義なことなのだが、私はその会合にかかる出席者1人当たりの単価に眼をむいた。
たとえば私が就任して間もなく開かれた国際会議の1人当たりの経費には、6万円を越していたものがある。参加者はそのテーマに興味のある方なら、どなたでも、という会議である。「どうして見ず知らずの方1人ずつにそんなにお金をかけなければいけないんですか。結婚式の披露宴だって、そんなにかけなくて済みます」
と私は言った。まず会場が、立派すぎる。簡単なものだろうがお弁当をつける、という。山の中の会場なら別だが、参加者にお弁当を出す必要など全くないと思う。24時間営業のコンビニはどこにでもあるし、奥さんの手作りのおにぎりもいい。日本の男はなぜかおにぎりが大好きだ。
7年前だからそうだったのかもしれないが、組織には「かかるものはかかる」という発想があった。しかし人生とはそんなものではない。「できるだけで済ます」精神もあってこそ、心が柔軟でいられる。外国から講師を2人招待する予定だったが予算がきついなら、1人にすればいい。それがこの世の自然な姿だ。
私はサベツ感を持っていて、男性で、ことに大きな予算を動かすポストに何十年もいた人は、多かれ少なかれ感覚と常識が狂って来ている、と今でも思っている。「かかるものはかかる」なのである。その点、女性はそんなに浮き上がらない。広い意味で講演会のようなものは、1人当たりにかかる単価はいくら、と一応のラインを出している。もちろん本当に必要な時には、採算度外視する闊達さも大切なことなのだが……。
それ以来日本財団では、1人当たりのコストをきちんと算出して書類を出すようになっている。
先日も口の悪い男性の友達が、「そういうことを言うから、あんたは財団で困られているんだよ」
と嬉しそうに言う。それで私もまた反省の色もなく、「だから、私がやめた時、皆嬉しくて嬉しくてたまらなくなるのよ。やめた日には社屋全体がバンザイよ。そういう喜びを職員に与えることも、また短篇小説になりそうないいことなのよ」
と答えておいた。
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