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2月、世界保健機関(WHO)の特別大使として「ハンセン病制圧の国際会議」に出席するため、1年半ぶりにミャンマーを訪れました。この国際会議の直前、ミャンマーは国をあげた運動の結果、見事にハンセン病の制圧国となりました。
ミャンマーは3年後の2006年、東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議を開催することが決まっています。訪れた首都ヤンゴンでは、着々と街並みの整備が始まっていました。
ミャンマーの正式名称は20の州からなる「ミャンマー連邦」、人口比率約70%のビルマ人をはじめ、約50の少数民族からなる多民族国家です。ビルマ人以外の人々の多くは辺境地帯の州に点在し、それぞれが固有の文化を持ち、いまなお独自の軍隊を持っている民族もあります。
現在、カレン族を除いた少数民族は、中央の軍事政権と和平協定を結んで一応の平穏を保っています。しかし、一朝事あれば、武器を手に各々独立要求の挙にでる可能性が大きいとみられています。彼らの武器購入の大きな資金源は、麻薬用の芥子の栽培です。ミャンマーは本腰をいれて麻薬取り締まりにあたっており、その取り組みは国際的にも高く評価されています。
こうした情勢下、軍事政権の武威の存在は連邦制維持の根幹を成しているといえます。とはいえ軍事政権が良いはずはなく、私も早い民政移行を強く望んでいます。ただ今回、幾人かの西側外交官と話す機会を得ましたが、現時点で民政に移行すれば武威による歯止めがなくなり、少数民族による反乱を招いて、小国家群による勢力争いが恒常化する『バルカン化』の恐れがあると指摘する向きもありました。
民主化を促すため軍事政権と民主化運動家との仲を取り持つ国連のラザリ特使による懸命の努力も今のところ成果は少なく、先の見通しも立っていません。ミャンマーの抱える大きなジレンマといえます。「西側の民主化要求に我々は懸命に応じる努力をしている。しかし、その要求は方向性が定まっておらず、サッカーに例えればまるで随時に動くゴールを相手にシュートしているようなものだ」とは、ある軍事政権閣僚の言葉です。
今日、ミャンマーの国名を聞いた大方の連想は、「聡明なるアウン・サン・スー・チー女史の率いる民主化運動とそれを弾圧する悪しき軍事政権」というものではないでしょうか。私たちが日常、マスコミを通じて知るミャンマーは、ノーベル平和賞を受けた「スー・チー女史」という濾過器で濾された国であるとするのは言い過ぎでしょうか。
これまでスー・チー女史は、「軍事政権を助けるだけだ」として、米国や英国の後押しもあって、西側からの経済援助を拒否してきました。しかし、経済援助がストップして15年がたった今日、そうした頑なさがもたらしたものが「民の疲弊」でしかなかったことはスー・チー女史も理解し始めたようです。その間、中国の支援だけが拡大、緊密な関係を築いてきました。これについて反軍事政権を主張するある大国の外交官は、「中国からの援助のみが異常に突出している。そろそろ経済制裁のあり方を考え直す時期にきた」と話しています。西側諸国のミャンマーへの潮流が確実に変わり始めたようです。
太平洋戦争時、スー・チー女史の父、アウン・サン将軍ら30人の独立の志士に「軍事のいろは」を教えたのは旧日本陸軍「南機関」と呼ばれる人々でした。南機関の協力なくして当時のビルマ連邦の独立はなかったことに彼らは感謝しています。しかも、ビルマは3年近く日本の軍政下にありました。にも拘わらず、いまなおミャンマーの人々の日本への思いは熱いものがあります。
かつて、アジア的多様性という言葉が流行りました。私自身今一度、この言葉を咀嚼したいと思います。政治形態のみを論じ、その善しあしを判定して事足りるのでしょうか。寡黙に日本からの血の通った支えを待ち焦がれているミャンマーという国の存在を、読者の皆さんにもっと知ってほしいと思います。
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