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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 20年ぶりのマニラ紀行(上) イメルダ夫人の昔と今  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2003/03/25  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ ニノイ・アキノ暗殺の直後 ≫

 久々にフィリピンの首都、マニラに出かけた。2回目の訪問である。最初にこの国を訪れたのが、1983年の9月。独裁色を強め国民の不満をつのらせていたフェルディナンド・マルコス政権の末期であった。あれから20年。どうして、わが国にかくも長くご無沙汰だったのか。あちらで、そう聞かれた。他意はないが、格別の用事のないまま、つい出かけそびれたとしかいいようがなかった。

 私は再びフィリピンを訪れるべく、2003年1月、マニラ国際空港に降り立った。前回来たときは、クーラーも効かない、見栄えのしない薄暗い雑踏としか表現しようのないターミナルだった。だが再度やってきたマニラの空の玄関は、第2ターミナルが増設され、クーラーもよく効いているし、照明が明るいのが気分がよい。名前も、「ニノイ・アキノ空港」と改名されており、入国審査に向かう途中の通路では、民族衣裳の楽団が演奏して、旅客を歓迎してくれた。「深夜便で到着すると、空港からホテルに向かう路上で、武装強盗グループが出現し、外国人を乗せたタクシーがしばしば停車させられた」。フィリピン事情について、そんな話が、日本に伝わってきた時代もある。そういう暗いイメージは、もはやなかった。

 あの当時のマニラについては、いまでも鮮明な記憶が残っている。新聞記者だった私はイメルダ・マルコス大統領夫人の招待で、この国を訪れたのだ。何故、招待されたのか。そのいきさつから始めよう。現在、この国際空港の冠としての名称に使われているニノイ・アキノ上院議員は、1983年8月21日の白昼、衆人監視のもとで暗殺されたのである。当時、アキノは、マルコス大統領の最大の政敵であった。大地主階級出身の彼は28歳で荘園のある中部ルソンの州知事、35歳で上院議員に当選した。マルコスの独裁を批判、1972年戒厳令違反で逮捕投獄、77年死刑を宣告された。80年に米国出国を認められ渡米したものの、「祖国は自分を必要としている」として、大統領夫人のイメルダ・マルコスの警告を振り切って帰国した。彼の乗る旅客機がマニラ国際空港に着くなり、軍人に連行され、タラップを降りたところで何者かに射殺された。

 私が、マニラを訪れたのは、その3週間後であった。他に、A紙、Y紙の記者も招かれた。「この事件について、マルコス大統領自身が、背景説明をするから……」との主旨のことが、大統領府から届いた招請状に書かれていたように記憶している。当時、日本も含めて西側諸国の報道は、米国から戻ったアキノ上院議員暗殺を演出した黒幕は、マルコス大統領自身。もしくはその側近たちであるとの観測記事がもっぱらであった。

 アキノ氏を直接撃ったのは軍籍もないフィリピン人の男で、この人物はすぐそばにいた空港警備軍の兵士によってただちに射殺されたと報じられていた。あらかじめ殺人を依頼しておいた実行犯を消してしまうのは、1960年代のケネディ米大統領暗殺事件と同じ手口であり、「ますます怪しい」と疑惑の目でみられていた。

 そんないきさつから、マニラに招き入れられた3人の日本のプレスの客人。相手をしてくれた主人役が、フィリピンのファースト・レディ、イメルダ夫人だったのだ。フィリピン政府の目的は、外国のマスコミからマルコス政権に向けられている暗殺者の疑惑を打ち消すことであった。私も含めた3人の報道姿勢は、「マルコス政権を黒ときめつけることはしない」が、「相手に丸め込まれることは絶対に避ける」であった。


≪ 涙とともに「ダヒル・サヨ」 ≫

 誰がやったのか。現地に出かけたってそんなことが簡単にわかるわけがない。真相は限りなく不透明な霧の中だと思っていた。今にして思えばこの判断は正しかったようだ。20年の歳月を重ねた今日、2度の裁判が行われたにもかかわらず、殺害指示の黒幕は最後まで特定されなかったからだ。とにかく、私は事実だけ淡々と報道することに徹しようと心がけた。

 イメルダ夫人にまつわる秘話がある。大統領官邸のあるマラカニアン宮殿で、ちょっとしたハプニングが起こった。マルコス大統領との共同インタビューが、約束の時刻になっても始まる気配もなく、2時間も待たされたときのことだ。

 「ご免なさいね。わざわざ日本から来ていただいたのに。大統領はお忙しいの。フィリピンは、いま難しい時期にさしかかっているから…。しばらく私がお相手します」

 突然、控えの間に彼女があらわれ、そう言った。このサービス精神と愛想のよさに、虚を突かれ一同彼女のいい分に耳を傾けた。彼女はマルコス政権が、アキノ上院議員を殺す動機も必然性もないことをるる説明したあと、感極まって泣き出した。「どうして、アメリカや日本のプレスはマルコスをそんなに悪くいうの。独裁者だとか、民主々義の敵だとか。おまけに、私の夫がアキノの暗殺をそそのかしたなんて。あんなにいい人間なのに…。私は許せない。口惜しくて、悲しくて。どうか、私のこの気持ちわかってちょうだい」。と涙ながらに訴えたのだ。

 我々が待ちぼうけを食わされたのも無理もない。マルコス大統領の執務室には、ボスワース・アメリカ大使が入っていた。まさに、政権の危機到来、話が長引いたことは容易に想像できた。記者全員で彼が何を語ったのか、まったく覚えていない。記憶にあるのは、イメルダ夫人のことだけなのだ。その夜、彼女主催の晩餐会に招かれた。ハヤカワ・カリフォルニア大学総長にひきいられた米国文化人グループと一緒だった。イメルダ女史は余興に、フィリピン民謡「ダヒル・サヨ」と「思い出のサンフランシスコ」を英語で歌った。しばし鳴りやまぬ拍手喝采。彼女のパーティ外交は成功であった。

 元ミス・フィリピンで、歌手でもあった彼女の英語のスピーチは、ハヤカワ氏のそれよりも、メリハリが効いていた。

 私が「フィリピンは2回目の訪問だ」というと現地の人々から、きまって「1回目は、いつ、何をしに来たのか」と聞かれた。そこで、新聞記者時代のとっておきの話を披露したのだ。歴史の証言のヒトコマとして、かなりうけたようだった。


≪ イメルダ王朝復権の兆し? ≫

 あるマニラの知識人は小声で、「レディ・イメルダが、アキノ暗殺を裏であやつっていたのは、いまでは定説になっている」と言いつつ、「それなのに、涙を見せたなんて、すごい演技力だ」と彼女の異能ぶりに驚嘆していた。

 だが、彼女の近況について話を聞くうちに驚嘆させられる順番が私の方に廻ってきた。アキノ暗殺の2年半後、1986年の「2月革命」で、マルコス政権は打倒され、イメルダ女史は大統領とともにハワイに亡命した。マルコス氏は89年ハワイで病死、その2年後イメルダ夫人は、帰国、彼女の故郷レイテ島で、下院議員選に立候補、当選した。ここまでの消息は私も知っていた。「いま彼女は元気にしているんですか」。ケソン市にあるカトリック系大学の学部長氏に聞いてみた。「元気どころか、彼女は復活しました。彼女は政界を引退しましたが、長男のボンボンはマルコスの出身地北イロコスの知事、長女のアイミーは下院議員。イメルダ女史は“息子を大統領にすると張り切っている”と新聞に出てましたよ」

 私の泊ったマニラの首都圏マカティのホテルの真ん前に一番背の高いビルPacific Plazaがある。その最上階のペント・ハウスが彼女の住居だった。屋上にはヘリポートがあり、マニラ最高級のアパートとのことだ。マニラの近況を案内してもらうためにKUMIKO ANADA SAYOさんをガイドにお願いした。北海道出身でジャーナリストの経験をもつ彼女は、「2月革命」の、マルコス打倒デモの最中、マニラの大学に留学していた。フィリピン人と結婚、夫君はアロヨ政権の大統領府事務次官をやっている。

 「知人の日本人にあのアパートの住人がいるけど、“彼女の乗ったエレベーターは、香水の臭いが1日中消えない”といってました」

 「イメルダさんの靴はどうなってるの?」

 「アキノ時代は、3000足の彼女の靴は、マフカニアン宮殿に展示された。マルコス政権のぜいたくぶりを国民に知らせるために。アロヨ時代になって靴は撤去され、ケソン市郊外の靴博物館にひき取られていった」とのことだった。そこは比国一の靴の生産地、マルキーナという町で、政治家イメルダ女史は常日ごろ「私の靴は貴方がたの靴よ」とリップ・サービスを怠らなかったという。「本当は彼女のお気に入りはフェラガモだった。でも、彼女はフィリピン製の靴の最大の宣伝者ということで、博物館開館のテープ・カットに招かれた」。ANADAさんは苦笑する。イメルダ信仰? は、この国のいたるところに残っている。
 



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