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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 関西人は河豚で釣れる  
コラム名: 私日記 第40回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2003/04  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  2003年1月14日、15日

 日本財団へ出勤。執行理事会、予算説明。

 名古屋の博覧会に備えて博覧会協会から豊田会長他、社会貢献支援財団の横山専務、防衛大学校同窓会長・阿部博男氏他の来訪を順次お迎えする。

 15日は午後から出勤して海洋船舶部の予算説明を受けた。


1月16日〜18日

 東京の家で雑用を少し済ませてから三戸浜の家へ行く。毎日新聞学芸部の方たちと挿絵を描いてくださる毛利彰先生来訪。土地の魚とうちの畑で採れる野菜とお酒。ルワンダ虐殺に関する政治的グループの日本語訳を、新聞社ではどのように扱っているかを調べて頂くお願いをする。

 海の傍へ来ると、よくご飯を食べて、よく眠る。夕映えは必らず見る。


1月19日、20日

 東京の自宅は40年近く経つ古家で、壁もだんだん煤けて来て、すっかり暗くなった。とにかく明るくするために少し改築をすることにした。建設会社とその打合せ。

 どうして数十年前、電気器具を入れる時、蓋のないもの、ちょっとした脚立くらいで電球の入替えができるような高さに照明器具をつける知恵が働かなかったのだろう。老後に備えて、できるだけ人手を借りなくて済むように、最近電気器具を、構造の簡単なもの、位置の低いものに入れ換えている。明るくて合理的ならば最高の幸福と実感する。


1月21日

 火曜の出勤日。

 電光掲示板ミーティング、執行理事会。国交省海事局、新潮社、佼成出版社、光文社、ライフセービング協会、「暮しの手帖」社から、それぞれお客さま。その間に国際部、企画室からそれぞれに報告を受け、打合せをする。


1月22日

 夕方から紀伊國屋サザンシアターで、水谷八重子さんの『恋女房』を見た。新しい劇場に初めて行くのは心が躍る。アプローチからして普通の路上じゃない。空中回廊という感じ。こういう時、浅薄にもふと、都会に住むということは、すばらしいなあ、と思う。

 『恋女房』は、これもまた泉鏡花の作。吉原の火事を題材に適当に滑稽でもあり、古い金沢に見られる陰湿な嫁姑の関係を彷彿とさせる現実性もあり。閉幕後、楽屋に水谷さんをお訪ねする。バック・ステージが狭くて、大女優も若い人たちと一つ大部屋で支度をなさっているような感じ。しかしそんなことを気になさらないきさくな方なのだろう。

 終わってから、築地で資生堂・池田守男社長、鈴木富夫氏などと、個人的会食。仕事でないと、みんな気楽で楽しい。でも化粧品は老人対策として、将来非常に大切、などとちょっと仕事の話みたいなことも申しあげる。


1月23日

 午前中、目黒の海上百衛隊幹部学校で講演。その後、「船の科学館」に回る。2月3日に、羽田空港の滑走路増設事業に関して、羽田近辺は果して地盤沈下があるのかないのか、実際に見る見学会を企画しているので、どのコースを歩いたら当日参加のマスコミ関係者の時間を節約できるかの下調査である。羽田空港内にも入れて頂くので、そのご挨拶も兼ねた。

 日本財団は、羽田空港の再拡張計画にも十分使えるメガフロートの研究開発費として、1996年から2001年までの間に83億円を拠出して来た。研究費総額は189億円。造船・製鉄など民間の会社が91億円、政府が15億円、日本財団が83億円を受け持ったのである。鋼鉄でできたお化け畳のような浮体は、波の静かな湾内に敷設すれば、地震にも津波にも地盤沈下にも関係なく、しかもいくらでも大きく繋ぎ合わすことができるから大型ジェット機の離着陸にも支障がない。私は試験飛行の時、モルモット代わりに乗せられた。浮体だから下を潮流が健全に流れ、魚礁ができるくらいで海が汚染されない。工期も短くて済む。

 近く行われる空港増設の入札時に、メガフロートという新しい工法も十分に考えられてよいはずだ。しかしこの見学会は、決してメガフロート宣伝の目的ではない。ほんとうのところ、メガフロートが採用されたところで、日本財団が以後1円だって儲かるわけではないのだ。しかしこの開発のために働いた若い研究者たちのことを思うと、彼らの研究が正当に比較され、評価され、日の目を見ることを願うが……一納税者としては、日本の未来に照らして一番妥当で、工費も安く済み、後から金がかからない方法が、いいに決まっている。

 夜、目白の白柳誠一枢機卿のご自宅を、暁子(息子の妻)、太一(孫)と訪問。太一の子供の時以来の成長ぶりを見て頂く。夜遅く、太郎(息子)関西からやっと着いたらしいが、私は寝てしまっていた。今日は彼の48歳の誕生日。石川達三氏の小説に『四十八歳の抵抗』というのがあったがなあ、あれはほんとうに48歳だったか、違ったかなあ、などと思いながら眠ってしまった。

1月24日

 朝から家でだらだらと太郎一家と喋る。太一が私たちの「金婚式の年のお祝いです」と言ってきれいなモザイクのスタンドと朱門に目覚まし時計を贈ってくれた。

 夜は小杉瑪里(朱門の姉)、宇田川尚人・英美(妹夫婦)、太郎、暁子、太一と、8人で目黒で会食。姉の80歳、朱門の77歳、太郎の48歳、の3人の誕生日を纏めて祝う。姉には暁子と英美と私から、スカーフを贈った。ほんとうに長生きの家系。しかし病気をしたら、社会のお荷物になるから、健康で働く決心をしなければ、と思う。


1月25日〜27日

 家で集中してリンパ・マッサージを受ける。大根を煮る。棚の上の不要なものを棄てる。ものを片づけると体が軽くなるような気がする。


1月28日

 午前中、聖ヨハネ会のシスター・岡村初子さんが財団に来訪したついでに、私の部屋に寄ってくださった。私たちは高校の時の同級生である。東京で最初のホスピスを作ったのも彼女の修道会であった。その時、私は初子さんに言った。「まあまあ、シスターたちは、一生質素に暮らしてその代わりお金の苦労はしない、というはずだったのに、今は修道院が仕事をしようとすると、誰よりも一番お金の苦労をするじゃない」

 お金の苦労にしても、今月は食費が1万2000円足りなかった、などという我々の世界の話ではないのだ。何億、十何億集めなければこうした施設ができないのだから苦労は並たいていではない。神さまは、ほんとうに考えてもいなかったような仕事を、人間にお命じになるものだ。


1月29日

 海外邦人宣教者活動援助後援会の年間の報告書約2600通を発送する日。公認会計士の会計報告、お金を受け取られた海外の日本人神父や修道女たちからの報告文の抜粋、私のご挨拶状、の3枚を折り畳んで封筒に入れ、封をする。この3工程の作業を、私の聖心女子大時代の後輩6人が毎年必ず来てくれて、「天下無敵のチーム・ワーク」を見せる。大体3時間半で終わらせるのだ。

 私は途中から出勤。

 内閣府国民生活局・河幹夫審議官、3月に京都で行われる世界水フォーフムの「世話人」竹村公太郎氏、新潮社・矢代新一郎氏、それぞれ来訪。6時から東京電力広報グループ新春懇談会に出席。一連の問題の正式な説明と報告を受けた。


1月30日

 知人から河豚のセットを贈られた。太一に電話すると「風邪引いてるんだけど、河豚ですか、いいですねえ。僕の身分じゃとうてい食べられないし……行きます」という。関西人は河豚で釣れるのだ。2月から、生まれて初めて1人でイギリスに行くことを喋って帰って行った。


1月31日〜2月2日

 三戸浜。今年は寒さが強いので、平年は平気で越冬する植物がいくつか枯れた。生きられるものだけが生き延びる。私は情が薄い。

 2日、またジョン・ムルアカ氏が取材に応じて来てくださった。コンゴの泥棒の村の話、おかしくて取材そっちのけで話を聞く。その部族は、お婿さん候補はどれだけ大きな価値あるものを盗めるかで判断するのだという。もちろん、盗むと言っても極めて明るく盗むのである。しかしさすがに現政権でも、財務省のようなお金を扱うポストでは、その部族の人を使っていないという。今度その部族の町を訪ねてみたい、とジョンさんに頼んだ。首都から川船で遡ったらどうでしょう、と言ってみたが、肝心の距離がわからないので、可能かどうか不明。


2月3日

 11時半「船の科学館」に集合。集まったマスコミ関係者は46人。テレビもNHK他数社。今日は宇多高明先生が土木研究センターから講師として来てくださったので、記者たちの質問に完全に答えられる手筈が整った。先生は赤と白に塗り分けた測量用の棒を持って、目分量ではなく、沈み具合をその都度正確に計りながら話を進めてくださる。

 まず科学館周辺で沈下の状態を見る。つまりお金を十分にかけて、しっかり地盤整備をすれば沈下は或る程度きちんと抑えられるのである。しかしどの施設でも、もちろんあの広大な空港でも、端から端まで膨大な整備費用をかける予算を組めるわけでもなく、そうなれば工期も当然大きく延びるはずである。自然、構造物(滑走路や付属建物)には金をかけるが、その他の部分は、安くあげようとするのが当然ということになる。そこで構造物の付近に亀裂が起き、道などの部分は地盤沈下に見舞われる、ことも考えられる。

 一番はっきりしているのは、城南島海浜公園という所にある「大井船舶信号所」で、この東京湾に出入りする船舶監視のための塔は、海からもレインボーブリッジからもよく見えるのだが、その塔屋の下にはちょっとした洞穴もできていて沈み方もかなりのものだ。下見に行った財団の職員が「我々が近づいたその瞬間に空洞が沈んで、ついでに塔も倒れるかもしれないという感じです」と笑って報告があったが、私はそれをわざと曲解して「体重の多い人は近づかない方がいいそうです」と見学者たちに伝えることにした。自分1人が犯人候補にさせられるのもしゃくだから。しかし半ば本気で考えていたとみえ、塔の5階の監視用の部屋に入った時も、何となく本能的に、傾かないように部屋の中央に立っている自分に気がついておかしくなった。

 ここでは日本周辺を航行する船舶の行動をすべて厳密に追い、記録している。肉眼ではとうてい見えないような船名その他も、赤外線で確認し、すべての船の過去の行動はコンピューターで管理されている。

 羽田では、空港の管理棟の土台の下にかなりの亀裂があるのを、うまく植え込みで隠してあった。何だか我々の家がやるような慎ましい処理の仕方で、親しみさえ感じた。


2月4日

 出勤日。電光掲示板ミーティング、執行理事会その他雑用。その間に、ボリビアのシスター・川俣恭子さん、新潮社・冨澤?郎さん来訪。日本財団のホームページに新たに入れる「その時、彼(彼女)は何を言ったか」(仮称)の資料がどんどん集まり始めているのを、尾形武寿専務理事と見る。このページはあくまで資料のみ。論評は一切なし。差し当たりは「拉致問題」から資料の提供を始めることにする。


2月5日〜13日

 シンガポール滞在。

 このごろ、作家たちが立派な自宅がありながら、「仕事場」を持つ気持ちがやっと分かって来た。私の家は自宅兼仕事場だから、電話が鳴ると(感謝しつつ)心も体も休まらない。郵便物の整理をしないと、机の上が使えなくなる。それで時々シンガポールに逃げだすのである。

 シンガポールでは果して、ごろごろ休んでばかりいた。私の住んでいるのは、古いコンドミニアムの6階なのだが、タンブスとアンサナという南方の大木の梢が、7階の辺りまで伸びて、風で大きく木全体を揺らしている。こんな高い木は日本にはない。揺れ動く木をじっと見ていると、麻薬的な思考停止が感じられ、無為な時間が申しわけなく流れる。

 たったお一人、日本財団理事で大和総研特別顧問の的場順三氏が来てくださったので、夕食だけは必ずごいっしょした。中国料理は数人いないとおいしいものが食べられない。今年は2月1日が中国のお正月だったそうで、レストランでイーサンは「魚生」と呼ばれるお刺し身を入れた野菜料理を皆食べている。シンガポールでできた縁起ものの習慣なのだそうだが、野菜や細切りのお刺し身を掻き回し、それを皆で何回も箸で摘み上げる。今年も幸福で盛大でありますように皆でいっしょに祈るのだそうだ。ヨーロッパ系の会員も多いタングリン・クラブの食堂でも、わざわざこの「魚生」を食べに来ている中国系の夫婦がいる。

 1日、友人の陳勢子さんが「今日うちは大騒ぎだったの」と言いながら、約束より遅れてやって来た。庭に恐竜みたいな、尾っぽの先まで入れると1メートル近くありそうなトカゲが、池の魚をくわえて歩いていたのだそうな。このトカゲは追われてものっそりのっそりらしく、インドネシア人のメイドさんは「あれは食べられます」と言ったと言う。

 先日も陳家の庭の木に、大きな蜂の巣が見つかった時、業者に取り除いてもらおうとしたら、フィリピン人のメイドさんが、「奥さん、もったいない。あれはとてもいい蜂蜜が採れる蜂の巣です」と言ったそうで、私はこうした出稼ぎの女性たちの健やかな生活力が大好きである。

 東京の家に帰って来てみたら、頼んででかけた居間の改造ができていた。40年近い古家を「とにかく明るくしてください」というのが目的だったのだ。電気の照明器具もこの際、蓋がなくて位置が低くて、電球を替えやすいシステムにした。これが私の老後の備えのつもりなのである。

2月15日

 今日は講演2つ。日比谷公会堂で上廣倫理財団主催のもの。日比谷公会堂は、10代に音楽を聴きに行っていた時代の後は3度しか足を踏み入れていない。昔は大会堂だと思っていたが、今見るとそれほどでもない。

 その後で、イスラエル大使館と日本・イスラエル親善協会主催の日本・イスラエル国交樹立50周年記念の講演会でおしゃべりをした。私はキリスト教徒なのだが、少しユダヤ教を勉強したので、招いていただいたのだろうと思う。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はすべて一神教だから、私は今後も勉強を細々続けたいと思っているのである。お土産にイスラエル産のオレンジを2個頂く。大変おいしいので、今日から北九州市にでかけている朱門に1個残しておいた。


2月16日

 朝早く羽田を発って、長崎へ。大島町という所は長崎県の最西端だと思うが、そこで講演をするためである。途中ハウステンボスの近くのホテルで朱門を拾う。彼は外海町(大島町のすぐ近く)にある遠藤周作文学館の名誉館長なので、ついでに立ち寄るためである。

 大島町には50万トンのタンカーも建造できるドックのある大島造船所という会社があって、この不景気時代にもかかわらず、フルに仕事があるのだという。いわゆるバルク・キャリアーと呼ばれるばら積みの輸送船を主に建造しているらしいが、パンフレットを見ると半水沈重量物運搬船などという2万7000トンの船も造っている。甲板の部分も少し水に沈めて運航するのである。

 この会社にはトマト部というのがあって、大島町特産のトマトを完全オートメーション化された温室で栽培する。それなら私も早速、10平方米ほどのものを注文しようか、と内心考えながらパンフレットを読み進めたら、注文を受けつける最低の面積は1500平米からであった。

 この町産の焼酎には「ちょうちょうさん」というのがあって、それはもちろん「マダム・バタフライ」のことなのだろうが、ピンカートンが来ないからと言って、蝶々夫人がぐびりぐびりと焼酎など飲むものか。私はやはり「町長さん」という字を当てたい。町長さんが選挙の開票結果を睨みながら飲んでこそ、この名前には迫力が出るというものだ。

 帰りに外海町へ行き、遠藤周作文学館へ。海の中には奇岩が浮かび、波は沈み行く陽を優しく抱いている。朱門によれば、それは迫害されたキリシタンが、あの海のかなたから来る現世での救いを願い祈るのに、一番ふさわしい光景だと遠藤は思ったんですよ、ということになる。

 しかし遠藤さんは70くらいで、もう健康がかなりお悪かったように見える記録もある。生きるのが辛い、と神に訴える言葉は、実感でいらしたのだろうか。それとも少し文学的誇張だったのだろうか。


2月17日

 午前中帰宅。夜、海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。ボリビアより倉橋神父さまご出席。今日認可した分は約1118万円。


2月18日

 日本財団へ出勤。執行理事会。

 午後、国土緑化推進委員会へ出席。資金獲得のためにポスター、パンフレット、ちらし、ステッカーなどを作る、という活動状況を聞いた。どの運動でもこれが常識なので少しも悪くはないのだが……私はどうしてもこうしたものの効果が信じられない。そうしたものは原則として注意を引かないし、寄付の心を動かされることがほんとうにあるのだろうか、と疑っている。最近「海守」制度の発足に当たって、日本財団でもポスターを作ったが、これはなかなかウイッティ凝ったもので、制作費も安い。私は「今に骨董ポスターとして値が出ますよ」と言っているが、それでも作らなくて済めばそれに越したことはない。

 とにかくイベント的なことは一切やめて、実際の植林の経営の現場にできるだけ多くの人を引き込むことだ。そうすると、その体験自体が大きな魅力になって、たくさんの人が動員される。日本の海山を守るのは、日本人以外にない。川と海を守りたかったら、日本人は自分で体を働かせて山の緑を育てる運動で働くほかはないのである。会の終った後で、5月の連休後の週末に、再び竹切りに行く予定も報告する。

 財団に戻って残りの仕事を済ませてから、夜は知人夫妻と会食。若い友人なのだが、もう子供たちを巣立たせて、夫婦2人きりになった。おめでとう!
 

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