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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: パナマ共和国見聞録(下)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2003/03/11  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
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運河問答・北緯10度の枯れすすき
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≪ 熱帯雨林の中に「国王の道」 ≫

 「パナマは運河だけの国ではない。この国には世界有数の観光地になりうる素晴らしい自然がある。でも観光産業は、まだ幼稚、道路標識も未整備だ」。持参した英語の旅行案内書にはそう書かれている。

 「ハイ。その通りです。南北アメリカ大陸を結ぶ地峡の一番細い部分800キロを占めるパナマには、940種類もの鳥がいる。北米大陸よりも種類が多い。鳥だけでなく、野生の動植物は多様です。パナマには単位面積当たり、世界で最も多くの動物がいる」。パナマ・シティで花屋を営なみ、時たまやってくる日本人観光客のガイドも引き受ける同行の浅井明子さんもそういう。

 どうして日本の本州の3分の1ほどの小さな国に、そんなに多様な動物が住んでいるのか。その答は、パナマが南北アメリカ大陸をつなぐ、“陸の橋”の上に位置しているからで、北と南の両大陸に棲息する多くの動物が、それぞれこの狭い土地に集まってきたからだという。

 「いろんな動物がいるといっても、この地峡からは、恐竜の骨は絶対に発見されません。何故かというと、このパナマの土地が海底から浮上したのは、わずかに300万年前のことです。恐竜が両大陸にいたのは、2億年も前で、地峡が生成した頃には絶滅していましたから……」。

 浅井さんの案内で、パナマ運河の見え隠れする自動車道を、車で分水嶺をめざした。車窓に熱帯雨林が展開する。

 「ホラ。あそこが、国王の道の入口です」。浅井さんが指さした。幅5メートルほどの道路跡らしきものが見えた。昼なお暗いジャングルの奥まで道が続いているように見える。バード・ウオッチングの名所で、冒険好きの人たちのエコ・ツアー・コースだ。

 「現地人のベテラン・ガイドの案内がなければあの道には、入れません。迷ったあげく、山ネコに食い殺されるかも知れません。国王の道をはずれて、さらに密林の中に入ればヒョウやピューマもいます。川の急流もありイカダ下りを楽しめるところもある。首都のすぐ近くなのにアマゾンの奥地の雰囲気がある」。彼女の観光案内の口上の一節だ。
 
 持参したガイド・ブックLonely Planet Panamaによると、コロンブスが、パナマのカリブ海岸、ポルト・ベロに上陸したのち、スペイン人が、地峡の反対側に太平洋があることを知るのに19年の歳月を費やしている。地峡の幅は細いところなら80キロ、しかも海岸と分水嶺の標高差はわずか30メートル。たったこれだけの距離を踏破するのにどうして20年近い年月を要したのか??「そんな疑問を抱いていたのだが、これで納得がいった。パナマは土地は狭いが、ジャングルの深さはアマゾンの秘境並みだったのだ。

 「密林の向こう側にもうひとつの海があることを知ったスペイン人たちは、太平洋岸で船を建造しました。スペイン人が中南米にやってきた目的は金の略奪です。狭いパナマで先住民のつけていた金の装身具を剥ぎ取り尽くすと、太平洋からコロンビアとペルーに進出しました。ペルーのインカ帝国の文明を破壊し、神の像や、飾りつけなど、ありとあらゆる金を強奪した。これをパナマ・シティ経由で、陸路、ポルト・ベロ港に運び、本国に運びました。それが、あの道です」

 彼女の指さしたエコ・ツアー・コース、「国王の道」は、ペルーの金を一旦、太平洋岸で陸揚げし、カリブ海まで運んだゴールデンロードだった。

 私は、あることを考え続けていた。それは「地峡パナマが、欧米人のために果たした地理上の役割」についてだ。そして、ひとつの結論を導き出した。この地は富の原産地ではなく、他の地域にある富への接近路、もしくは富の運搬路としての機能だったのではないのか??と思ったのである。

 浅井さんが相槌を打った。

 「その通りです。パナマが果たした2つの大きな海をつなぐ道の機能の第1号が、この王様の道だった」と。

≪ ゴールド・ラッシュとパナマ鉄道 ≫

 「あれが、第2号です」。彼女が指さした先にはパナマ運河沿いに走る鉄道線路が続いていた。観光案内書によると、「この鉄道から見る運河と自然のコントラストは最高」とあったが、土曜日は生憎、運休で、あきらめざるを得なかった。

 この鉄道は、アメリカが建設したものだった。当時、パナマはコロンビア国の属州だった。アメリカはコロンビア政府と交渉し、自由通行権と鉄路の防衛権を獲得、1850年、カリブ海岸のコロンから、太平洋岸のパナマ・シティまでの鉄道建設に着手した。折しもカリフォルニアは空前のゴールド・ラツシュであった。アメリカのポップソング、「いとしのクレメンタイン」をご存じか。西部劇、「荒野の決闘」の主題歌だ。「Oh, my darling, Oh my darling Clementine」の歌だ。その中に「Dwelt a miner, 49ner and his daughter Clementine」の一節がある。「49ner」とは、1849年、カリフォルニアの金をめざしてやってきた最初の山師たちのことだ。一獲千金を夢みる後続の山師たちが、米国東海岸から、北米大陸中央部を抜けて西海岸のカリフォルニアに行くには馬車しかなく、時間もかかるし、インディアンの襲撃にも備えなくてはならない。そこで考え出されたのが、パナマ地峡横断鉄道だった。金鉱労働者を米国東部から船でパナマのカリブ海岸の港コロンに運び、そこから鉄道でわずか3時間で、太平洋岸のパナマシティヘ。さらに船で太平洋を北上、サンフランシスコまで運んだのである。

 3番目に登場した地峡横断ルートが、この国の知名度を高めたパナマ運河だったのだ。パナマ運河の建設のいきさつについては、前号で紹介した。運河を建設した米国は、1999年12月31日、運河をパナマ国に返還した。1914年の運河開通以来、85年目であった。この間、運河を通行した船は70万余隻。開発コストの3分の2を回収した時点であった。

 なぜアメリカは、運河をパナマに返還したのか。中南米諸国の反米ナショナリズムの鉾先をかわす政治的ネライもあるが、最大の理由は、米国にとって運河の戦略的価値が下がったからだ。1970年代以降、大型タンカーや原子力空母などパナマ規格(6万5000トン以下)を上まわる大型艦船が続々と出現したためである。

 「ここは元アメリカ領でした。いまパナマ人は、ここにある美しい芝生にかこまれた住宅に住むのが一生の望みです」。ガイドの浅井さんがいう。1903年の運河条約で、運河の両岸それぞれ幅8キロは米国が永久租借権をもっていた。ここにはパナマとは別世界の立入禁止のアメリカ村があった。国土の全域に主権を回復したのを機にパナマ政府は、外資を導入、旧アメリカ村の再開発をやっている。米軍の兵舎や家族用住宅を改造した分譲住宅を5万〜15万ドルで売出中だった。でも1人当り平均3200ドルというパナマ人の年間所得では、特権階級かヤミ屋以外は手が出ない。おまけに米軍撤退後のパナマ経済は、深刻な不況が続いている。


≪ ノリエガ将軍はいま…… ≫

 85年に及ぶ米国の運河管理の時代、1日だけ操業不能に陥ったことがあった。運河史上唯一の休業の原因を作ったのが、かの有名なるノリエガ将軍であった。ノリエガは、アメリカが製造した「フランケンシュタイン」だ。米国士官学校卒の彼はCIAのエージェントとして米国に奉仕したのち、秘密警察長官にのしあがった。このあたりから米国の忠実な部下は変身する。彼は大統領を追放し、みずから大統領代理となる。

 隣国コロンビアの麻薬の対米密輸に関与したり、ハイテク製品をキューバに売却し、業を煮やした米国は、犯罪組織の一員として彼を告発した。1989年12月、ノリエガは米国に対して宣戦を布告。米軍はノリエガの基地を爆撃、90年2月、ノリエガを逮捕、投獄した。

 「ノリエガさん、マイアミの刑務所にいます。面会した家族の話では、すごく落ち込んでるそうです。新聞に出てました」

 「刑期は何年?」

 「40年と聞いてます。死ぬまで出られないと嘆いてるそうです」

 「この大邸宅、誰か住んでるんですか」

 「いえ、誰も住んでません。親戚の人が、毎週掃除に来てるという話です」

 パナマ市、サンフランシスコ通り。海と旧市街と高層ビルの林立するパイディージャ岬を見おろす丘にあるノリエガ将軍の居宅前で浅井さんとかわした会話である。「NORIEGA」と書かれた白いタイル板の表札が門柱にかかっていた。庭に咲く真紅のブーゲンビリヤと、純白の太い穂をつけたすすきが、あまり高くない棚の向こうに垣間見えた。うっかり「パナマの秋ですね」といったら笑われた。北緯10度のパナマは、春も秋もなく、あるのは雨期と乾期だけ。すすきは1年中繁茂し、白い穂をつけてます??と。
 



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