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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: パナマ共和国見聞録(上)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2003/02/25  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
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運河問答・船はなぜ山に登ったのか?
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≪ 南北米大陸をつなぐ“へその緒” ≫

 地球の裏側、パナマ運河に出かけた。かねてから行きたいと思いつつも、遊びに行くには遠すぎる。時間もないし金もない。仕事の用件などあるわけがない。ないないづくしで、実現不能のパナマ行きと思っていたら、隣国コロンビア訪問の仕事が浮上した。旧知のリカルド前コロンビア大使に相談したら意外な返事が戻ってきた。

 「この時期にわが国への訪問はお勧めできない。100パーセント身の安全を保証できるとは言い切れない」と。昨今、コロンビアの反政府ゲリラは、政府転覆から誘拐業に転業、もっぱら外国人をかどわかしては身代金を稼ぎまくっているとのぶっそう極まりない情報をもらったのだ。そこでコロンビアの訪問先で会う予定の相手に隣国のパナマまで出向いてもらい、仕事の話を済ますことにした。パナマ訪問願望は反政府ゲリラ故にはからずも達成された。

 なぜ私はパナマにこだわりをもったのか。世界地図を開く。南北アメリカ大陸を、細長い陸地がまるで“へその緒”のように繋ぎとめている。約3000キロにおよぶ中米地峡だ。その最南端に位置し南米のコロンビアに隣接するのが、パナマ共和国だ。

 その昔、南北アメリカ大陸は海で隔てられていた。このあたりには、海底をおおう巨大な岩の板(プレート)が、いくつかあり、それぞれが毎年10センチメートルも移動している。2000万年ほど前、巨大なプレートが、もうひとつのプレートと接触し、乗り上げた。その圧力で、年々岩がせり上がりついに海面に顔を出した。世界地図の中で、2つの海を遮断する奇妙な地形はこうして誕生した。何かの本でその事を知って以来、全長800キロ、狭いところで、幅80キロという世界一細長い地峡国家パナマをぜひ訪ねようと思いつづけていたのだ。

 2002年の10月、隣国のコスタリカから空路パナマ・シティに入った。コロンビアからやってきた客人との仕事を終えた翌日の土曜日、車とガイド兼通訳を雇って、パナマ運河見学に出かける。パナマ市内から北西へ車で20分もいくと、パナマ運河の3つの水門のうち、太平洋に一番近いミラフローレス水門があった。カリブ海から8時間かけて、湖と運河からなる80キロの水路を航行してきたコンテナ満載の巨大な貨物船が、太平洋に脱出すべく、最後の水門にさしかかっていた。
 
 海抜25メートルの自然の水路ガトウン湖をフルに利用したこの運河は、3カ所の水門で水位差を調整する仕掛けになっていた。水門で区切られた長方形のプール状の巨大な水槽に海からやってきた船が入ると山のダムの人造湖から引いてきた水を流し込み水位を上昇させる。船は水位とともに浮上し、海面より高い運河と湖を水平に航行する。そして、出口の水門で再び水位調整をして反対側の海に降下させるのだ。

 眼下に、水門で区切られた長さ305メートル、幅33メートル、深さ50メートルの水槽には、6万トンの貨物船の巨体が浮かんでいた。じょじょに水が抜かれ、水位が下がり、巨体が沈んでいく。海水位と同じになると水門が開く。船はゆっくりと進み、やがて静々と海に出ていった。この間、約30分。巨船の幅は32メートル、片側わずかに50センチずつの隙き間しか残っていない。まさに水先案内人の神技だった。


≪ 仏から米に運河堀りの選手交代 ≫

 私と仕事の話をするためパナマにやってきた隣国の客人は、小児科の若い女医であった。彼女の名はカレン・朱山さん。日系2世のコロンビア人である。第2の都市カリから、1時間の空の旅でやってきた彼女は、パナマは初めてである。

 「隣の国だからといって、特権階級や大金持ちはともかく、普通のコロンビア人で、パナマ運河を見た人はまずいない。みんな貧乏だから……」。彼女はそう言った。「いや、日本人だってそうさ。遠いから……」。そんな会話をかわしつつ、やってきたミラフローレス水門に展開する船が山から降りてくる光景、まさに壮観そのものだった。

 「船が山を登ったり、降りたりするなんて想像できない。海面のレベルに、山を削って運河が通っているものとばかり、思っていたのに。なぜ?」と朱山さん。

 案内役の浅井明子さんが、予期していた質問だとばかり、ただちに反応した。

 「それはね。このパナマの地峡が、固くて歯が立たなかったからよ。私の日本人のお客さんは、たいてい同じ質問をするの……」。浅井さんは日本の会社の現地駐在員だったご主人と一緒に、かれこれ10年、パナマに住んでいる。ご主人の会社が倒産したとかで、市内のホテルで花屋を開業、時たまやってくる日本人観光客のガイドも引き受けている。

 彼女はなかなかの勉強家である。分厚い大学ノートに、データがぎっしりと書きこまれている。

 「そう固い筈だよね、ここは。地球表面に13ある巨大な岩プレートが、この付近には4つもあり、お互いにせめぎ合っている。岩板が押し合っているうちに、海上に岩がせり上がってできたのが、このパナマなんだから……。岩盤を掘るなんて簡単にはできないさ」。私も、昔、覚えた地質学の知識を思い出しつつ、この運河問答に加わった。

 「ハイ。その通りです。パナマはスエズ運河建設より、はるかに難しかった。だから岩削りはほどほどにして船を山の湖に登らせるアイデアが出てきたんです」と浅井さんは言う。彼女から聞いた運河着工の前史は、興味深い。

 最初に運河建設権を獲得したのは、アメリカではなくフランスだった。開発のリーダーは、1869年、全長162キロのスエズ運河を完成した仏人、レセップスであった。1881年工事が開始された。レセップスの目論見は、ほぼ海面の高さで陸地を削り取り、運河を建設することだった。分水嶺と海面の標高差はわずかに30メートル、レセップスは簡単にぶち抜けると目論んでいたが、岩盤が硬くて工事は立往生した。

 もたもたしているうちに、労務者の間に、黄熱病とマラリアが蔓延、工事開始以来10年間でなんと2万2000人が病死。レセップスの会社は財政危機に陥入り、倒産してしまった。

 フランスは、運河建設権をアメリカに売却した。当時、パナマはコロンビアの属州であり、運河の許認可権はコロンビア政府が握っていた。コロンビアは、建設権の譲渡は無効だと主張、アメリカの工事肩代りを拒絶した。

 結局アメリカは、コロンビアに2500万ドルの補償金を支払い、1903年、パナマ州独立の合意をとりつけた。そして10年がかりで7万5000人の労働者を使って運河を完成させた。つまり、パナマとはアメリカが造った国だったのである。


≪ 運河の通行料は35セントから15万ドル ≫

 アメリカの開発したのは、レセップスの水平運河とは全く異なる工法で、巨大なダムと水門を作って、自然に逆らわずに船を山上の湖に揚げてから、反対側の海に降ろす水路のシステムだった。

 「エート、運河の通行料はですね、船のトン数で決まってまして、1トンにつき2ドル39セント。それも前金で、現金払いです。ですから、パナマ・シティには銀行が多い。日本も第一勧銀と東京三菱があったけど三菱は撤退しました。日本、景気悪いんですね」と浅井さん。これまでの料金の最高額は15万ドルだったという。

 運河問答は、さらに続く。

 「最低記録はいくらだと思いますか? ヒントは、料金は排水量で決まるということです」

 「木製の手漕ぎボートの通過料金でしょ、1トンにも満たないから1ドルくらいかな」

 このクイズの答は、36セントとのことだった。1928年、もの好きの男が、太平洋から大西洋まで全行程を泳いで渡ったそうで、体重計量の結果、料金が決まったという。

 「どうして重さで料金が決まるかというと、水門の水位調整によって、船の上げ下げに必要な水は船の排水量で決まるから。普段は2つの巨大なダムに水をたっぷりと貯めておく。この水を使って水門のプールに水を注入する。船が1回通過するごとにその水は海に捨ててしまう。世界有数の多雨地帯のパナマだからこそ、こんなぜいたくに水を使うことができる」とは、ガイドの浅井さんの解説だ。主婦の余技にしてはなかなかの博識である。

 車で分水嶺を越え、パナマ・シティから運河の大西洋側の出口、コロン市に向かう。ここから、東南10キロのカリブ海岸に、1502年、コロンブスが命名したポルト・ベロ(美しい港)の町がある。

乾期だというのに猛烈な雨に見舞われた。一瞬車の前方が見えなくなる。道路に水があふれ、小川のようになった。パナマ・シティのある太平洋岸は、比較的雨量が少ないが、大西洋側は毎日のように雨が降る。標高わずか30メートルの分水嶺に、貿易風で運ばれたカリブ海の湿った空気が激突、雨になるのだ。
 



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