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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: コスタリカ・「中米のスイス」と言われし国  
コラム名: 旅日記 地球の裏読み  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2003/02  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   外つ国の事柄は誤解がつきものだ。例えばである。「日本は東洋のスイスたれ」なんて無邪気なことを言った時代があった。極端な平和主義国家に変身した戦後日本の美しき?思い違いである。スイスは永世中立を国是としているものの、ハリネズミの如く、他を寄せつけぬ国防力の酒養を怠らぬ、したたかさをもっている。憲法上、平和の他力本願を旨とする日本とは異質であるところから、スイス・アナロジーは、いつしか、流行らなくなった。

 この種の思い込みは、ほかにもある。2002年の10月、私は中米の小さな国、コスタリカ共和国を訪れた。

 「この国は天国だ。平和憲法をかかげ軍隊を持たず……。民主国家コスタリカの素顔は、その美しき自然とともに、私たち旅人の心を温かく満たしてくれる」

 持参した日本製の旅行案内書にはそう書いてあった。なんと甘口の感傷であることか。この現実主義に立脚する小国のもつ平和憲法と、日本のそれとは平和の理念と戦略において、似て非なるものではないのか??。中米のスイスと言われるコスタリカの美しき高原を旅しつつ、そう思ったのである。


≪ コロンブス「金持の海岸」と命名 ≫

 コスタリカは遠い国だ。地球の裏側にある。世界地図を開く。北米と南米の2つの巨大な大陸が“へその緒”のようなヒモ状の陸地でつながっている。この細長い地峡の下から数えて、2つ目の国がコスタリカだ。人口、380万人。九州と四国を合わせたくらいの小さな国だ。彼らは、みずからを「チコ」(Tico)と称する。チコとはスペイン語で“小さい”という意味である。

 「チコ」たちの住むコスタリカとは、いったいいかなる国か。およそ日本とはなじみの薄い国なので“そもそも論”からいこう。まずは地峡の生成についてだ。

 超大昔、南北アメリ力は、海によって隔てられていた。ところが2000万年ほど前から、じょじょに南北をつなぐ陸の橋が形成されていった。このあたりには、4つの巨大な地殻の板(テクトニック・プレート)があり、今でもそれぞれが思い思いの方角に1年に10センチほど動いている。巨大なプレートが、もうひとつのプレートと接触し、さらに何百万年もかけて乗り上げた。その結果、2つのプレートのつなぎ目の岩が盛り上がり、その上に火山灰が堆積し、細長い陸地が出来あがったという。

 約3000キロに及ぶこの地峡を中米という。コスタリカのほかにグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、パナマ、ベリーズの6カ国で構成されている。中米をヨーロッパ人が発見したのは16世紀の初頭であった。1502年コロンブスの船団がやってきた。彼の発見したアメリカの海域を、アジアの多島海と信じていたコロンブスは、目的地インドに到達する「海峡」を見つけようと海岸沿いにカリブ海を航海していたのだ。

 だが、ここは「地峡」であり「海峡」などあるはずがなかった。疲れ果てたコロンブスは、熱帯雨林に囲まれた美しい海浜に上陸、17日間を過ごした。彼はこの「地峡」の一隅で、先住民たちに遭遇した。彼らは、金細具の装飾をいくつも身につけていた。

 「きっとジャングルの向こうの内陸には、豊かな“金の文明”がある」

 コロンブスはそう思い込んだ。そして彼はこの地を「金持ちの海岸」(スペイン語でCosta は海岸、Ricaは金持ち)と命名したのでる。

 以上が、旅に先立ち私の調べた中米の地峡、コスタリカという土地の由来だ。


≪ お目当て、金であった筈なのに ≫

 スペイン人たちは、何が目的でコロンブス以後、中南米征服に狂奔したのだろうか。それは金であった。彼らはこの地域で豊かな文明を営んでいたインカやマヤ、アズテクなどの先住民族を滅ぼし、彼らの祖先の遺産である金製品を剥ぎ取り、これを融かして金魂にして本国の王のもとに運んだのだ。

 だがコロンブスが「金持ちの海岸」と名づけたこの地にはほとんど金はなかった。一獲千金を夢見る荒ぶれた植民者たちは、この地を早々に切りあげ、金を求めてよその土地に去っていった。そして、本国から牛や馬をもって移住してきた争いを好まぬ温和な開拓農民だけが、この地にとどまった。

 歴史とは何と皮肉なものか。金のない魅力のない土地であったからこそ、旅行案内書の表現を借用するなら「民主政治と平和、そして美しい自然の保存される中南米一の天国」が誕生したのだ。

 コスタリ力史のもつ、この興味深い逆説に気づいたきっかけは、旅の初日訪れた首都サンホセの国立博物館であった。「いろんな人々が、ミックスして仲よく暮らすコスタリカ」の看板をかかげたジオラマがあり、30体ほどの人形が並んでいた。純粋白人風、黒人、中国人風のアジア人もいるが、大部分が混血だ。白人と先住民の混血であるメステイーソが多い。

 「あそこにいかにも誠実そうな田舎のオジさんがいるでしょ。これが働きもののコスタリカ人の代表的な顔で、この国に移民した白人農民の原型です」

 現地で通訳、ガイド、運転手の1人3役をやってくれた下村昌也さんが教えてくれた。下村さんは、バックパッカーで中米を旅しているうちに、コスタリカの自然に魅せられ、メステイーソのコスタリカ女性と結婚、いまではサンホセに住んでいる。

 なるほどそう言われてみると、ケンタッキー・フライドチキンの白髪のオジサンにちょっと似ている人形の表情は温和そのものだ。スペインのカスティージャ地方からやってきた農民だという。彼らがやってきたとき、このコスタリカの地には、案に相違して、小数の先住民しか居住していなかった。だから先住民文明の遺産である金の像や金細工はあまり多くなかった。

 「どうしてコスタリカに先住民が少なかったのか。ここは南北アメリカ大陸をつなぐ地峡のほぼ真ん中でしょ。北のマヤや、南のアズテク族が定住していた土地からは遠く離れていたので、よほどの事情がない限り、ここまでやって来なかったんじゃないの」

 私の思いつきを披露したら、その通りだと下村さん。金目当ての荒らくれ男たちが去ったあと、働き者のスペイン農民たちは、国の中央部にある標高1000〜1500メートルの高原で、農業を営み、じょじょに数少ない先住民と混血していった。中米と聞くと、略奪、クーデター、国境紛争といったキナ臭さがつきまとう。なぜコスタリカだけが、「平和の地」という美名で呼ばれているのか。その謎を解くカギは、コスタリカ植民史のもつ特異性にあるのではなかろうか。


≪ 「弾痕」は何を物語るのか ≫

 標高、1150メートルのサンホセ。人口30万人。「年間を通じて夏の軽井沢のような気候」と下村さんはいう。ここにスペイン人たちが入植したのは18世紀で、粗末な家が数軒あったのみと博物館の展示物に書かれていた。質素で落ち着いたコロニアル調の街並みの続きに博物館はある。アフリカン・チューリップ(火焔樹)の大木のつける赤い花が、この古い灰色の建物に色彩りを添えている。北緯10度、乾期の高原のそよ風が、頬をなでる。そんなつかの間の旅の情緒を覚まされたのは、博物館の石の外壁に刻まれている幾つもの弾痕だった。なんとこの建物の前身は要塞だったのである。金の剥ぎ取りを業とする植民者にくらべれば、温和な農民が国造りにはげみ、独立を達成した国とはいえ、昔は他の中南米諸国と同様に軍隊をもっていた。

 1948年、当時、ここは陸軍司令部だった。この要塞をめぐって、40日間の内戦が展開されたのだ。この戦いは、コスタリカ史のクライマックスであり、かつまた歴史の転換点であった。この砦をめぐる市街戦こそ、この国の軍備廃止の重要な伏線だったのである。この読みもののテーマは、「コスタリカの平和主義とは何ぞや」であり、どうしてもそのいきさつにふれておかねばなるまい。

 私は不案内のコスタリカ史のにわか勉強のために米国で出版された解説書「Costa Rica Hand Book」を、サンホセで求めた。「改革主義者と内戦」の章を読み、私の見た「要塞の弾痕」のもつ歴史的意味を学んだ。それはこんなストーリーだった。


≪ 軍備を廃止したホセ・マリア ≫

 第2次大戦後、コスタリカでは家父長的な独裁政権と小規模事業者、労働者、専門家、知識人、学生との対立が激化した。1948年の大統領選で、改革主義者の擁立する候補が僅差で守旧派候補を破った。守旧派候補の黒幕は、カルデロン元大統領であった。彼は子分の落選を認めず、投票はインチキだと騒ぎ、投票箱を独占した。ついに内戦が勃発した。改革派の指導者、コーヒー農園主のホセ・マリアは、工学士、経済学士であり、かつ哲学者であった。彼は武装蜂起を呼びかけた。これにグアテマラで軍事訓練をうけた亡命コスタリカ人が参加、グアテマラから武器が空輸された。政府側もニカラグアに軍事援助を求めた。双方で2000人の死者を出した、40日戦争は改革派の勝利に終った。

 世界でも、きわめてユニークな「コスタリカ平和主義」の事の起こりは、ここから始まったのである。1949年、名実ともにこの国の政治指導者となったホセ・マリアは、1949年、黒人、中国人(黒人はジャマイカから来た鉄道建設労務者、中国人はパナマ運河建設の労務者)などへの市民権の付与、婦人参政権、銀行の国有化など、民主化、社会主義化のほかに、常備軍の廃止を盛り込む憲法を判定したのだ。他国との安全保障問題というよりも、内戦やクーデター防止策としての軍備の廃止だった。しかも武装蜂起の張本人が、“哲学”したあげく到達した平和の保全策であるところが興味深いではないか。博物館には要塞の銃眼と大砲が保存されていた。広場の市街戦の様子はかくありきと銃眼をのぞいたついでに、そう思ったのである。


≪ 5コロン札の描く風景 ≫

 この国の1人当り国民所得は4000ドル。ちなみに隣のニカラグアはわずか420ドル。この較差はどこから出てきたのか。「それは、この国は、国防費負担がないから……」という俗論が日本でもまかり通っている。たしかに国防費支出がなければ、経済にとって平和の配当が、プラスされるが、それもしっかりした産業基盤があってのことだ。この国のGDPの70%は農業だ。

 「コスタリカに移民した働き者の農民はどうやって、この地に豊かな農業を築いたのか」

 通訳兼ガイドの下村さんは、私の質問に答えるかわりに、サンホセの下町にある国立劇場に案内した。小さいながら、パリのオペラ座そっくりの建物だ。

 「そうなんです。コーヒー1袋輸出するごとに5コロンの税金を人々が支払いました。それにバナナの輸出税も加えて、オペラ座を真似て小劇場を建てました。19世紀末の建物で、コスタリカの農民は、われわれ1人1人がこの劇場を建設したという自負をもっている」と彼はいう。19世紀の初頭、細々と酪農を営んでいた農民は、ジャマイカから豆を輸入し、中央高原地帯に植えてみた。コーヒー栽培は、火山土で形成されたこの地の熱帯乾燥林にぴったりだった。乾期に収穫し、海岸まで運搬も簡単だ。火山のスロープから海を見おろす丘陵までたちどころにコーヒー畠に変身した。カリブ海沿岸には、バナナ畑が出現、中米一のリッチ・カントリーになった。前出のCosta Rica Hand Bookには、そう書かれていた。

 1ドルの入場料を支払って劇場に入る。天井のフレスコ画が名物だ。1897年、イタリアの画家J・VILLAの描くコーヒーの収穫と積み出し、バナナの運搬の風景だ。この原画が5コロン札の裏面に鮮やかなカラーで印刷されている。写真をご覧いただきたい。

 難しい話が続いたので、このあたりで息抜きの小話をひとつ。「このお札の絵に間違いが、5つあるとコスタリカの人々はいう。何と何でしょう」

 下村さんにクイズを進呈されたのだ。

 答は、(1)海岸にコーヒー畠はない。(2)コーヒーの木はこんなに低くない。(3)女性が、摘みとられたカゴ1杯のコーヒー豆を1人で持てるわけがない。(4)南イタリアのブドウ畑と間違えたのではないか。(5)真ん中の黒人が、バナナの房を軽々と持っている。ひと房、20キロもあるので、持てるわけがない。


≪ ニカラグア内戦とアリアス ≫

 閑話休題。したたかな平和国家、コスタリカは、何度かの危機を乗り越え、非武装平和を貫いた。最大の試練は、コスタリカの天敵?ニカラグアの内戦だった。1980年代の初め、革命が起こり、キューバと一脈通ずる左翼政権が誕生した。中米の共産化を恐れた米国は、ニカラグアの反政府右派組織Contra(コントラ・スペイン語で反対勢力という意味)を軍事支援した。CIAのオリバー・ノース中佐の「イラン・コントラ事件」(米国の世論の批判をかわすため国交断絶中のイランから武器を密輸し、コントラに供給したというレーガン政権時代のスキャンダル)は、このとき起こったものだ。

 1984年、コスタリカ大統領、モンゲはワシントンに飛び、レーガンの親コントラ政策を支持、コスタリカ警察隊のコントラ協力をいったんは承知した。だが、1986年の大統領選で「平和解決」を選挙スローガンにしたオスカー・アリアスが、コスタリカ大統領に就任、レーガンをがっかりさせた。

 アリアスは、大国アメリカの試みは、中米の小国の実情を知らぬものだとして、紛争の主戦場であったニカラグアとそのとばっちりを受け、戦火にまきこまれた周辺国(コスタリカ、ホンジュラス、グアテマラ、エルサルバドル)の5カ国に和平案を提示した。それは戦闘をただちに停止するだけでなく、コントラを含むすべての反政府ゲリラを恩謝しニカラグアは、自由選挙で政権を選ぶというものであった。レーガンは「致命的な欠陥をもつ案だ」と批判したが、戦火にくたびれた中米5力国は、紛争のそもそもの震源地となったニカラグアのダニエル・オルテガ大統領も含めて調印した。以上、Costa Rica Hand Bookからの抜粋である。

 アリアスは調印1ヵ月後、米国議会で、こう演説したという。「コスタリカ人は、平和への苦闘や、そのことによって引き起こされる国家の危難も、はてしなく続く戦争コストにくらべれば、リスクは小さいと信じている。この10年間の戦火で、中米では数万人の死者を出し、地域間の貿易は60%減となった。ニカラグアは大量の難民を発生させた。コスタリカ人は、40年前に軍備を全廃した。われわれは外に脅威を与えていない。それはわれわれはタンクをもっていないからではなく、軍事費がない故に、飢えと文盲と失業者がほとんどいないからだ」と。

 彼は1987年のノーベル平和賞を受賞した。16世紀、スペインの片田舎から、牛と馬をつれてこの地に入植した誠実な農民の子孫の晴れ舞台であった。

 1949年制定のコスタリカ憲法にはこう書かれている。

 第12条 恒久制度としての軍隊は廃止する。公共秩序の監視と維持のため必要な警察力は維持する。大陸間協定により、又は国防のために軍隊を組織することはできる。(以下略)

 第31条 コスタリカ領土は、政治的理由で迫害を受けている人の非難所である。


≪ 平和主義も高くつく ≫

 以上が「コスタリカの平和主義とは何ぞや」についての、私の旅のレポートだ。はたしてこれが、平和憲法をもつ国、日本のそれと、似ているのだろうか。私の結論は、その逆である。その理由は3つある。

 第1は、日本の平和主義は、他力本願である。日本国憲法前文には「日本国民は…。平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。童話の世界ならともかく、現実世界ではナンセンスである。これは「平和」と唱えれば、天から「平和」が落ちてくることを祈念する空念仏にほかならない。一方、コスタリカは、空念仏ではなく、みずからの行動で平和を獲得する積極主義である。

 第2に、平和憲法の発生史が、両国ではまったく異なる。日本のそれが、米日合作の戦後の一夜漬けの作文であるのに対し、コスタリカのそれは、自国のクーデター防止という実利から発生したもので、たんなる精神論ではなく、現実にのっとった功利主義的アイデアである。

 第3に、日本の平和構築路線が、前出の非現実的な憲法前文に束縛され、つねに受身であるのに対し、コスタリカのそれは、平和主義の旗印のもとで、思い切った策を打ち出している。オスカー・アリアスの中米平和調停が成功したのは、関係国が戦争に疲れ切ったそのタイミングをねらっただけでなく、憲法31条にもとづくニカラグア難民の25万人の引き受け条件を提示したからではなかったか。当時のコスタリカの人口は、250万人。人口の10%もの異民族を受け入れるのは容易なことではない。コスタリカが小国なればこそそれができたのである。仮りに、日本が東アジアの平和のために北朝鮮人を難民として我国の人口10%相当を受け入れるとしたらどんなことになるか、想像するだけでぞっとする。

 平和とはロマンではなく痛みを伴うものなのである。戦争はもちろんだが、コスタリカ平和主義のコストも決して安くはないことを知っておくべきだろう。
 



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