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≪ すべて接待は悪いという貧困な心情 ≫
日本人は規則を忠実に守るということには実に誠実な人たちだが、人間の基本的な心情に立って、人間的であり続けることはへたなのかもしれない。卓越した人というものは、時には、規則を破り、非難を浴びても、「人間」を守るための行動が取れる人のことを言う。
私の働く日本財団は、2カ月に一度くらい定例の記者会見をしてその間に行った事業について説明し、十分に質問を受けることにしているが、その後でささやかなお茶とビールとパンを出すことにしている。暑い時、寒い時、仕事の一部ではあっても「ご足労」願うのだから、お茶やビールいっぱいくらいはお出しする「礼儀」は当然だと私は思っている。官官、官民、民民、すべて接待は悪い、という用心と国民的情熱は、同時に接待さえ受けなければ自分は正しい人間だ、と思える実に貧困な心情を生んだ。
つまり人間の「ご縁」を感謝する謙虚な思いなど、示さなくて当たり前になったのである。かつ先輩が後輩をおごるという美風もなくなったという。検事や判事はおごりおごられる機会を恐れてクラスメートとも付き合わなくなるから、ますます人の心にうとくなる。とにかく悪いことさえしなければ、いいこともしなくて平気、という未熟な大人を作る空気だけが残った。私はそれにいささか意識的に抵抗しているつもりなのである。
ありがたいことに、財団の1階の一隅には、身障者が働く「スワン・べーカリー」というパン屋さんが開業している。そこから小振りのサンドイッチと、ソーセージやチーズをあしらったパンなどを運んでもらって、記者さんたちに食べてもらう。小腹が空いた人に は帰宅までの一時しのぎになるし、何より障害者支援の意識にも繋がる。その上、うちの財団もお茶の費用が安くて済む、といういいことずくめだ。
たいていの記者さんたちが、おいしいと言って食べて行ってくれるが、中には大新聞の記者で、パンすら断って帰って行く人がいる。もちろんたまたまお腹を壊しているのかもしれないし、間食は一切しない人かもしれない。しかしそうなら、用意した袋に一切れのパンを入れて持って帰り、同僚に上げるという優しさがあってもいいだろう、と思うことはある。外国だったら、そのような優しさは意外と重く大切に思われている。
取材先からは、一切れのパンもおごられないという規則が、何より優先するのだ。その結果、障害者が自立するのを見守り助ける、という視点など欠落する。そういう硬直した気分でいると、ほんとうの人間臭い記事が書けるかどうか、密かに疑問に思う時がないでもない。
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