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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: イランでイスラムを惟う(下)  
コラム名: 旅日記 地球の裏読み  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2003/01  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   テヘラン郊外、世界最長といわれるロープウェーの始発駅。順番待ちの女子大生グループにカメラを向けたら、「おしんによろしく」と一斉に手を振ってくれた。前回のイラン・レポートは、ここで終っている。実はこの光景、私にとってはいささかの驚きであった。イスラム国では女性にカメラを向けてはいけないと聞いていたのに、愛想よく被写体になってくれた。たしかにそれもある。だがそれ以上にびっくりしたのは、東南アジアの農村ならともかく、インド・ヨーロッパ系のアーリア人の子孫であるイランの人々の間で、純日本風忍耐は美徳の物語「おしん」のTVが超人気番組だと聞いたからだ。

 日本で6年の出稼ぎ経験をもつガイドのレザ君がこう言った。

 「イラン人には日本人の気持がわかるんだ。でも、アラブ人には、おしんの話は理解できないよ」。


≪ イランの心とアラブの心 ≫

 中東の細長い海を隔てて隣同士に位置する2つのイスラム圏、そこに住むイラン人とアラブ人は、同じ神アッラーの信者であっても、それぞれの文化も気風も大いに異なることを彼に知らされ、はっとしたのである。

 「ホメイニは、アラブはいい人だと宣伝したが、イラン人の本音は、アラブが好きじゃない」ともレザ君は言う。

 テヘランに住むイランの知識人から、こんな話も聞いた。

 「その通りです。その証拠に、例えばね。小さな子が親の制止を聞かずに、オムツのまま外に飛び出したとする。すると親はダメ。お前はアラブ人じゃないんだよと大声で叱りながら、追いかけるのだ」と。7世紀、伝統宗教、ゾロアスター教から、本来アラブの宗教であるイスラムに帰依した。おまけにマホメットの統一アラブ教団国家建設の故事に習って、1979年にはイスラム革命まで起こし、「神政イスラム国家」を宣言したのが、イラン人である。だが、そのイラン人も古代から刷りこまれたカルチャーはアラブ人とはまったく異なっていたのだ。

 それは、私にとって旅の発見のひとつであった。アラブ人とは、もともとアラビア半島とシリア砂漠にラクダを飼って住んでいた遊牧民だった。少なくとも、モハメットのイスラム教発生の頃までは。ところがペルシャ人たちは、農業の発展を背景に、すでに絢燗たる都市の文化を築いていた。ササン朝ペルシアの美術の影響は、中国をへて日本の飛鳥・奈良時代の文化にまで及んでいたほどだ。ペルシャ人とアラブ人とでは、文化の洗練度や気持の繊細さが違っているのだ。

 ところで、「イラン」と「ペルシャ」はどう違うのか。かくいう私もテヘランに出かけるまでは、いささかあやふやだった。双方とも同じ事柄をさしている呼称であることはいうまでもない。かつてイランはペルシャと呼ばれていた。ペルシャは、先祖のアーリア人が最初に入植した地方だった。1934年、パーレビ国王の父親、レザ・カーンが、この国の近代化の一環として、「イラン」=アーリア(高貴な人々という意味)と改名した。しかし、この国の伝統的文化については、いまでもペルシャ(ペルシャ美術、ペルシャ絨毯とか)と呼んでいるとのことだ。

 話を戻す。隣のアラブ人嫌いのイラン人は、むしろ地理的に遠い日本人と気持ちが通い合うところがある??。このレザ君の説は、多分本当なのだろう。イラン在住の日本人は、はたしてどう思っているのか。テヘランに長年駐在している大手商社の現地法人社長の野田さんが、こう裏打ちしてくれた。

 「たしかにイラン人は、アラブ人に対して心の底では優越感をもっている。日本人に対しては、親近感をもっている。日本に出稼ぎで5年〜10年住んだイラン人で、日本に悪い思いをもつ人はまずいないのではないか。ムスリムなのに、日本の神道の葬式は素晴しいなんて言う日本帰りの知識人もいる」と。


≪ 「幸せです」イランの日本人妻 ≫

 日・イ合作映画「ファルダー(明日)」(ちなみに日本語名は旅の途中で)が先頃、テヘランで上映された。イラン人の出稼ぎ労働者を大勢使っていた日本のある中小企業が倒産した。多くのイラン人労働者は不況の日本で他に就職先もなく、ビザの期限切れとなり給料未払いのまま帰国してしまった。“義理と人情のこの世界”をモットーとしているこの会社の社長は、残りの給料を支払うべく私財を整理して手元に残った現金をもってイランを訪れた。預かった履歴書に記載された住所を頼りに、元従業員を1人、1人捜し歩くという筋書きだ。このストーリーが、イランで大いに受けたという。日本人とイラン人、どうやら、人情の機微をキャッチする心の周波数が似ているらしい。

 「たしかに、アラブ人とイラン人は違うし、イラン人の心は日本人に近い。イラン人の出稼ぎ労働者と結婚して、この国にやってきた日本人妻がテヘランに200人いますが、心から幸せですという人が多い。イランの夫はマメで女房にやさしいんですよ。それだけでなく、日本の女性が1人で見知らぬ遠い国に嫁に来てくれたといって、親戚中が可愛がってくれる」とも、野田さんはいう。

 「アラブ人は女を働かせて、男が遊ぶ」と悪口をいうイラン人もいた。だが、こうしたアラブ観は、あくまで本音の話で、イスラム革命続行中の「神政イスラム国、イラン」にとっては、好ましくない。表向きのイラン社会、つまりこの国の建前にテーマを移そう。そもそもイスラムとは、絶対神に服従するという意味であり、聖典の教えを守っているかどうか、外形的な行為(外から見た形)によって判定される。しかも宗教の「戒律」、社会の「規範」、国家の「法律」が一致しているのが、イスラム教の特徴だ。単純にして明快、かつ具体的なのがこの宗教である。外形は二の次で心の中で神を信じていればよいとするキリスト教とは、そこが異なる。ある民族や社会集団に行き渡っている道徳的な慣習や雰囲気をエトス(Ethos)という。エトスを形成するもっとも基本的な要素が宗教だ。

 アラビア半島の遊牧民と商人のエトスを形成したイスラム教は、心の中で神を思っていたとしてもそれは他者には分からないから、あくまでそれを行為であらわすことを義務づけている。その内容はアッラー、天使、啓示(コーラン)、預言者(モハメット)、来世、宿命、の6つを信じ、信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼の5柱を実践し、かつコーランを頂点とするイスラム法を遵守することなのだ。大変わかり易い宗教だが、近代化された国々では窮屈ではないのか。異教徒が余計なことを考えるのもなんだが、いささか心配になったのである。


≪ 探訪・コーランのある風景 ≫

 現代イランの多くの人々は、どのようにイスラムの規範に対応しているのか。今回の旅の相棒である福建系マレーシア人3世で、東京工大と東北大で経済学博士をとったラオ・シン・イ(劉心義)君と、コーランのある風景を味わうために、テヘランの街を探訪したのだ。

 テーマは、女性の服装、断食、そして酒である。

 1、女性の服装について。2人の泊ったエステグラール・グランドホテルの玄関前には、女性の服装について英文の告示が書かれた看板が立っていた。

Dear Guest.

Islamic hijab mode of dressing is a brilliant manifestations of the civilization
of the Muslim Iranian woman.
We are grateful to you for respecting our civilization and culture.

                               Esteghalal Grand Hotel

 (お客様各位。イスラムのヘジャブ・モードの服装は、イスラム教徒であるイラン女性の文明への輝ける意思表示であります。あなた方が、わが国の文明と文化を尊重していただけたら幸いであります。エステグラール・グランド・ホテル)。

 1979年のイスラム革命以降、厳格なイスラム教国となったイランでは日常生活の中に、戒律がしっかりと食い込んでいる。この看板は外国人への服装の協力要請だ。日本から持参した旅行案内書には「イランでは、外国人にも服装の規定がある。まず頭にはスカーフをかぶり首まで覆う。上衣は腰まで覆うゆったりしたものを身につけ、足首まで覆うロングスカートを」とあった。

 イランの知識人女性に、恐る恐る聞いてみた。

??あれはそもそもアラブの民族服ではありませんか。それをまた何故イランが?

 「そうです。ほこりが多く、いつも暑くて乾燥している砂漠地帯はともかく、湿気の多いところではあの服装は無理。コーランには女性は胸をかくせとしか書いてない。坊さんがコーランの解釈権をすべて握って政治をやっている。それがいまのイラン。7世紀におけるコーランは、女性についてすごく先進性があった。女にも財産を半分相続させろと。欧州で女が相続権が与えられたのは、近世以降じゃないかしら」と。

 2、断食について。断食は、飢えた人の心の痛みを知るためのイスラムの5行のひとつだ。大都市のテヘランのラマダンでは、アラブ諸国とは異なり、戒律通り厳格に実行している人は、イラン革命直後に比して激減しているらしい。「真面目にやっている人は20%くらいではないか」との声もあり、「政教分離のマレーシアでもムスリムの50%は実行しているのに」と非ムスリムのラオ君も、びっくりだった。

≪ イスラムと酒 ≫
 
 3、酒について。「トルコから大量に酒が密輸されている」と聞いたが、われわれの街の探訪では、それらしきものを売っている闇屋もなかったし、ホテルも含めて酒類を出すレストランもなかった。ラオ君と私にとって、テヘラン滞在はよき休肝日だった。それでも未練がましくラオ君は、レストランで「ノン・アルコール・ビール」を注文した。ドイツ製で、ビールからアルコールを抜き取ったもので、とても飲めるような代物ではなかった。

 「酒を飲んではいけないとコーランに書いてあるのか」とラオ君。「コーランの女人の章に、酒に酔って礼拝してはいけないとはあるけど…」。私は、一夜漬けの知識を彼に披露したものの、コーランが飲酒を禁止しているかどうか、つまびらかではなかった。後刻、コーランの日本語訳を読むうちに事情が判明した。コーランには次のような天国の叙述がある。

 「錦織の寝台の上に向かい合ってよりかかる。永遠の少年たちがそのまわりを、酒杯と、水差しと、泉から汲んだ満杯の杯など献上して回る。頭痛を訴えることも、泥酔することもない。(中略)広々とした日陰と、湧き出る泉のそばにあって、(中略)高くしつらえた寝台が彼らのためにある。われらはこの乙女たちを造っておいた。けがれない処女につくりあげておいた。」

 戒律を守って日陰と泉のある天国に行けば、酒は飲めるのだから、熱い砂漠の現世の生活で、酒は飲むべきではないとのイスラムの規範は、多分ここから生れたのだろう。

 イラン滞在の3日間禁酒を余儀なくされたが、酒とは、なければないで済むものではないか??私はイランでそんな気持ちにさせられたのだ。イスラム世界とは、げんに不思議なところではないか。酒のことはそれでよいのだが、私たちの今回のイラン旅行のテーマは、世界初の坊さんが支配するイスラム共和国の将来はどうなるか。その手がかりをつかむことであった。


≪ 「イスラムは資本主義と矛盾する」 ≫

 そのことを語り合うために、テヘラン市内のイラン料理屋に英語を話す4人の若い知識人に集まってもらった。2人は女性エコノミスト、1人は男性の経済ジャーナリスト、もう1人は日本留学の経験をもつ女性の社会学者で、いずれもテヘランのエリート大学出だ。

 「僕は失業中だ。勤務していた新聞が、保守派のガーディアン(イスラム教の守護者=坊さんのこと)に発禁処分を受けた。私の兄弟全員、いまアメリカにいる。僕も渡米するかどうか迷っている」

??イラン人は、自由にアメリカに出国できるのか。今日、テヘランのアメリカ大使館を見物してきた。1979年、400人のイラン革命の護衛隊が、大使館に侵入、52人の大使館員を500日間人質にした。いまその大使館は空家だし、イランと米国は敵対状況のままだろ…。

 「アメリカがイラン人にビザを出すかどうかの問題であって、イランから外国に脱出するのも帰国するのも自由だ」

 「年に一度、海外の留学先からテヘランに戻るたびに、大学時代の同級生に連絡をとってみるの。すると電話口にお母さんが出て来て、娘は外国(米国か欧州)に行ってしまったと寂しそう。私の同級生は、ほとんどイランに残ってない」

??イスラムと経済発展の関係についてどう思う?

 「私、テヘランで欧州系の外資に勤めているんだけど、つくづく思う。イスラムと資本主義は矛盾する概念だと思う」

??例えば利息のこと?

 「それもある。コーランにはアッラーは商売はお許しになったが、利息取りは禁じ給うたと書いてある。でも、そんなことより、資本主義はもともとイスラムの規範に合わないように思うの」

??マックスウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の本知っている?

 「読んでないけど、アメリカに留学したから内容は聞いている。プロテスタンティンズムが、資本主義を爆発的に発展させたという話でしょ。イスラム世界にはそれが起こらないのよ」

??いまの神政イスラム・イラン共和国はどうなると思う?

 「1、2年で行き詰まるんじゃないかな。Clergy(坊さん指導者層)と民衆の心がこの20年で離れ過ぎてしまった。最初は良かったみたいだけど…」

 この国は、極端から極端に、振り子の揺れを繰り返しているのではないか。イスラムの規範の呪縛から抜け出そうと政教分離による近代化をめざすと、極端な不平等社会が発生、民衆は怒る。その反作用としてのイスラム革命によって「平等社会ウンマ」をこの世に作ろうとすると、近代に乗り遅れ、経済は停滞する。このジレンマこそ、7世紀、アラブに敗北し、ペルシャ史の中に、決定的な章を記録したイランが、近代になって背負わねばならぬ宿命だったのかも知れぬ。私の独白である。

≪ どこにいったの? イランのキャビア ≫

 この日の会食のイラン料理は、地元の彼らの推奨だけあってなかなかの美味だった。ケバーブ(牛肉の串焼き)を、焼きトマトと香草と一緒に食べる。サラダバーから、野菜とピクルスとナンをもってきて、ヨーグルトをまぶして食べる。シチューにナンや野菜を細かくちぎってかきまわしてから食べる。いずれも珍味だ。だがアセテリン(キャビアの親魚)の切り身の塩焼は、感心しなかった。

 「アゼルバイジャンのアセテリンとキャビアはうまかったよ」。そう言ったら「私たち、キャビアの味知らないのよ。母が言ってたけど、イスラム革命以後、カスピ海のキャビアは政府の厳重の統制下におかれ、イラン人の家庭から姿を消してしまったそうよ」と。パーレビの時代を知らない彼女らは、キャビアの味を知らない世代だった。

 テヘランの英字紙に、イランのキャビアについて面白い記事が出ていた。「Caviar Sales Hit by Sept.11 Attacks」(キャビア売上げ9・11で大打撃)の見出しつきだ。それによると、イラン・キャビアの主要な市場は欧州や日本の国際線のファースト・クラスの客用だが、9・11以降、客が激減、イラン歴2002年の上期の売上げは10トンで、前年同期比3分の1になってしまったという。ちなみに1キロの却値は650ドルとのことで、イラン政府は、昨年は70トン輸出したとのことだ。「オー・グッド・ニュース。売上不振で値崩れしている」。そう思って帰路、空港の免税店に寄った。だが小さなカン入りで、なんと100ドル。安くなった気配はない。きっとこの国の経済には需要と供給によるプライス・メカニズムが働いていないのだろう。
 



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