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近年、アジア海域において航行安全を阻害するような問題が多発している。海賊問題、海上テロの危機、老朽船の氾濫などである。
マラッカ海峡は、歴史的に見ても常に紛争の舞台となっている。それは、マラッカ海峡が東西交通の要衝に位置し、多くの人々、多くの物資が行き交う文化・経済の十字路であったからである。この海峡に影響力をもつことは、ひいては東西交易によりもたらされる利益を享受することにつながる。かつて、ポルトガル、オランダ、イギリスが覇権を争い500年にわたり紛争を繰り返した。
現在のシンガポールの繁栄が、この海峡の社会的、経済的な魅力を物語っている。
マラッカ海峡は、インドネシア・マレーシア・シンガポールの3カ国に囲まれ、海峡内の海域は、必ずいずれかの国の領海に属し、公海は存在しない。また、小さな島が散在するため領有権の主張が重複し、国境線が定まっていない。海峡を囲む3カ国は、宗教・民族・社会体制も微妙に異なり、協調関係が確立しているとは言えず、国際的な場面で相互牽制を行うことも多い。本来、同一域の海の民として、文化を共有していてもおかしくは無い国々であるが、海峡を取り巻く歴史の変遷が、この海域の含有する問題をより複雑化している。この3カ国間の微妙なすれ違いが、海上安全の隙間を作り、海峡内における安全確保のための協力関係が今ひとつ確立できない理由となっている。
1997年、タイを起点としアジア各国の経済を奈落の底に陥れたアジア通貨危機は、マラッカ海峡沿岸国も巻き込み、各国の経済状況に未だ深い傷跡を残している。特に、インドネシアにおいては、スハルト政権崩壊後、政権変動が繰り返され、軍部・イスラム宗教指導者・民主運動活動家などの駆け引きによる微妙な均衡状態の中に現在のメガワティ政権が存立している。東チモールの独立、アチェ地域の独立を目指した反政府運動をはじめ、いくつか地域で度重なり発生している宗教対立、民族紛争などにより、経済も瀕死の状態である。幾多の問題を抱えた地域を近隣に持つマラッカ海峡は、地雷原中の細道のようなものである。
≪ 海賊の横行 ≫
1999年10月、日本の船会社が所有する貨物船アロンドラ・レインボー号がマラッカ海峡内で、積荷のアルミインゴットと共に海賊に連れ去られた事件は、記憶に新しい。
アロンドラ・レインボー号の船員は、マラッカ海峡内で救命いかだに乗せられ海上に放置され、11日間漂流した後、タイの漁船に救助され九死に一生を得た。船長・機関長の2名の日本人が被害者に入っていたことから日本国内でも注目される事件となった。
マラッカ海峡では、近年、頻繁に海賊事件が発生するようになっている。日本の船社が関わった海賊事件も複数発生している。アロンドラ・レインボー号事件の前年の1998年、同様にアルミインゴットを積んだTENYU号が海賊に連れ去られ、後日、中国・長江沿岸の張家港(チャンジャガン)にて別の船名に変えられ停泊しているところを発見されている。TENYU号事件では、乗組員韓国人2名、中国人12名全員が現在でも行方不明である。また、2000年2月には、パームオイルを積んだタンカー、グローバルマーズ号がマラッカ海峡北部で行方不明になる事件もあった。グローバルマーズ号事件では乗員は小船に移され海上に放置された。
マラッカ海峡内での海賊事件は,2000年がピークであり、75件が報告されている。2001年度は、マレーシア海上警察の集中的な取り締まりもあり、17件に減少した。
減少したといえども他の海域に比べると未だ高水準にあり、海賊海峡とさえ言われている。
2002年も9月末日現在で、既に11件の事件が発生している。依然、危険な海域であるといえる。
国連海洋法条約では、海賊行為とは公海上で行われたもののみを指すと定義しているが、マラッカ海峡のようなすべてどこかの国の領海に属す海域で起こった海上掠奪行為も被害者側から見れば海賊行為であり、ここでは、IMB(国際商業会議所国際海事局)の見解に従い、公海、領海内問わず海賊として扱う。
マラッカ海峡における海賊の形態も年々、変化をきたしている。国際的な犯罪シンジケートによる掠奪型の事件がなりを潜め、反政府組織による身代金目的のハイジャック事件が多発するようになっている。
マラッカ海峡沿岸部における海賊事件の形態は、一時期多発したシンジケートにより船ごと積荷とともに奪うハイジャック型の犯行からロビンフット海賊と呼ばれる沿岸民による小口の強盗型へ変わり、現在では船を拘束し身代金要求を行う海賊が多発している。特に2002年に入ってからは、この身代金目的のハイジャック事件がアチェ地方沿岸部付近を中心に拡大傾向にある。身代金目的ハイジャック犯たちは、小型のタンカー・貨物船、漁船など弱い獲物を狙う傾向がある。同一日に複数の漁船が襲われる事例も発生している。インドネシア当局によると、これらのハイジャック事件により得られた身代金は、イスラム反政府組織の資金源とされているという。身代金要求の事件は、被害者の安全の確保の問題からなかなか被害の報告がなされておらず、また、最近では、要求先が工面しやすい、1隻あたり100万円相当ほどの要求金額にし、短時間で犯行を完結している。
また、インドネシア領海内では、相変わらず窃盗型の海賊事件が多発している。特にマラッカ海峡の中でも航行の難所とされるカリムン島沖からシンガポール海峡の西の入り口フィリップチャンネル付近で頻発している。
2001年6月、カリムン島の沖を航行していたインドネシア政府の航路標識施設船、カラカタ号が海賊に襲われ乗員の1人が傷を負う事件が発生した。カラカタ号事件では海賊1名が船員に取り押さえられ犯行グループの全容が把握されている。
航路標識施設船カラカタ号は、スマトラ島ドマイを母港としている。同船の役目は、マラッカ海峡内のブイなどの航路標識点検と補修である。この時も、毎年恒例としている海峡内の航路標識の定期点検作業をおこなうため、日本から技術指導のため参加するマラッカ海峡協議会のスタッフをバタム島まで迎えに行く途中だった。カラカタ号は、外見は貨物船のようであり、逮捕された犯人の証言によると海賊グループは、中国の貨物船と錯誤し襲撃を行った。犯行グループの中核は、バタム島に本拠地を置く暴力的犯罪グループで、長引く経済危機により職を失った船員などを集め組織を構成している。犯行にあたっては、現地カリムン島で、8人の協力者を雇い入れ、高速艇を借り入れ海賊行為に及んだ。バタム島の犯罪グループは、ハイジャック型の海賊事件が多発していた頃の実行犯グループであると推測されている。
≪ 海上テロの恐怖 ≫
2001年9月11日にアメリカ合衆国で起こった同時多発テロの影響は、マラッカ海峡沿岸国へも多大な影響を与えている。マラッカ海峡を囲むインドネシア、マレーシア、シンガポールの3カ国の宗教は、インドネシア、マレーシアがイスラム教国家であり、シンガポールは仏教、キリスト教中心としている。
インドネシアにおいては、「ジュマー・イスラミア」や「アチェ自由運動」を始めとしたイスラム過激派が多く存在しており、2002年10月12日、バリ島で発生した外国人を標的とする無差別テロのような事件がいつ起きてもおかしくない情況にある。残念ながら、スハルト大統領失脚後、政権も安定せず、経済の危機的状況が続き、治安維持に政府の力が及ばない地域があるのが現状である。マレーシアにおいては、マハティール首相の強い指導力によりマレーシア国内おけるイスラム過激派の指導者たちの身柄が拘束され、テロの危険は事前に押さえ込まれており、イスラム過激派はテロを行う体制には無い。要注意なのは、インドネシア側の地域である。
テロ行為に対して、最も神経質になっているのはシンガポールである。シンガポールは、実質的に華人中心の国家であり、インドネシア、マレーシアのイスラム国家とは、まったく性質も異なり、沿岸3カ国の中で経済的に最も繁栄しているシンガポールは、他の2国の国民からの羨望の的である。
マラッカ沿岸国でのテロ行為において、日本人の生活に最も影響を与えるのは海上テロである。シンガポールは、数年前から海上テロを想定し対策を検討している。具体的には、ジュロンなどの沿岸部の工業地帯、石油精製プラントなどを特別警戒地域に指定し、軍、ポリスコーストガードが警戒態勢に入っている。マラッカ海峡を航行中のタンカーもしくはLNG、LPG運搬船が乗っ取られ、シンガポールの石油プラントなどに激突された場合、シンガポールは都市機能を破壊され、また、マラッカ海峡の封鎖も余儀なくされる。マラッカ海峡が火の海と化す危険がある。
シンガポール海軍は領海内において、海賊対策、海上テロ対策も合わせ、警備を求める大型タンカーなどの護衛にあたっている。
2001年6月、インドネシア、スマトラ島北部のアチェ地方を中心に活動するイスラム過激派反政府組織アチェ自由運動は、「マラッカ海峡を通航する船舶は、アチェ自由運動の許可を受けなければならない。」と一方的に宣言した。アメリカで同時多発テロが起こったのとほぼ同時期の2001年8月、実際に航行中の商船を襲い、船員を誘拐し、身代金の要求を行った。この事件は、同時多発テロに世界の目が集中し、あまり注目されなかったが、幾つもの国際条約に守られている船舶の無害通航権を脅かすものである。
≪ 海上テロヘの対策 ≫
2002年11月、日本の海上保安庁は、大型巡視船「やしま」をインド・チェンナイに派遣し、インド・コーストガードとともに合同訓練を行った。2000年に日本財団の支援により開催されたアジア海上保安機関長官級会合での合意に基づき海上保安庁が行っている国際協力体制構築活動の一環である。本来、この合同訓練は、国際的な海域を荒し回る海賊に対処するため行われて来た。既に2001年度にマレーシア、タイ、2002年度には、インドネシア、フィリッピンとも行っている。
日本の海上保安庁とインド・コーストガードとは、アロンドラ・レインボー号事件以後、密接な協力関係を作り上げてきており、合同訓練は2000年に続き2回目である。
しかし、今回のインドとの合同訓練において注目すべきことは、海上テロ対策の訓練が予定されていたことである。イエメン沖でのタンカーへの自爆テロなど海上テロが横行する兆しも出てきており、海上テロ活動に対処する国際協力体制の構築が急務となっている。
残念ながら実際の合同訓練においては、悪天候のため海上テロ対策の部分は実施されなかったようだが、海上テロに対して国の枠を超え対応していこうとすることは高く評価できる。
≪ アジアの海を守る国際協力体制の整備 ≫
ここ数年、海上保安庁では、アジア諸国の海上保安機関と積極的に協力関係の構築を行ってきた。特に海賊対策においては、日本財団との共同歩調により2000年にシンガポールにおいて海賊対策専門家準備会合を開催したのを皮切りに、2001年4月東京で行われた前述の海上保安機関長官級会合、同年マレーシアのクアラルンプール、2002年インドネシアのジャカルタで海賊対策専門家会合を開催し、新しいアジア海域における国際的海上保安協力体制の構築を進めてきている。
海上保安庁と日本財団では、将来に亘る海上保安機関の恒常的な協力関係をも視野に入れた事業を推進している。具体的には、2001年度よりアジア各国から将来の幹部候補である若手の担当者を日本に招聘し、およそ3週間、日本で海上保安制度の研修を行っている。この研修では、アジア各国の日本への理解促進のみならず、アジア各国間の交流にも重要な役割を果たしている。
また、近年、アジア各国の海事関係機関では、スウェーデンのマルメにある世界海事大学(WMU)の卒業生が数多く中枢となるポストにつき始めている。アジア地域のWMU卒業生の過半数以上は、日本財団から提供された奨学金を受けており、親日家も多く、アジア地域の海事関係者は確実に日本の方向を意識し、新たな協力関係の礎はできている。
≪ アジア各国の新しい海上保安体制の設立 ≫
現在、マレーシアとインドネシアにおいて新しい海上保安機関の設立の計画が進められている。コーストガード体制の整備である。現在、マレーシア・インドネシア両国ともに海上安全の確保は、海軍をはじめとし、海上警察、海事局など複数の機関により行われている。残念なことに、対外的な窓口も一本化されておらず、各機関の縄張り意識もあり、有効な海上安全体制が確立されていないのが現状である。
そこで、両国ともに海賊や海上テロなどの複雑化、国際化してきている海上犯罪に対処するため新しい海上保安体制・コーストガードの設立を検討している。
マレーシアにおいては、既にコーストガードの設立構想は具体的な仕組みを検討する段階にきており、新体制の枠組み作り、既存海事関係機関との役割分担の調整が進められている。首相府国家安全局の海洋担当部長は、既に日本の海上保安庁の体制、活動内容の調査のため来日し、日本の制度の一部を取り入れた組織作りも検討されているようだ。
インドネシアにおけるコーストガード構想は、2002年からようやく検討が開始された段階である。現在、同国の海上安全問題では海軍の発言力が極めて強く、安全保障の問題もあり、国際協力の枠組み作りにおいていくつかの障壁が存在している。新コーストガード構想は、メガワティ政権の実力者で、軍出身のスシロバンバン=ユドヨノ調整大臣を中心に始動されている。
≪ 終わりに ≫
海は世界とつながっている。国際法上は、海には領海、排他的経済水域(EEZ)などの境界線が存在するが、海に生きる人々には、あまり意味をなすものではない。潮流は、領海線を意識して流れることは無く、魚は、EEZなど知らない。
現在、イスラム諸国とアメリカの関係など緊迫した国際情勢が続き、国家という意識が強くなっている。
国家の意識を持つことは、自国の安全保障、経済の繁栄の観点からも重要なことである。しかし、海上犯罪者たちは、この国家意識を利用し、領海、公海をたくみに利用した犯罪を繰り返している。早急に国家と国家の協力関係による海上安全体制を構築することが重要である。
海賊問題を契機とし、日本の海上保安庁が中心となりはじまったアジア諸国の海上保安協力体制の構築をさらに拡大、充実してゆくことが、最も即効的でかつ重要なことであろう。
マラッカ海峡の安全確保のための費用負担の問題が、沿岸3カ国の中で議論されている。受益者に応分の費用負担を求めようとするものである。
海上犯罪対策のみならず、海峡内の安全確保には航路標識の整備、海上安全情報の提供など費用のかかる問題も多い。我国をはじめ海峡の利用により恩恵を受ける者は、その安全確保のための費用負担の問題を真剣に検討しなければならない。
マラッカ海峡が利用不能となってからでは遅く、海峡沿岸国とともに利益を受ける国々、利益を受ける企業が海峡にかかる費用の負担の議論を早急に開始する必要があろう。日本も国家と、民間が一体となって日本の生命線マラッカ海峡のことを考えなければならない時期にきている。
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