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この秋11月19日に、私が働いている日本財団の関連財団である社会貢献支援財団が、第32回社会貢献者の表彰をする。緊急時に人の生命を救った、多年にわたり地味な奉仕的仕事をし続けた、などの功労者で、勲章や褒章などの対象にならなかった方たちの存在を世の中に知ってもらおうという意図である。その中には、他人を救うために、自らの命をさし出した人が4人も含まれている。
通俗的なことになるけれど、副賞は100万円で、私は毎年「このお金は、別に更にいいことのために使おうなどと思わないで下さい。お宅のお台所やお風呂場が古びていれば修繕費、お子さんやお孫さんがおられればお2人で行くハワイ旅行、脚が不自由になりかけておられたら、中古の軽自動車購入の費用にお充て下さい」と挨拶している。私のうちで、97万円で中古の軽自動車を買ったのだから、買えることがわかっているのである。
長年にわたる功績の中に、海外で働く宗教関係者がいることはずっと以前から選考委員の1人だった私の視野の中に入っていた。具体的に言うと、もう何十年もアフリカや南米や中近東などの劣悪な生活環境の中に住みついて、地域の人々のために働きながら、決して撤退しなかった人々である。しかしたとえば修道女がそうした生活を選ぶのは、「当然のこと」とも言える。だから、敢えて表彰する必要はないのではないか。こういう考え方が私を何年間も沈黙させていた。しかし事業の大きさは、際立って大きい。他の選考委員も賛成されて、何年も先送りになっていた宗教関係者の表彰が今回から行われることになった。
今回選ばれたのは、兵庫県宝塚市にある「ショファイユの幼きイエズスの修道会」のシスターたち8人で、中央アフリカのチャドという国の奥地で教育や医療のために働いている。私は今迄に2度、彼女たちを訪れているが、その時の模様を伝える方が、その生活の一部を伝えられるだろう。
チャドの首都ヌジャメナに飛行機が着陸した時、それが赤道直下に近い国であるにもかかわらず、私たちは一瞬飛行機が吹雪の中に降りたのではないか、という錯覚にとらわれたことがあった。白い吹雪と見えたものは、実は飛行機の前照灯めがけて飛来する蝗(いなご)の群だったのである。私たちはそこからチャーター機で450キロほど奥のライという村の草っ原の飛行場に降り立ち、そこで働くシスターたちが経営するたった3教室の幼稚園の教室の床に寝かせてもらったのである。村には店らしい店もなく、ホテルなどあるわけもなかった。
その夜のことである。同行者の男性たちのいる幼稚園の建物に、お酒のおつまみを届けようとして庭を横切ろうとした時、私は自家発電で動いている電気を利用して、たった一灯だけついている蛍光灯の下の大地に異様な気配を感じた。無数のゴキブリが重なり合ってうごめいているという感じだが、私は乱視で視力に自信がなかったので、懐中電灯をつけ、眼鏡をかけなおして地面を見た。それは蛍光灯に集る虫を食べようとして集って来る数百匹の蛙が折り重なってうごめいている姿であった。
ライから更に50キロほど先に、シスターたちが泥壁の小屋を使って開いているギダリの診療所がある。悪路のために車は時速15キロほどしか出ない。その悪路のために、みすみす人の命が失われることをシスターたちは話してくれた。貧しい家計を助けるために牛飼いをしていた少年が、角に刺されて腸が出るほどの傷を受け、とにかく手術ができる施設のある町まで運ぼうとしたのだが、この悪路のために時間がかかって遂に途中で絶命したという話である。
私たちは診療所でたまたま入院患者が到着する光景に出合った。この家族は牛車に、病人、蒲団、食料、ナベカマ、調理用の薪、急ごしらえのカマドを作るための石3個などを積んでやって来たのである。アフリカの多くの土地で、病院や診療所は電気も水道もなく、食事も出さないから、病人には必ずつきそいの家族が食事を作ってやらねばならない。手術もできず、レントゲンはもちろん、点滴もできないだろうが、それでも彼らは看護婦のシスターに症状を訴え、診断ではなく推定される病気について説明を聞き、薬をもらって、心に安心と希望の灯がともるのを感じるのである。
9カ月間は1滴の雨も降らないという土地である。冷房も扇風機もなく、もちろん給湯の設備もなく、シスターたちは暮していた。私が行った時、シャワーは缶づめの空缶にキリで穴を開けた升から、ただみじめな水がしたたっている、という暮しだった。最年長のシスターは脇山ミキコさんで、今は70を既に越えている。一番若い平静代さんでも45歳である。皆、そろそろ老眼がかかり、皺もふえる年である。車から降りるとお互いの顔の皺にしっかりと入った埃を笑い合い、夜ランプの灯では読書をしたり会議用の書類を読み書きするのが辛くなったというので、私たちは彼女たちに発電機を贈ったのである。すると、これで懐中電灯を口にくわえて、お産の時赤ちゃんを取り上げなくても済みます、と礼を言われた。
2度目の訪問の時、私たちは役に立ちそうなすべてのものを置いて来たが、私が最後におアイソのように「他に何か要ります?」と聞くとシスター平が言った。
「ワイヤーロープ!」
私たちがアフリカヘ出かける時には、必らず泥濘から車を引きずり出すためのワイヤーロープと折り畳み式のスコップを携行することになっている。そのロープは決して安くはなく、アフリカでは貴重品なのである。車が常に悪路につかまって立ち往生することにこりているシスターは、苦々しい顔をしている私から、このロープをせしめたのである。
何のためにそういう生活を、と言う人がいる。私はシスターたちに代って答える立場にない。神がそれをお望みだから、と答えてもいいが、それは少し型通りにすぎる。チャドのシスターではないが、少しも神がかり的なところはなく、「神に会ってしまったから仕方がないんですよ」と言った人もいた。
しいて言えば、彼女たちは手応えのある人生を生きている。「受けるより与える方が幸いである」(使徒言行録20・35)という聖書の言葉を実感している。人生は退屈どころか、生の気配に満ちているのだ。
矛盾だらけの貧しいチャドの朝、夜明けから2時間ほどの間に、私はこの世ならぬ天国のようなアフリカの暁の色を見た。星は1つ1つ消えて行き、鳥は眼覚めてさえずり出し、近くの繁みは朝焼けの色に燃え上った。そして私の呼吸する空気は、かつて人間の肺に一度も入ったことがないと思われる新鮮な香に満ちていた。朝はアフリカの歓びをうたっていたが、それは数時間後には乾いた埃だらけの憎悪の酷暑に変質して人間を苦しめるのである。
首都ヌジャメナには、奥地にいるシスターたちの活動を支える大黒柱のようなシスターがいた。永瀬小夜子さんである。しとやかなヴェールの修道女というより、肝っ玉母さんのような飾り気ない頼りになる人柄であった。
シスターは2002年4月5日、朝のミサを珍しく休んだ。そしてそのまま自室でこと切れていた。
シスターの遺骸は日本に帰らず、生涯を捧げたチャドの地に葬られた。多くの修道会は、任地に眠ることを会則としている。
私はシスター永瀬の墓にまだおまいりしていない。しかし恐らくそのお墓は、その頭上だけでなく、地平線まで、びっしりと夜空で輝くアフリカの星に見守られているだろう。その信じ難いほど壮麗な天空が、シスターの奥つ城を覆う掛布としてふさわしいとは言えないが、それは少くとも神がここに1人の偉業を果した日本人がいることを示し、その祝福のあかしを送っているように思えるのである。
≪文藝春秋 平成14年12月臨時増刊号特別版『日本人の肖像』より転載致しました≫
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