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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: バヌアツ・名も知らぬ遠き島(上)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2003/01  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 「ラピタ土器」文化 ≫

 名も知らぬ遠き南の島に出かけた。れっきとした独立国だが、日本人でこの国名を知る人は、1万人に1人もいないのではないか。その国はバヌアツ共和国(Republic of Vanuatu)という。

 6年ほど前、私の勤務する財団の姉妹基金である「笹川太平洋島嶼国基金」が、太平洋に22もある小さな島の国々のジャーナリストを東京に招いた時のことだ。この国の新聞記者が、「日本人で私の国の名前を知ってる人、誰もいない」と嘆いたのを思い出す。以来、この国は私にとって気になる存在であり続けた。

 ひょんなことがきっかけで、この国を訪れる機会がめぐってきた。「古代南太平洋の文化の絆である土器の出土現場がバヌアツにもある。いきませんか?」島嶼国基金のプログラム・オフィサー、早川理恵子さんから誘いがあったのだ。

 欧州の地理学者によってミクロネシア、ポリネシア、メラネシアに便宜的に分類されている太平洋の南の島々だが、3000年前、豊かな共通の文化が存在していた。考古学では「ラピタ土器」の文化という。この土器は、日本の縄文式のそれとよく似ているが、相互の関連はよくわかっていない。しかし太平洋の島々で同じものが次々と発見され、東西南北何千キロにもおよぶ海域に散在する島の人々が、島から島へとカヌーで往来し、ひとつの文化を形成していたことが最近わかってきたという。

 18、9世紀以降南太平洋には、スペイン、オランダ、英国が次々とやってきて、それぞれ植民地化し、キリスト教文明で島々を塗りつぶした。それ以来、島々の先住民たち悩み抜いた。俺たちはいったいどこから来たのか、島々に海を隔ててバラバラに住む俺たちに、アイデンティティ(一体性)はなかったのかと。1970年代、この島の隣の国、ニューカレドニアのラピタ海岸で、古代文明の存在の証としての土器が発見された。それは、彼らの共通の「出自の証明書」でもあった。以来、南の島々の連帯感は急速に強まったとのことだ。

 バヌアツは辺鄙なところだ。隣の仏領ニューカレドニアには、毎年2万3000人の日本人観光客が訪れ、とりわけ新婚旅行に人気がある。成田からフランス航空の直行便で8時間50分で、首都のヌメアに着く。だがバヌアツはお呼びでない。日本人には知名度の低いこの国に行くには、ニューカレドニアに1泊するか、オーストラリアかニュージーランドに飛ばねばならない。

 2002年7月末、私は9時間半かけてシドニーに行き、そこから乗り継いで3時間半も飛んで、バヌアツの首都であるエフェテ島のポートビラにたどりついた。「バヌアツとはいかなる島か」、出発前若干の予習を試みたのだが日本の文献にたいしたものはない。英文の旅行案内書(Lonely Planet)のVANUATU編を機中で読み耽った。

 「バヌアツ」とは現地語で、「OUR LAND」(私たちの土地)という意味だ。1980年独立してそう名乗った。それまでは英国とフランスの共同植民地だった。83の島からなる国で、このうち12の島に25万人が住んでいる。欧州人がこの島の存在を知ったのは、1774年。英国人キャプテン・クックの船が島を発見、スコットランド沖にあるHebrides諸島に似ているところから、ニュー・ヘブリデスと名づけた。欧州人もいい気なもんだ。勝手に名前をつけられ先住民はお気に召さなかった。そこで独立後、わざわざ「私たちの土地」という名の国家を作った。


≪ 「Me longtime No luk you」 ≫

 私たち一行はこの島の案内人をKeiko Shanさんにお願いした。漢字で書くと「單恵子」さん。中国語の姓名だが、日本女性だ。ご主人が中国人で彼女の生家のある横浜で結婚、ご主人とともにこの島に渡り、日本国籍をもったまま17年間住んでいる。

 「バヌアツ人の70%は、英語を話す」と観光案内に書かれている。でも街の中で聞いているとちょっと奇妙な英語であることに気づいた。島民にちょっとばかり気どって文法的に正しい文章で会話を試みたら、通じない。単語を並べてたどたどしく話すとよく通ずる。

 バヌアツの恵子さんが、彼女のバンの運転手と話している英語もそうであった。彼は高校のフランス語の先生で、夏休みのアルバイトで旅行エージェントの恵子さんに雇われている知識階級だ。フランス語も英語も、片言ではないはずだ。にもかかわらず、2人の会話はまるで片言の英語だ。ときおりまったく耳にしたことのない現地語らしき単語が混じっている。失礼とは思いつつ、恵子さんに聞いた。

 「その言葉、英語ですか?」

 「まあ、英語もどきとでもいいましょうか。ビスラマ(Bislama)といって、この国の国語です」

 国民の65%は、常時、この言葉を使っているそうだ。恵子さんによれば、バヌアツの島々には方言が100以上もあり、相互に話が通じないので独立後、憲法で共通語であるビスラマを国語と決めたそうだ。本屋で「バヌアツのピジン英語入門、ビスラマ語のすべて」という本を求めた。ピジン英語(Pidgin English)とは、英語と現地語の混成語という意味だ。この本の英語の題名は、Everything you wanted to know about Bislamaだが、ビスラマ語だとEvri Samthing you wantem savelong Bislama.となる。

 この変てこな英語、英国人とオーストラリア人が先住民との交易のためにつくった言語だという。19世紀末から20世紀初頭にかけて開発されたが、当時のこの島の主要輸出品は、香を焚く原料である白檀の木で、鉄砲、タバコ、馬、ヤギ、犬、ネコなどと交換したという。私は、あなたが好きは、Me like you、お久しぶりはMe longtime no luk you、という。現地語の文法に英単語をはめたもので、簡にして要を得ており、わかり易い。

 ところで、こんな小さな国に、どうして100以上も方言があるのか。バヌアツ国立文化研究センターのラルフ所長に聞いてみた。彼はビスラマ語ではなく正統派の英語で答えた。

 「古代のバヌアツでは、島ごとに言葉が異なっていた。それだけでなく、ひとつの島の中でもそれぞれの部族は、ジャングルと海に隔てられ相互の往来は稀だった。だから、お互いに通じない沢山の方言が存在していたのだ」と。いくつかの王国の寄せ集めであるインドネシアも、それぞれの地方語で成り立っている国だ。そこで共通語が必要になり、マレー語の変形であるインドネシア語を創造した。ビスラマもそれと同じだ。


≪ バヌアツ野菜は、なぜウマイ ≫

 第2次大戦中、日本軍は、バヌアツの隣の島まで進攻した。ソロモン諸島である。日本進攻を食い止めるべく1942年、米軍10万人が首都のあるエフェテ島に上陸、基地を構築した。島民は防衛軍の兵になったり、米軍基地で労務者として働いた。米軍のくれる給与はびっくりするほど高く、島は戦争景気にわいた。この時の駐留米軍人の中に、J・F・ケネディ元アメリカ大統領がいたという。

 この島の経済は米軍の基地時代が最も豊かだった。

 「バヌアツは独立したものの、経済は植民地時代よりも悪くなったのではないか」。案内役の恵子さんはそういう。経済は農業が基本で、人口の80%がタロイモ、ココナッツ(椰子の実)、ココア、野菜栽培、牧畜に従事している。バヌアツ産の牛肉の80%は日本に輸出される。

 ポートヴィラの朝市に出かける。食糧は豊かだ。だが決して安いとはいえない。ヤムイモ。この島では、ゆでたり、むし焼きにして主食にするが1本が3キログラムの大きさで、日本円で500円。新鮮な中国野菜が沢山ある。バヌアツの商店主は中国系の移民が多いので、その人たち目当てに先住民が栽培している。チンゲン菜が1束で100円。「バヌアツの野菜は世界で一番おいしい」恵子さんがそういう。この島は土が豊かだ。何万年前の噴火で火山灰が堆積し、その上に熱帯雨林の落葉が積み重なって何千年もかけて土壌が形成された。その土の養分を吸いとった野菜なのだから、肥料と殺虫剤漬けの日本や中国の野菜とは、ひと味もふた味も違う。ジャングルを切り開いた処女地の香りのするみずみずしい野菜だ??というのだ。

 「Me Wantem go home」ビスラマ語を復習してみた。「食べてみたいですね」と言ったのだ。「Small time go home」ごつそく恵子さんが応じてくれた。その返事は「ちょっと家にお寄り下さい」であった。

 その夜、ポートビラの海の見える丘の上、高級住宅街の一角にある彼女の家に招待された。中華料理店主もやったことがあるというご主人の事業家、ミスター・單の手作りで、何種類もの野菜妙めをごちそうになった。たしかに珍味、この上なし。

 古典落語の「目黒のサンマ」じゃないけれど、「野菜はバヌアツに限る」、と吹聴してみたくなったのである。
 



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