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人を幸福にする仕事には、全力をあげるのが自然な人間の行動である。人間は誰でもいつかは生涯を終える。その限られた時間の中で、どれだけ働けるか(与えられるか)、どれだけ幸福を感じるか(受けられるか)が問題なのだ。この2つの量と質ががっしりと釣り合っているなら、その人の人生は成功だったと言える。
今世界には、親から引き離された子供がたくさんいる。売られたり、政変で離ればなれに生活することになったり、親が死亡して孤児になったりした子供たちである。ことにアフリカ大陸の南部には、父親は最初からその存在がわからず、母親が幼い子供を残してエイズで死亡し、1人になって短い生涯を終える子供も多い。
それに比べたら日本人は幸福な毎日を送っている。清潔な生活をし、今晩食べるものがないこともない。政治家のやることは、最近ますます人間の醜悪な部分丸出しになってきたが、日本人全体が律儀だから、今程度の生活水準は保たれてきたのである。
しかしまだまだ人間の幸福についてうつべき手はある。最近長寿になり、癌で死ぬ人が増えた。あと半年、長くても1年と言われて入院するような場合、どうして夫婦で暮らせる病室がないのだろうか。看護する側が奥さんだとすると、毎日見舞いに通い、ひどい時はベッドの傍らの椅子で仮眠したりするから、ますます疲労がひどくなる。1人部屋ならともかく、大部屋だと、死んで行く病人が後の人のことを考えて言葉を残したくても、隣を気にして落ち着かない。
妻とベッドを並べられて寝られたら、どんなに自然に話ができるだろう。妻も疲労せず、残された時間に思い残りなく夫といられる。もっとも看護が長帳場になったら、やはり眼の前に病人の姿が見えないところで休む時間も要るの、と言う人もいた。
夫婦の生活の形にはいろいろあるとしても、死が決定的な子供の場合は、病室に、母といっしょに寝られるダブルベッドが必要だ。とにかくそこで思う存分、母に抱かれ、母の肌に触り、混沌とした意識の中でも母の声をすぐ身近に聞く。それくらい確かな幸福はないのである。
先日、中央アフリカ共和国で、エイズの患者さんたちに会った時、母も子ももうどちらも時間の問題だという2人がいた。この母と子に、できる限りの(もちろん日本のようなぜいたくな医療ではないが)治療を続けるのは、2人が求め合って生きて来た思い出を、できるだけたくさん作ってあげるためだ、と日本人の看護婦さんは言っていた。
こういう末期医療を何故今まで病院はしなかったのだろう。できない理由を即刻滔々と述べる秀才にではなく、何とかやれないか考えます、と言う鈍才の熱意に私は期待する。
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