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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 五十年  
コラム名:    
出版物名: 新潮  
出版社名: 新潮社  
発行日: 2003/01  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   昭和何年が平成元年なのか、何度聞いても覚えない、という心理の背景には、それが何年だって、起こったことの方が大切で、年月日には大した意味がない、と思っている意識がじゃまをしているに違いない。身内の亡き人の存在は、存在自体には語ることが分厚くあるけれど、亡くなった日など春夏秋冬のいつか、その時寒かったか暑かったか、何の花が咲いていたかが思い出のよすがになればいいと思うだけで、年や日にちはどうしても大切なものに思えない。

 その点西暦というものは計算に便利なもので、もうすぐ2002年が終わり2003年だという。それを聞かされて初めて、私は少し動揺した。私は2003年の7月で、50年間、半世紀も小説を書き続けて来たのだということに気がついたのである。1954年の7月だろうか、その年の上半期の芥川賞の候補になっていた『遠来の客たち』という短編が、賞は受けなかったけれど、『文藝春秋』誌に掲載された。それで私は5万円もの原稿料を受け取り、他の文芸雑誌からも書く場を提供された。いつからプロの作家か、といわれたら、俗物の答えになるが、原稿料をもらうようになった時からだと答えるほかはないようにも思う。私はそれより5年くらい前から同人雑誌に加わっていたから、実際には55年くらい書いていることになるだろう。

 桶作りの職人でも、コロッケ屋さんでも、半世紀仕事を続けられるということは??たとえその途中にその人の心の内部に何があれ??慶賀すべきことだろう。つまり、その人に向いた、そして本質的に好きな仕事をし続けられた、ということである。継続を可能にしたのは、当人の意志が半分、残りの半分が運である。健康、社会情勢などが、その人にそのことを許してくれたのである。

 その間に、危機は、私個人に関することが2度、社会的情勢としては大新聞の報道規制がずっと続いていたが、今日はそのことには触れない。

 23歳で小説家になった時、夫の三浦朱門は「若いうちに世の中に出ると、いつか必ず内面的な曲がり角にぶつかるもんだ」と予言していた。若書きの手法で何十年も書き続けられるものではない。

 家庭生活と子育てと小説を書くことの関係に疲れて、私は10年も経たないうちに軽い鬱病と不眠症になった。当時は眠り薬も軽い覚醒剤も自由に買える時代だったので、私は朝から夜何錠の眠り薬を飲もうかと考え続け、翌朝残った眠さを取るために覚醒剤を飲んだ。私は小説を書くために、ほとんど書斎から出なかった。

 先の見えない長いトンネルを出るまでに何年かかったか、と時々聞かれるが、多分8年間くらいはかかったのである。1968年に、私にとって初めての宗教的なテーマを取り上げた『無名碑』の執筆を始める頃から、私は最初の大波をどうにか乗り切ったように思う。そしてそれ以後の私は、小説のテーマがなかったことは一度も体験していない。

 私は恰好悪く、不細工に生活にまみれて暮らすこつを覚えた。私の生活には他にも「五十年」がある。「同じ場所に住むこと」の方は間もなく70年、結婚生活は50年である。夫の両親と私の実母との3人の老世代と住んだので、私たちはどこかへ転居することを諦めた。夫は外国の大学へ勤める口を何度か断り、私は2度ほど公務員として海外勤務をする口を提供されたのだが、その都度辞退した。老人たちは皆近くに信頼している主治医がいて、どこへも行きたがらない。私の方もその頃から、無理せず、流され、時には降りかかる小粒の火の粉を払いながら生きるほかはない、と思えるようになった。つまり自然体で狡く生きる姿勢を覚えたのである。私は書斎の中にだけいる生活をしなくなった。私が書くテーマに困らなかったのは、恐らく常に「生活」していたからだろう、と思う。

 2度目の危機は50歳近くなって、視力を失いかけたことである。病気の話ほど聞かす方は楽しく、聞かされる方はうんざりするものはないので、私はあまりしないようにしているが、私の眼は、手術の結果、数万人に一人のいい結果を生んだという幸運の証だったのだが、本当の原因は生まれた時からの先天性の強度の近視にあったのである。

 私はもし失明して小説を書くことができなくなったら、鍼灸師になることを考えた。私は人の体を揉んであげることがうまかったが、時々指の先に眼がついているように思うことがあった。私が小説に打ち込んだのも、小さい時から相手の顔を覚えられず、極端に、接客業はもちろん、社交さえも恐れたからだと思う。私はついに50年に数回か十数回(数十回ではない)銀座や新宿のバーに連れて行ってもらったことがあるだけで、記念会や祝賀会にもめったに出ず、夜は家でじっとしているのを何よりの平安と感じて来た。いいにせよ悪いにせよ近視のおかげで、私はマクロにものごとを見ず、ミクロの視点に徹する姿勢を覚えたのである。

 ただ思いがけず、私は目が見えるようになった50代から、度々アフリカに行くようになった。40歳頃から外国で働くカトリックの修道者たちを支えるNGOに組込まれて実務をし続けて来たのと、今から7年前に当時誰もなり手がなかった日本財団の無給の会長を勤めるようになってから、いわば「監査」の目的で、サハラ以南のシエラレオーネ、コート・ジボアール、ガーナ、マリ、ブルキナファソ、ベニン、チャド、中央アフリカ、ケニア、カメルーン、ルワンダ、ウガンダ、コンゴ、マダガスカル、南アフリカなどへも一度ならず奥地まで入るようになった。私は不潔、不便、いささかの危機にわりと鈍感にできていたし、実は勇敢ではなく小心で、諦めと辛抱だけが人並みによかったので、かなり困難な旅行でも大して平静心を失うことはなかった。私は膝を抱いて「困ったもんだ」と呟きながら、時間が解決の担い手になるのをじっと待っていられるのである。

 アフリカで私は人生の無残さを改めて知った。多くのアフリカ人の生き方と死にざまを見ながら、私は絶対的な不合理、無残さ、虚しさ、麻薬的刹那的幸福、過去も未来も稀薄で現在だけが強烈な人生の輝き、60億の人口が増え続ける実感と猛威を振るうエイズが人間を絶滅させようとする音のない破壊力、を見た。どれも日本にはないものであった。求めて取りに行ったわけでもないのだが、ただ幸福も不幸も、その傍に居合わせたということは、作家にとってはこれほどの光栄はなかったことなのだろう。

 私は明白で単純な現実を感じている。アフリカの貧しい村に生れても、北朝鮮に生れても、私は作家として生きることはできなかった。中国でもソ連でも今のような自由の中で書くことは無理であった。私はそのような50年を与えられたのである。
 

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