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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: イランでイスラムを惟う(上)  
コラム名: 旅日記 地球の裏読み  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2002/12  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   アメリカ大統領のジョージ・ブッシュ氏に、この地球上で3つあると名指しされた「悪の枢軸」(Axes of Evils)国のひとつ、イラン・イスラム共和国に旅行した。「そんなぶっそうな国になぜ?」「イランが悪の枢軸であるのかどうか、肌身で感じとってきてくれ」。私のイラン行きについて、友人たちが示した反応はこの2通りであった。どちらにせよブッシュ氏のプロパガンダが、日本の庶民の心にしっかりと浸透していることを示すもので、いささか驚きではあった。

 だが、私のイランヘの旅のテーマはそのことではない。なぜなら、イランが悪の枢軸であるのかどうか。私は出発前にあらかじめ答を出していたからだ。すなわち、ブッシュ氏の3つの悪の枢軸発言は思いつきである。ある夜、第2次大戦前夜の歴史書を読み耽る中で、日・独・伊3国枢軸の故事にヒントを得たものなのだ。そのネーミングの巧みさには敬意を表するものの、北朝鮮とイラクはともかくとして、ブッシュ氏の定義にあるようにイランが、米国の先制攻撃を正当化する軍事的“ならずもの国家”であるとは、いい難い。私の旅の主題は、今日のイランの軍事ではなく、あの国の文明と文化についてである。

 1979年、近代においては世界初の「神政イスラム国家」(“坊さん”が政治をやる国家)を宣言したイスラム革命は、今日のイランに何をもたらしたのか。それを考えてみたのだ。「イランでイスラムを惟った」ことを2回に分けてお伝えする。


≪ 歴史に「IF」ありとせば… ≫

 2002年9月。アラブ首長国連邦のドバイから、ペルシャ湾をまたぎ、北へ向かいイランの首都テヘランに飛んだ。イラン航空機で、わずか2時間半の距離であった。アラビアとイランは近いことをいまさらのように知り、ふとある歴史上の出来事に思いをはせた。イランを運命づけた7世紀の史実についてである。

 そもそもアラビアに、イスラム教が発生したのは、中東の巨大な2つの文明圏、ササン朝ペルシヤ(イランの前身)と、ビザンティン帝国(キリスト教東方正教)が、長期にわたって戦ったことと深い関係がある。この戦いによって東西交通路が遮断され、迂回路として、アラビア半島の交易ルートが発達した。その結果、メッカでは大商人が力を持ち、遊牧民との貧富の差が拡大した。貿易による経済の繁栄はアラビアの古い部族制社会を解体させ、社会不安を増大させた。こうした社会的混乱状況が、預言者マホメットの出現を促した。彼は、現世に平等な社会「ウンマ」の建設を説き、コーランの教えのもとに、崩れた部族社会を、統一アラブ教団国家として結束させた。それだけではない。

 「風が吹けば桶屋がもうかる」の例え話そのままに、ササン朝ペルシャは、アラビア半島に繁栄をもたらし、それ故に発生したアラブ・イスラム帝国に滅され、アラブの宗教であるイスラムにあっという間に改宗させられた。それが、イランという国にとって、幸いだったのか。それとも不運の歴史の始まりだったのか?

 機中、イラン史について、以上のような私の感慨を、旅の相棒、ラオ・シン・イ博士に披瀝した。ラオ君は、福建系マレーシア人の3世で、東京工大、東北大出身の経済学博士。私の勤務先の姉妹財団である笹川平和財団の主任研究員である彼とは、旧社会主義国の市場経済移行プロジェクト開拓のため、何度か中央アジアのイスラム諸国を旅した経験がある。マレーシアはイスラム教国だが、彼はムスリム(イスラム教徒)ではない。

 「歴史にIFはありませんからねえ。イスラムなかりせばイランはどうなっているといわれても…。でも、あなたのペルシャ史への感慨、わかるような気もする」「クレオパトラの鼻が、もうちょっと低かったら…といってるんじゃないんだ。ペルシャという国は、イスラム導入以来、この単純明快なアラブの宗教といかにうまくつき合うか、そして、アーリア民族としてのペルシャ人の誇りをいかにして征服者アラブに対して維持するか、苦労したんじゃないかと思うんだ」

 2人の機上での対話であった。

≪ 海抜2700メートルの天国談義 ≫

 私にとってイラン訪問は初めてである。首都テヘランは4000メートル級のいくつかの峰が連なるアルボス山脈を北に背負う盆地の町であった。その昔、交易の拠点として栄えたオアシスとのことで、なだらかな坂道と、水路が山から町を貫通していた。見知らぬ町に出かけたとき私は都合が許す限りまず最初に、山とか丘とか展望台もしくは高層ビルに登って、鳥瞰図的風景を頭に入れることにしている。そうすることによって、あらかじめ設定しておいた旅のテーマと、巨視的に見た対象とを摺合わせ、旅先の実感を形成するのだ。最初に小さな木々を見てしまうと、森を見失うような気がするからだ。

 テヘラン市北端の山の斜面に、全長3200メートル、世界最長のロープウェイがあると聞いた。現地で雇った日本語を話すガイド、レザ君と終点の海抜2700メートルまで登ってみた。往復2時間、2人乗りのゴンドラの密室で、眼下に展開するテヘランの地理の案内に織り混ぜて今日のイランにとって、イスラム革命とは何であったか。ずばり旅の本題に迫る話を聞き出した。

??このロープウェイ。ずい分古いね。ドアもよく締まらない。大丈夫?

 「心配ない。25年前、シヤー(革命で亡命したパーレビ国王)が作った。テヘランで坊さん(イスラム革命後のイランの政治指導者層のこと)が造ってくれたものはほとんどない。作ってくれたのは、戦争だけだ。イスラム革命の翌年、サダム・フセインが攻めてきて、8年も戦争があった。経済的に苦しかった。だからテヘランの大きな建物は、ホメイニの廟をのぞけば、ほとんどシヤーが作った。シヤーの頃のイランは強かったから、サダムは攻めてこれなかった」

??そうか。君はシヤーを評価するのか。

 「今よりはいいと思う。朝起きると、いったい私の国イランとはどういう国なのかと考えこんでしまうことがある。女性は黒いヘジャブで身体を隠している。ディスコもない。大学卒業者の失業率は20%以上だ。生活は苦しい。若い人はみんな毎日がツマンナイといっている。若い人の間には、シヤーの息子が人気あるよ」

??エッ。パーレビ元国王の息子はイランにいるのか?

 「アメリカのカリフォルニアにいる。アメリカのイラン向け宣伝放送によく出てくる。いいこと言ってるよ。帰ってきてほしいという人もいる。若い人はみんなアメリカが好きなんだ。イスラム革命以後、人口が増えてね。イラン人の半分以上は30代以下の人たちだ。お坊さんが、偉そうなこといっても、ついていかないよ」

??イスラムの教えでは、この世の運命は前世で決まっているが、アラーの神に対して善いことをすれば、来世は天国にいけると言っているよね?

 「この世を地獄でなく天国に近い共同体にしてほしいよ。坊さん、悪い。この世で金もうけばかりしている。オレ達貧乏…」

??証拠あるの?

 「あるわけないでしょ。オレ、警察じゃないから。でもみんなそういってる。10億ドル、スイスとドバイの銀行に預けてるというウワサもある」

??イスラム教の天国は、カネいるのか?

 「もちろん、いらないはずだ」


≪ 「若い人、毎日がツマンナイ」 ≫

 ロープウェイの真下は、茶色のハゲ山で緑はない。そこに曲りくねった細い登山道が延々と続いていた。黒装束の女性たちの一団が、黙々と山頂をめざしている。若い男のグループもいる。

??イランの若者、ハイキング好きみたいね?

 「そう。お金かからないからね。朝、日の出前に山に登り、夕方にはテヘランの街に戻れる。山の陰に入れば、男女が一緒に遊べるからね。ホメイニ革命のあと、イランではバスの中だって男女別々だから…。若い人娯楽がないから毎日がツマンナイ。いまの大統領のハタミさんのこと知ってる?」

??1997年の選挙で、70%の票をとって当選した改革派の大統領だろ。

 「文化大臣のとき、女性のポップシンガーのリサイタルを認可した。もちろん観客は女性だけ。歌の内容がイスラム精神に反するということで、ハタミさんクビになった。女性と若者の票で大統領になったけど、最高指導者の坊さんたちが邪魔するので、改革は進んでないよ」

 終点に到着する。テヘラン市街はまだ真夏の盛りだというのに、山頂では吐く息が白い。突然ロープウェイの従業員のお兄さんに声をかけられた。「日本に仕事ないか。ビザの身元引受人になってよ」。レザ君に通訳してもらったら、そう言っているという。月給が2万円、食えないので夜はタクシーの運転手をやっているそうだ。

 通訳兼ガイドのレザ君。頭の回転の速い男だ。何を聞いても直ちに答が戻ってくる。打てば響く人物だから対話が成立する。ここに再録した彼との対話は、ほとんど私の取材帳のメモそのままである。彼は35歳、イラン・イラク戦争の末期、少年兵として従軍、このあと大学に行ったが、定職がなく、日本に渡り、群馬県大泉町で6年間の出稼ぎの経験をもつ。だが、ひとつだけ断っておかねばなるまい。彼の名前の「レザ君」は、実は仮名なのだ。対話の内容に、いささかきわどい部分があり、万一彼に後難がふりかかっては……と思うからだ。

 イスラム革命が、今日の若い人にどう受け止められているのかを知るには、「レザ君」は、絶好の証人だが、その証言内容が何故きわどいのか。それを知っていただくには、イランの近代政治史について、若干の背景説明が要るのではないか。


≪ パーレビの白色革命 ≫

 以下は、イランの近代政治史の概要だ。19世紀から20世紀初頭にかけてイランは、この地にそれぞれ利権を求めてせめぎ合うロシアと英国両大国の半植民地の状況におかれた。第1次大戦中、英国とロシアは、それぞれイランの一部を占領した。ロシアにソビエト政権が成立し隣国イラクがドイツに占領された事態を重視した英国は、自国の権益を守るため、弱体化した当時のガージャル朝を排除した。そして軍人でカリスマ的人気のあるレザ・カーンに目をつけ、王に擁立しようと試みた。1925年、レザ・カーンはクーデターで前王アーマッドを倒し、パーレビ朝を樹立した。王位についたレザ・カーンは、トルコの開明的大政治家、アタチュルクのように、政・教分離をめざし、伝統的衣服チャドルの廃止、婦人の地位向上、宗教的儀式参加強制の廃止、産業の振興、社会資本の充実を唱えた。第2次大戦ではイランは中立を宣言したが、レザ・カーン王は、枢軸側のドイツと気脈を通じたとして、ソ連と英国によって南アフリカに追放され、息子のムハマド・レザが王位を継承した。

 この人こそが、ホメイニのイスラム革命の嵐の中で、亡命を余儀なくされた悲劇の王、パーレビだったが、彼の時代は即位後、30年以上続いた。1943年の米・英・ソのテヘラン協定で、イランは独立し、パーレビは、米・英の全面支援を受けて絶対的権力を握った。1951年、パーレビにとって、ハプニングが起こった。70歳の民族主義者、モサデク博士がクーデターを起こし、王を追放、英国の支配下にあるアングロ・イラニアン石油会社の国有化宣言をした。出光興産の日章丸が、英国の警戒網をかいくぐり、ペルシャ湾に潜入、国有化初のイラン原油を輸入して、西側諸国のど肝をぬいたのはこの時だった。ところが、アメリカCIAの工作で、パーレビは2年後にクーデターを起こし、王位に復帰した。

 パーレビは、英国にかわってイランでの実権を握ったアメリカの支援で、石油収入を原資に急激な近代化と工業化をめざした。それは“白色革命”と呼ばれた。彼の近代化とは西洋化路線であるとアヤトラ・ホメイニを長とする宗教界は反対した。とりわけ女性解放とイスラム法学者のもつ財産と特権の制限に強く反発した。イラン経済は1970年代の石油高騰によるオイル・マネーの増大に沸いたものの、それが仇になり大インフレを招来した。インフレの中で貧富の差は拡大し、全国規模の反パーレビ・反白色革命の運動が起こった。1978年、戒厳令下のテヘランで起こった抗議デモで、治安当局の弾圧より数百人のデモ隊が死亡した。物情騒然とする中で、1979年1月、身の危険を感じたパーレビは国外に脱出、翌月、ホメイニが、“民衆から待望されたエマームの再来”として、亡命先のパリから凱旋帰国、イランの最高指導者に就任した。


≪ 「おしんによろしく!」 ≫

??イラン・イラク戦争の停戦協定を結んだのはホメイニ師だろ。その翌年の1989年、ホメイニは亡くなった。その時、テヘランの彼の墓には、1000万人が葬列に並び号泣したと新聞で読んだが本当か?

 「その通り。でも今は民衆の熱は冷めている。50代の人はこんなはずじゃなかったのにと今日を嘆く。30〜40代はイスラム革命という政治運動に裏切られたと怒っている。エッ、20代か?最初から坊さん政治に退屈してるよ」

 レザ君との対話は、山頂を折り返し復路、始発駅に戻るまで続いた。始発駅に黒い布をかぶった女子大生たちの団体が、ロープウェイの出発を待っていた。イランでは女性にカメラを向けてはいけないと聞いていたが、意外にも「どうぞ撮って下さい」との返事だった。何ショットか撮らせてもらって「ヘイリー・マムヌーン」(どうもありがとう)と言ったら、ペルシャ語で何か言いつつ、手を振ってくれた。

 「おしんによろしく!」

 とのことだった。イランではおしんのTVは、ひところ超人気番組だったという。(次号につづく)
 



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