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≪ 「ハロー!グルジアの鉄ちゃん」 ≫
ソ連の独裁者として猛威をふるったヨセフ・ヴィサリオノヴィッチ・スターリンは、グルジア生れである。コーカサスのこの地まで、遠路はるばるやってきたのだから、彼の生地に出かけて「Say Hello to him」したい。通訳兼ガイドのトビリシ大学英語科講師イリーナ女史にそう言ったら、目を丸くして「Do you like him?」と応答されいささかたじろいだ。「いや。そういうわけじゃないけど、良かれ、悪しかれ、あの時代には大変大きな存在だったから…」。そんな問答の末、日曜の休日を利用して、彼の生地の「ゴリ」市まで出かけることになった。
首都トビリシから、まずまずの舗装の国道を100キロほど西に走るとゴリへの分岐点がある。そこからガタガタ道を3キロ行くと小高い丘が見え、12世紀に造られたという石の要塞があった。要塞の頂上から、眼下にコーカサスの山々に囲まれたゴリの町が展開していた。人口15万人。スターリンなかりせば、幹線道路からはずれたこの町は、街道脇のバザールを中心に発展した農産物の集散と小工業生産を営む何の変哲もない小都市であっただろう。
1879年、この町の貧しい靴作り職人の家に男の子が生れた。名前は、ヨセフ・ジュガシヴィリ、のちのスターリンである。スターリンは彼が34歳のとき、みずから名乗ったペンネームで、「鉄の人」という意味だ。旧ソ連の町には必ずといっていいほどレーニンの像があったが、この町にはレーニンはなく像といえば昔からスターリンだった。
いまや、たいていの町から、レーニンは撤去されるご時世だが、この町のスターリンは健在である。市役所前には、スターリン広場があり、そこでスターリン像が、天下を睥睨していた。旧ソ連時代の名残りであるインツーリスト・ホテル(国営旅行公社のホテル)の真ん前に大きな公園があり、スターリン博物館があった。
1950年設立というから、スターリン死去の3年前だ。当時のスターリン大元帥への個人崇拝の一環で、クレムリンの取り巻きが生前の彼にゴマをすったのだろう。インツーリスト・ホテルに宿泊し、スターリン詣でをやるのが、ソ連時代のグルジア旅行の定番であった。だが、この日は、6月の快晴の日曜日だというのに博物館は閑散としていた。われわれ一行のほかに、ロシア人とおぼしき1組の旅行客しかいなかった。
5ドルの特別料金を支払って、案内係のおばさんの解説を聞く。すべてロシア語なので、イリーナ女史に英訳してもらう。
「ヨセフは、3人兄弟の末っ子だったが、2人の兄は若くして死亡。地元の教会の学校に入ったが、特別に学業に秀いでていたので、神父の勧めで、トビリシ中学校に特待生として入学した。ギリシャ語と数学が得意だった。若くして、詩を書き、13歳にして、地元の新聞に彼の詩が掲載された。15歳にしてマルキストとなり、放校になった。ギリシャ語とロシア語の教師として身をたて、1902年、トビリシの政治学研究所員時代、帝政ロシアの官憲に捕われ、シベリア送りとなる。レーニンから手紙を受けとり、シベリアを脱出、1905年、フィンランドでレーニンと会う。以後、7回逮捕、6回流刑、5回脱走し、みずから鉄の男(スターリン)と名乗る」。
以上が、グルジアが生んだ強い男、「グルジアの鉄ちゃん」の生い立ちの記であった。
≪ 聖地ムツヘタに行く ≫
スターリンの使った愛用のパイプ、ひげそり、テーブル、イスなどの調度品とおびただしい写真と書類が展示されている。だが、すべての説明がロシア語だけであり、“元ソ連人”向けの観光地に間違って迷い込んだ感ありだ。豪華な博物館の前にあばら屋がある。2部屋しかない小さくて、粗末な家だ。彼が4歳まで住んでいた借家で、家の中にベッドが1つしかない。「帝政ロシア時代の典型的な小作人の家」とイリーナ女史。
あばら屋のすぐ脇に、スターリンの専用客車が1両陳列されていた。スターリンが、ナチス・ドイツの陥落後、ベルリンの郊外ポツダム宮殿で開かれた米・英・ソのポツダム宣言起草首脳会談に、赴いた時の豪華列車の一部だ。寝室、風呂場、トイレ、キッチン、レストランはもちろんのこと、居間、書斎、図書館、会議室、警備員の部屋、メイドの控室etc。出世後の彼の居住空間は、たとえ鉄路の上の仮住居といえども、目の前の粗末な小屋が5つほど、すっぽりとはまりそうであった。
「彼の行為については、歴史上論争があることは承知している。しかしゴリ市民である私たちにとっては、郷土の生んだ偉大なる人物であり誇りにしている」。昨今は、さっぱり流行らない博物館で、ヒマをもて余していると見えて、係員のおばさん4人が総出で、私たち一行を取り囲んだ。そして「日本の人々に伝えてよ。スターリンは言われているほど悪い人じゃないと。そしてグルジアの女性はいかに美人であるかもね」と言った。
「スターリンは旧ソ連圏だけでなく、世界の負の遺産よ。あの1人の男のために何千万人が殺されたのよ」。スターリン嫌いのイリーナの強い勧めで、“負の遺産”でなく、本物のユネスコ世界遺産の町に出かけた。日本流に言うなら、スターリンの口直しといったところか。
ムツヘタ。紀元前4世紀から、紀元5世紀まで、グルジア南東部にあったイベリア王国の首都として栄えた町だ。
ここにあるグルジア最古のスヴェティ・ツホヴェリ大聖堂を訪れた。4世紀、聖女ニーナによって建立された。「ここにはキリストの衣服の切れっ端が埋められているという言い伝えがある」とイリーナ。エルサレムでキリストが磔の刑に処せられたとき、たまたま居合わせたイベリア王国の男が、ボロボロの衣服の一部を持ち帰り、杉の木の下に埋めた。聖女ニーナがこの地に教会を建てるため木は切られたが、木は天に昇り、病を癒す樹液がとめどもなく流れ出した??という話だ。
グルジア観光の売り物は、今やスターリンの家ではなく、ローマとほぼ同じくらいの歴史をもつこの国の古いキリスト教会であるようだ。
≪ 「ジャポン、センセイ、ヤマシタ!」 ≫
愉快千万なハプニングが起こった。古城のほとり、川辺につながれた船上レストランのできごとだ。隣のテーブルに14、5人の黒シャツ、黒ズボンの大男たちの団体客が食事をしていた。まだ昼下がりだというのに、ビールと名産の赤ワインでかなり酔っている。よくよく見たら、それぞれ拳銃を携帯している。38口径を裸のまま無雑作にベルトに差し込んでいる男もいる。ぶっそうなことこの上もない。
「マフィアか?」小声でイリーナに。「いえ。ポリースらしいわ」。そう聞いても安心できない。1人づつ立ち上がり、何やら大声でわめいたあと、全員起立して乾杯している。間違っても、その腰のものをぶっぱなさないでくれよー。ひたすらそう願った。その時である。一団の首領格の大男が、やおらこちら向き直った。「カンパイ」。日本語で、そう叫び、杯を高くかかげたのである。われわれ一行は一瞬、ギョッとしたものの、ただちに事情がのみこめた。
「ジャポン。ルシア。フットボール」。この3つのグルジア語の単語が、私の耳にさえはっきりと聞こえたからだ。その大男は、私の手を握りしめる。「ジャポン、サムライ、センセイ、ヤマシタ」といった。イリーナの通訳によると彼らのわれわれは日本人に対する献杯の弁はこうだった。
「サムライの国、日本よ。よくぞ憎きロシアをやっつけてくれた。一度は戦争で帝政ロシアを、そして今回はフットボールでロシア共和国を。有難う。私は日本の柔道を知っている。オリンピックに出たヤマシタ・センセイを尊敬している」と。一見、マフィア風の警官たち、実は特別任務の要人護衛官で、オランダからテロ対策専門の教官を招いたとのことだ。この船上の宴会は、その教官を囲む懇親会だった。みんなで記念撮影をした。別れ際に「どうしても受け取ってほしい」とシャンパンを2本。わが日本国のワールドカップの予選、対ロシア1対0の勝利のお祝いであった。
トビシリに戻り、この話をグルジアの国際問題研究所の学者にした。彼の反応はこうだった。「それはそうさ。俺だって日本チームがロシアをやっつけたときは、TVの前で歓声をあげたさ。グルジア人は昔からロシアが嫌いなんだよ。なに、スターリンのことか? 確かに彼はグルジア生まれだが、彼の共産主義はこの国にとって何もいいことはなかった」。大国の支配で苦労したコーカサスの人には、ワールド・カップをたんなる娯楽と考えていない。むしろスポーツの国別対抗ゲームを国と国との戦争の代償行為、ととらえている。「たかがサッカー」ではなく、「されどサッカー」なのである。
だから、ロシアをやっつけてくれた国が、日頃、つきあいのない東洋の国、日本であっても祝福に値するのだろう。
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