共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 南コーカサス・グルジアの旅(中)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2002/12/03  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ===================
古都「トビリシ」の、いま・・・・・・
===================


≪ 「マルコポーロ」もびっくり ≫

 午前8時30分。バクー発の夜行ノン・ストップ特急は、何度も時間調整のための停車を繰り返し、クルジア共和国の首都、トビリシ駅に着いた。

 トビリシは昔から風光明媚で名高い古代キリスト教文化の古都である。車中のつれづれに読んだ英人マーク・エリオットの書いた旅行案内書には、「マルコポーロが、“絵に書いたように美しいところ”と感嘆した」とある。珍しくガラス拭きがしてあるこの列車の車窓には、夏の朝日に輝く緑がまばゆい。

 「なるほどマルコポーロのご託宣通り。砂漠化が進むバクーはカフェオレ色、トビリシは山と緑の都」と景色を楽しむ観光客気分でホームに降りたった。

 だが、そこで、“どんでん返し”を食ったのである。なんとトビリシ駅は、廃屋さながらだった。19世紀末、帝政ロシアは、この町にコーカサス3国を統治する総督府を置き、鉄道を敷いた。石造りの堂々たる駅舎なのだが、建物全体が黒くすすけ、地下道にはほとんど照明がない。階段はところどころ崩れ、およそ掃除をした形跡がない。浮浪児(ストリートチルドレン)が出没し、金品をしつこくねだられた。

 私にとっては、敗戦直後の上野駅の記憶の再現である。あの頃、国鉄は空爆で廃墟と化した駅舎を再建する余力もないまま、上野を列車の駅としてそのまま使用していた。

 この荒れ果てたトビリシ駅は、1991年のグルジア独立後、2年続いた内戦の傷跡であることを後刻知らされた。

 トビリシで、通訳を雇う。隣国のアゼルバイジャンでは、旅の相棒、ドクター・松長昭が、トルコ語の名人だったので通訳は不要だった。トルコ語とアゼリ語は方言同士の関係だったからだ。ところがグルジア語は、独自のアルファベットをもつ独立言語で近隣国と互換性がない。そこでグルジア語と英語の通訳、イリーナさんをお願いしたのである。トビリシの国立大英語科卒で、いまは母校で英語の講師をやっている33歳の女性だ。

 「この国が、ソ連の一共和国だった社会主義の時代、グルジアは世界有数の長寿国だと聞いていた。気候もよい。風光明媚だし、食物もうまい。そのせいかしら…」少々の外交辞令をまぶして気をひいてみた。

 「いまはそうでもないの。内戦はあるし、難民は多いし、テロもあるし。経済は沈滞しているし心配ごとが多くて寿命が縮まっている」とおっしゃる。トビリシ駅の荒廃も、その副産物のひとつだった。


≪ 内戦・難民、そして米軍の導入 ≫

 ソ連崩壊後のコーカサス3国は、どの国も紛争をかかえている。隣国のアゼルバイジャンとアルメニアは、宗教対立と領土問題が複合し、戦争にまでエスカレート、いまでも国交断絶状態だ。グルジアは、隣国のアゼルバイジャンとは良好な関係を保ち、アルメニアとも外交関係は持続しているものの、国内にややこしい民族問題をかかえている。

 以下はロシア嫌いの彼女の解説である。1991年、ソ連邦が崩壊し、独立を勝ちとったグルジア国民は、反ロシア主義者の文人、ガムサフルディア氏を大統領に選出した。グルジアはCIS参加を拒否、モスクワとの対決姿勢を鮮明にした。そこでロシアは一計を案じ、グルジア国内の異民族であるオセチアとアブハチアの部族に金と武器を渡し、グルジアからの独立をそそのかした。内戦が勃発、グルジアの西部地域で黒海に面しているアブハチアは部族側が勝利、この地域の住民の80%を占めていたグルジア人は全員追放された。

 「以前はトビリシからアブハチアの黒海側まで鉄道が通じていたが、いまは休戦ラインの手前で鉄路はちょん切れ、その先は地雷源です」という。

 1992年のクーデターで、ガムサフルディア大統領が失脚、ゴルバチョフの盟友で、元ソ連外相のシュワルナゼが大統領に就任、ロシアとの関係を修復したとのことだ。

 「ホラ、あれ見てください」。車の中から彼女が指さした。15階建ての一見高級ホテル風の高層ビルのテラスが、すべて洗濯物の満艦飾の異様な光景だった。11世紀、この国が最も栄えた時代のイベリア王国の名にちなんでつけられた「イベリア・ホテル」。社会主義時代は最高のホテルだったが、いまではアブハチアを追放されたグルジア人難民の住居に開放された。

 「いつの日か、アブハチアの領土を奪還してやる」とのグルジア政府の決意表明のために、トビリシ市内で人目のつき易い象徴的な建造物を難民キャンプに転用したのだという。

 私たちが宿泊したのは、独立後、外資が作ったシェラトン・ホテルだった。驚いたことに戦闘服で身をかためた100人ほどの米兵が常時宿泊していた。外には銃をもった米兵が歩哨に立っている。高級ホテルに軍服姿の米兵が常駐とはこれまた異様な光景だ。なぜ米兵がトビリシにいるのか。2001年、NYの貿易センタービルのテロ、つまり9・11事件の産物なのだ。米軍駐留のいきさつを語るには、古都トビリシの今日の地政学的情況について、まず語る必要がある。

 内戦後の大混乱を収拾すべく大統領になったシュワルナゼの政府は、実はトビリシを中心に、この国の70%しか支配下においていない。

 前出のアブハジアのほかに、南西の黒海に面した都市バツミに拠点を置く、「アジャラ・イスラム共和国」(名前だけで、国際社会では認知されていない)と、大コーカサス山脈の南側のパンキシ峡谷に陣取る南オセチアのイスラム武装勢力だ。

 9・11事件を口実にシュワルナゼ氏は、このコーカサスの山岳地帯に展開しているといわれるアルカイダの信奉者を中核とするテロリスト対策の軍事顧問との名目で米軍を導入した。

 グルジアの高い山々の南側には、ロシアの鬼門であるチェチェンとダゲスタンがある。この2つのイスラム勢力と内通するオセチアをたたくための米軍導入といわれるとプーチン・ロシア大統領は文句もいえなくなった。シュワルナゼにとっては内戦に勝利し、グルジア統一を実現するための深謀遠慮の策なのだ。

 米国にとっては、旧ソ連圏であり冷戦時代には思いもよらなかった中央アジアから、ヨーロッパヘの回廊を押さえこみ、カスピ海の石油とガスの輸送ルートを支配下におくという戦略的意義がある。内心面白くないのは、ロシアだけ。これがグルジアの最新地政学的事情なのだ。


≪ “グルジアの母”に托す悲願 ≫

 ムタツミンダ山に登る。山といっても、市街から標高差で300メートルほどの丘なのだが、トビリシとは、どんな外観の町なのかを見るには絶好の場所だ。頂上には広々とした公園と展望台があった。

 眼下にトルコを源とするムトウクバ川が流れている。トビリシは三方を山に囲まれ山頂を頂点に、この川の流域を底辺に、三角形に眺望が開ける。ムタツミンダ山頂から、川にいたる扇状の斜面にはキリスト教会、モスク(イスラム教会)、シナゴーグ(ユダヤ教)、19世紀の木造の家、古城、緑の並木道、そして高層ホテルなどが、肩を寄せ合うようにぎっしりと詰まっていた。

 通訳のイリーナさんの案内で、街を歩いてみた。川の畔の旧市街には、アスファルト道がない。すべて石畳だ。町並み保存のためで、道路工事をやる場合も、掘り起こした石を元通りに敷きつめているという。2つの教会を訪れる。メテヒ教会。トビリシ最古の教会で、小高い丘の上に立っていた。古ぼけたレンガ造りの外形は5世紀の建立以来、変っていない。次にシオニ教会。創建は6世紀とのことで、グルジア正教の総本山だ。

 グルジアにキリスト教がやってきたのは大変古くて、4世紀であり、その頃は「正教」という“東方のキリスト教”は、存在しなかった。

「グルジアが正教に宗旨替えさせられたのは、19世紀の始め帝政ロシアの支配下にこの国が編入させられてから……。ロシアよりグルジアの方がキリスト教の歴史はずっと古い」。彼女の解説である。

 トビリシ。人口、150万人。日本の奈良よりも100年早く開けた古都だ。彼女の発音を聞いていると、「ト」の音は微弱で「ビリスィ」と聞こえる。この名前の由来は、紀元452年、ここに都を建設したイベリア王がつけたとかで、「熱いお湯」という意味とのことだ。旧市街のメリカラ要塞のふもとには、レンガ造りのドーム状の浴場があった。いまでも営業中とかで、硫黄の臭いがただよう。

 ナリカラ城から山の中腹を見上げると、「カルトリス・デダ」なる巨大な女性の銅像があった。片手に剣、片手に杯をもっている。「グルジアの母の像です。敵には勇ましくたたかい、お友だちにはワインで暖かくもてなす、グルジア人の心のシンボルよ」とイリーナ。

 ソ連時代は撤去されていたが1993年、再建された。他民族との紛争に明け暮れする独立後のグルジア、やはり守護神が必要なのだろう。
 



日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation