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11月5日付けの「産経抄」欄で、私も深く尊敬している徳岡孝夫氏が、片方の視力を失われたことについて、アメリカの医師がそれでも完全に視力を失うよりいい、と言われたこと、江戸時代の儒者・佐藤一斎が「一燈を掲げて闇夜を行く。闇夜を憂うる勿れ。ただ、一燈を頼め」と言ったことなどを教えられた。
一つことを読みながら湧き上がるほどのことが思い出されて来る。徳岡さんも被害者のお一人だが、視力や聴力に異常を感じたら、一刻を争って治療を始めねばならないことを患者はあまり教えられない。少し様子を見ようと思っていると、神経というものは、2週間も放置すれば、元へ戻らない、といわれる。子供の視力など、もっと弱いと言う。
もう20年も前のことだが、私も視力障害で危機に立たされた。生まれつきの強度近視が何より大きな原因であった。その時、私は信じられないほどの多くの人たちからの親切を受けて精神的に生き延びたのだが、当時バチカンにおられた諸宗教連絡事務所次長の尻枝正行神父が「曽野さんは視力を失った時、神を見るだろうな」と言われたことを思いだす。もちろんそれは私に対する最高の友情、温かい計らい、透徹した眼を示されたものであったのに、私はその場で「神父さま、神なんか見なくてけっこうですから、視力をください」と言ったのである。神父はその時、「ないものを数えないで、あるものを数える」ことも教えてくださった。
私は本当は少しも追い詰められてはいなかったはずである。私は指先に眼がついているような勘があって、針灸師にもなれたと思う。家族もいて恵まれていたのに、私は深くうろたえたのである。手術を受けて視力を回復した時、私はしばらくの間再び神から視力を「拝借した」と思った。
この「産経抄」欄では、一燈でもあれば、それで生きて行けることを教えた人々のことが書いてあるが、その後私はもっとすさまじい生活を見せられた。私の知人の日本人の修道女がコート・ジボアールの田舎の椰子の葉葺きの小屋で、10数歳から40代までの人々に識字教育をしていた現場を訪ねた時のことである。
もちろん電気などない地方で、小屋学校の白板の横には一対の石油ランプが音を立てて燃えてるだけだった。当然教室の後方は暗闇に近い。私はシスターに、後方にもランプを一対買って寄付したい、と申し出た。するとシスターは、「とんでもない。彼らは闇夜でもあかりなしで数キロ歩いて家に帰らなきゃならないんですよ」と言われた。教室もできるだけ暗くしておいて、眼を暗闇に馴らしておくことが生きるすべなのであった。
一燈さえもない世界もまだあちこちにある。私たちはいつもその部分を意識の底で感じていなければならない。
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