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============== コーカサスの地政学 ==============
≪ 「ナゴルノ・カラバフ」とは? ≫
カスピ海は巨大な内海である。だから平坦なバクーの下町からは、その全体像をつかみにくい。どこか、町と油田とカスピ海を一望できる高台はないのか。「Shahidlar Xiyabany(シャヒドラー・シャバーニ)に行こう」。案内役の日本・アゼルバイジャン学術文化交流協会代表・レフェベル氏が言った。
「“殉教者の小路”とでも訳したらいいのでしょうかね。昔は、キーロフ公園と言っていたが、独立後、改名された」。旅の相棒・トルコ語の達人、松長昭君の解説だ。キーロフは1930年代アゼルバイジャンに共産主義を導入した男のことで、高さ20メートルもの銅像が町中を睥睨していたが、91年の独立で廃棄されたという。
ここは、バクーで一番の高台である。以前は、「キーロフ」詣でのケーブルカーがあったというが、壊れたまま放置されていた。横の階段をカスピ海沿岸に林立する油井のヤグラと眼下の工業地帯を眺めつつ15分ほど登ると、展望台がある。さらにその上に“殉教者の小路”という名のモニュメントと墓地があった。
「あの日を忘れんよ。1990年1月20日のことだ。階級章をはずした赤軍が戦車でやってきた。そしてバクー市民と衝突、市民に130人もの死者を出した。ゴルバチョフが軍隊を派遣した。俺の親友もあの日、戦車にひき殺されたんだ」。「殉教者とは誰の事か」の問いに、レフェベル氏がそう答えた。「独立戦争か?」との問いには「いや違う。ナゴルノ・カラバフ紛争の犠牲者だ」と言った。「ナゴルノ・カラバフ」とは何ぞや? 実はこれを知ることは、日本人がコーカサス地方の複雑な歴史と地政学的状況を理解する上での必須科目なのだ。
この国は、独立前後の1988年から93年にかけて、ナゴルノ・カラバフ紛争と、これに伴う隣国アルメニアとの戦争に振りまわされた。その犠牲者たちがここに葬られている。この問題についてひと通りの予習をしてきたつもりだった。だが、いまひとつピンと来ない。そんな感想をもらしたら、松長学者が、「どんな本を読んでも、どの人に聞いても少しずつ偏向してますよ。いまだに未解決なんだからバランスの取れた見方なんて存在しない。みんなで討論しましょうよ」と。
その夜、バクーの町で一番うまいアゼルバイジャン料理を出す評判の店「SUSA」に出かけた。「SUSA」とは、数年前までアゼルバイジャン人が住んでいたナゴルノ・カラバフの古都にちなんでつけられた名称だ。生野菜、焼鳥、それに炭火で焼いたキャヴィアの親魚の切り身がウマイ。ザクロで作った黒いソースをかけて食べる。
「ナゴルノ」とは、山、カラバフが地名だ。ここは伝統的には、アゼルバイジャンの土地であった。「ここまでは、たとえアルメニア人だって異存のないところだ」。松長学者と、レフェベル氏がいう。ところがそれからがややこしいのだ。
帝政ロシアがアゼルバイジャンを植民地にした19世紀、大量のアルメニア人が隣国のイスラム教国、ナゴルノ・カラバフに移住した。それまでトルコの徹底的な弾圧と全アルメニア人の半分に相当する150万人に及ぶ大虐殺に会い、同じ宗教(キリスト教の正教)のロシアのアゼルバイジャン支配をきっかけに、保護を求めてナゴルノ・カラバフに避難したのである。
帝政ロシアとその後継者のソ連は、アルメニア人をコーカサス支配の道具に使った。びっくりしたのはイスラム教徒のアゼルバイジャン人だった。ロシアのアルメニアびいきで、1980年代にはナゴルノ・カラバフの圧倒的多数派はアルメニア人で、残りが、アゼリ人とクルド人になってしまった。
≪ 「ある日、アルメニア人が……」 ≫
そして1988年、ついにアルメニアは、アゼルバイジャンに、ナゴルノ・カラバフの領土移管を要求、領土紛争は、両国の戦争にまで発展した。
「裏で糸を引いていたのは、ロシアだ。あれはゴルバチョフの陰謀だと思う」。レフェベル氏がそう言った。「何故?」「だって、ロシアの援助がなければ、アルメニアは戦争はできやしない」というのだ。突如として起こったアルメニア人の武装蜂起に、アゼリ人は、逃げ出した。バクーの市街では、アルメニア人とアゼルバイジャン人の衝突が起こった。ゴルバチョフは、「バクーの秩序回復」の名のもとに赤軍を派遣したが、武力行使のホコ先はもっぱらアゼルバイジャン人に向けられた。ソ連の軍事支援に力を得たアルメニアは、ほどなくナゴルノ・カラバフ地方の完全領有に成功した。
「これが真相さ。アルメニア人は宣伝上手だ。ソ連だけでなく、西側のキリスト教国もアルメニアびいきで、悪い奴はアゼルバイジャンだと思っている。われわれは口下手だからね」と彼はボヤいた。“戦争の広告代理店”。もしそういうものが世界に存在するのなら、こういう国こそ、それが必要なのだろう。
ナゴルノ・カラバフの領土喪失でこの国はいま、70万人の難民をかかえ、四苦八苦している。レフェベル氏一家も、ナゴルノ・カラバフ出身だ。年老いたお母さんがバクーの下町の難民キャンプに住んでいる。さっそく出かけてみた。1913年生れ、88歳。数年前までは、レフェベル氏のアパートに同居していたが、1人になりたいといって、1部屋に2家族雑居の元学生寮のこのキャンプに転居したという。大型のパン5個(日本円で110円相当)、ピクルスのびん詰(210円)、トウモロコシの食用油1本(130円)、斧でカットした羊肉2キロ(450円)。キャンプ前の露店で求めた手土産のリストだ。
「わざわざ日本から来てくれたのか? アラーの思し召し。皆んなに分けてあげます。有難う」。彼女は、喜んで差し入れを受けとってくれた。
「ナゴルノ・カラバフの家は大きかった。3世代が住んだ伝統的な家だ。息子(レフェベル氏)もこの家で生れた。ある日、アルメニア人が大勢やってきて家を壊した。逃げた。でも、いつの日か帰れることを祈っている」。
山と緑と谷の美しいナゴルノ・カラバフの絵がかかっていた。「ナゴルノ・カラバフは天国だ。ここで育ったものは空気の汚れたバクーには住めない」。
「私は息子が近くにいるので幸せだ。親戚のいない人は大変だ。貨車に住んでいる人もいる。このアパートの住人は、バザールに行って野菜や肉を仕入れ行商をやり、少しのお金を稼いでいる。地方に出かけて畑を手伝って食糧をもらう人もいる。私は“天の夫が、助けてくれる”と、そしてこの人たちには、“アラーのお助けがありますように”と毎日祈っている」。
彼女はそう言った。
≪ ゾルゲの石碑の前で ≫
18世紀のトルコのアルメニア人大虐殺が、玉突きゲームのように2世紀後に、隣国のアゼルバイジャン人に災難をもたらした。コーカサスの国々は、おのれの運命をみずからの手で定めた経験がほとんどない。大国の版図に、いつも振りまわされてきた。ソ連時代のこの国は、対独戦争遂行のための石油供給基地であった。ドイツの侵攻におびえた時代でもあった。だがナチス軍は、カスピ海に近いスターリングラードまでやってきたが、ここで“冬将軍”に敗北し、撤退した。「俺は記録映画で見たんだけどね。ヒトラーが誕生日に、カスピ海の形をしたバースデー・ケーキを作らせ、バクーにナイフを入れて食らいつくシーンだった。よほど欲しかったんだろうよ。ロシアだけで十分なのに、ドイツまでやって来たら、アゼルバイジャンは破滅していたろうよ」レフェベル氏が苦笑した。
バクー市街の1等地にある「目玉公園」に出かける。正式の名称は、「RICHARD・ZORGE」(リヒアルト・ゾルゲ)公園という。だが、最近のバクー市民は、そんな名前になじみがない。市民散策とプールのある市民の憩いの公園だが、ここに彼らにとっては得体の知れない大きな2つの目玉をテーマにした高さ3メートル横に5メートルの石の彫刻がある。
近衛内閣の中枢に接近し、日本の南進を的確に当てた大物スパイ、ゾルゲの記念公園だ。
ゾルゲはドイツ系アゼルバイジャン人(つまりソ連人)であった。日本は北進か、南進か?この“丁半バクチ”を、ゾルゲが情報で裏付けてくれたので、ソ連は対独戦一点張りをすることができた。もし対独と対日の二正面作戦をとっていたら、モスクワもバクーもドイツの手に落ちていたことだろう。
1950年、スターリンは、偉大なる功績をたたえて、生誕の地にゾルゲの名前にちなんだ公園を建設した。だが1991年のアゼルバイジャン独立後、石碑の裏に刻まれていた公園の由来の説明文は、全文削り落とされ、引っ掻き傷だけが残っている。
「ソ連とか、戦争の話、思い出したくないんだよ。アゼルバイジャン人は…」。レフェベル氏は、そう言うのである。
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