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ロシア人、V・イワノフ53歳。彼とは、昵懇(じっこん)の間柄というわけではない。付き合いが長いわけでもない。仕事上の相手でもないし、お互いに趣味や世界観を共有しているわけでもない。彼は、「YES」「NO」「GOOD」「THANK YOU」など30ほどの英単語と、「アリガトウ」「サヨナラ」程度の日本語しか話せない。私のロシア語も、彼の英語力とちょぼちょぼなのだ。だから通訳ぬきの対話は、ほとんど不能である。でも、私と彼とは、心が通じ合っている。彼もそう思っているらしい。というのは、2人は他の人にはない不思議な出会いともいえるご縁を共有しているからだ。
このストーリーの舞台は2つある。あの広大なロシア領の東端の秘境、カムチャッカ半島と、ヨーロッパ・ロシア最西端の飛び地、カリーニングラード州という2つの辺鄙(へんぴ)な土地だ。カムチャッカで出会ったイワノフと私は3年後、気の遠くなるような地理上の距離を超越して、カリーニングラードで再会した。以下は、私の旅行記からの抜粋だ。
≪ 親潮の原点、カムチャッカ半島とは? ≫
イワノフとの出会いは、1999年8月、カムチャッカ半島の州都ペトロパブロフスクであった。北緯53度にある太平洋岸に面する不凍の港湾都市である。真夏だけ運航するロシアの臨時便で名古屋から4時間半。カムチャッカは小雨であった。気温は10度。雲の切れめから隣り合わせに、“富士山”が2つも見える。ここの富士は、“不二山”ではない。この半島には、すり鉢をふせた型の火山が十数個もあった。一番高いのは、4700メートルの活火山だ。
「土産物屋で絵葉書を求める。孤高のはずの富士が平地に幾つも並び、背比べをしている。そんな景色があるだけでも、カムチャッカは、世界有数の秘境なり」。当時の私の旅日記には、そう書かれている。主人公、イワノフを登場させる前に、カムチャッカとはいかなるところか??。もう少し続ける。出会いのドラマが演じられた舞台そのものが、観光客のめったに訪れぬ土地である。それに、この読物は2つの土地の尋常でない風土がとりもってくれた因縁話でもあるからだ。
カムチャッカは、オホーツク海の東の端にある半島で、面積は日本より大きい。オホーツク海とは、知床旅情が唄う「はるか国後」の向こう側、つまり千島列島の北側の北太平洋に付属する海で、西はサハリンと北海道、北はシベリアと接し、東にいくとカムチャッカ半島によって遮断され、べーリング海と区別される。
北極の海ベーリング海からやってきた寒流は、カムチャッカ沖で、これまた冷たいオホーツク海流と合体し、千島海流(親潮)が誕生する。そして日本本土の太平洋岸を南下し、千葉県の銚子沖で南洋からやってきた黒潮の下に潜る。カムチャッカは日本にやってくる最大の寒流、親潮の原点なのである。
カムチャッカ半島の暮らし向きは決して貧しくはない。むしろ本土の平均的ロシア人より生活水準は高い。それを可能にしているのは、北の海の漁業資源である。この半島は、ヨーロッパロシアと地続きなのだが、陸路でここに到達するのは、まず不可能である。全く行けないわけではないが、“北極探検隊”の装備が必要だろう。だから半島といっても、実態は孤島である。船か飛行機しか便がない。魚がなかったら、この半島はモスクワにとって大変な経済的お荷物であったろう。漁業資源がほとんど視野になかった帝政ロシアの時代、カムチャッカを、アラスカ売却の抱き合わせの景品として、米国に譲渡する案もあったという。
州政府を訪問して聞いたのが、カムチャッカ半島には、12ヵ所の漁業コルホーズがあり、港湾労働者を含めると、毎日、4万人の人々がなんらかの形で海に出ているという。州統計によると、全産業の生産額の65パーセントは、漁業および魚の加工である。「ミンタイ」(ちなみに、これはロシア語)、すなわちスケソウダラの年間漁獲量は50万トン以上で、日本漁船のそれよりも多い。このほか、日本の5分の1に相当する鮭とカニを捕獲している。
カムチャッカの漁業水揚げの半分以上が、日本に輸出される。日本漁船と北太平洋で落ち合い洋上取引するケースもある。そこで得た売り上げの一部は、北海道など日本の中古車市場での買い付けにまわる。魚と中古車の双方でもうかるのだから、この半年の漁業関係者は金持ちである。
≪ V・イワノフ氏の生活と意見 ≫
このストーリーの主人公、V・イワノフは、その1人だった。べーリング海の紅鮭漁船5隻をもつ漁業会社社長である。偶然にも現地のホテルで出会った私の旧友、加藤始さんの露日語通訳で、懇談したのである。イワノフは、バルト海のカリーニングラードの水産大学を卒業、あえて僻地への赴任を希望、カムチャッカのコルホーズで働いた。共産党員ではないので、副議長止まりの栄達だったが、市場経済導入とともに民営漁業会社の社長になった。彼は、モスクワ大出の加藤さんを通じて、ベーリング海の紅鮭を日本に出荷している。
「人間、金もうけだけではこの世に生を受けた意味がない。文明とは何か、そして、人間はどこから来て、どこへ行くのか。それを考える人間にならねばいかん。そう思って会社の利益のなかから、従業員の子弟7人に、欧米留学の費用を出している」
イワノフはそういった。魚が中古車に化け、中古車が海外留学への橋渡しをする。三題咄のロシアン・ドリームではないか。
娘のナターシャさんを7年間英国に留学させた。オックスフォードで経済史を専攻、このほど学士号をとり、私と会った3日前に帰国した。その当時、彼女とかわした会話である。
「極東の聞いたこともない漁村から来たロシア人が、オックスフォードを卒業したと騒がれた。BBCのTVに出演要請があったが、“お前は見せ物ではない”と父にさとされて、とにかく帰国した。でも、私は本当にカルチャーショックよ」
「どっちのカルチャー。英国、それともカムチャッカ」
「もちろんカムチャッカよ」
「英国の会社に職を見つけ、移住したい」
彼女のいう文化果つるカムチャッカと魚が父親に高収益をもたらすカムチャッカ。そのギャップをどう埋めたらよいか。それが父親であるイワノフ社長の頭痛の種だった。親潮の生まれ故郷であるカムチャッカ半島。やはり文化的には僻地だったのである。
この話は、1999年、雑誌「財界」に、「陸の孤島??人の生活と意見」と題して発表したことがある。以来、私にとって、イワノフの父と娘は気になる存在であり続けた。カムチャッカ紀行の記念アルバム(写真)を取り出し、イワノフの娘ナターシャさんの言う「文化果つるカムチャッカ」と「魚のおかげで高収益をもたらすカムチャッカ」の板バサミに、どう対応しているのか考えた。
それから3年。イワノフに再会するとは夢にも思わなかった。カムチャッカは僻地のそのまた僻地の世界の秘境である。真夏の期間、客が集まり次第名古屋からチャーター便が飛ぶ以外は、沿海州経由の長旅を強いられる。だからカムチャッカを訪れることは2度とあるまいと思っていたからだ。
≪ 縁は異なもの、カリーニングラードヘ ≫
再会のお膳立てをしてくれたのは、私の若い友人の1人である前出の加藤始さんであった。「縁は異なもの…」とは、このことをさすのではないのか。モスクワで財団の仕事をこなし、そのあとバルト3国経由でフィンランドから東京に戻る出張のスケジュールがあった。日程からみて、2日間の休日がある。この余暇を利用して、バルト3国に隣接するロシア共和国の飛び地、カリーニングラードに立ち寄ることにしたのである。カリーニングラードの昔の名前は、ケーニッヒスベルグであり、プロイセン公国の発祥の地であった。第2次大戦でソ連に占領されるまでは、ドイツ領だった。
この4国の面積にも満たないバルト海東岸のごくわずかな地はドイツ観念論の元祖、イマヌエル・カントの生地でもある。だが、カムチャッカでのイワノフとの邂逅がなければ、カリーニングラード訪問はおろか、その存在さえも見過ごしてしまったかも知れない。旅程がすべてセットされたところで、加藤さんに、彼はいま何をしているのか問い合わせてみた。
「イワノフは、カリーニングラードに引き揚げた」という。だが、「ここまでははっきりしているが、連絡先の電話番号が間違っているらしく音信不通」とのことだった。紆余曲折の末、「イワノフと連絡がとれた。彼は空港に迎えに来る」との吉報を加藤さんから受けとったのは、出張先のモスクワのホテルであった。
2002年3月の末。モスクワのシェレメチェボ第1空港(国内線専用)から、ツボレフの双発機TU?34に乗り込んだ。同伴者は、元ソ連科学アカデミー付属マルクス・レーニン研究所員ケオルギュー・ユーリさん74歳。ソ連時代3年間、日本に滞在した日本学者である。イワノフとの会話のためにお願いした露日通訳だ。モスクワから2時間半、飛行機はリトアニア共和国の上空を通過、カリーニングラードに着く。世界地図を開いてみる。カムチャッカの州都ペトロパブロフスクから北緯53度線上を、一直線に西へ、西へ。ロシア共和国の時差を11時間分平行移動したところに、この国の最西端の軍事拠点、バルト海唯一の不凍港の都市があった。空港に迎えに来てくれる手筈のイワノフの姿が見えない。「何かの行き違いが起こったのか。もしかしたら会えないのか」。そう思った矢先ホテルに訪ねてきた。
≪ 「変な日本人だよ、君は。ガッハッハ」 ≫
「やあ久しぶりだなあ。君がここにやってくるとは夢にも思わなかった。俺がカリーニングラードで初めて見た日本人だぜ、君は。何の用事で来たんだ」
「いや、あんたに会いに来た」
「俺に会いに? 変な日本人だよ、君は。ガッ、ハッ、ハッ、ハッ」
破顔一笑とはこういう表情を指すのだろう。「カムチャッカの会社はどうした? 今でもベーリング海の紅鮭をとって日本に輸出しているのか?」
「ウン。やってる。会社を所有してはいるが、経営権は譲った。モスクワ政府の要求する漁業権料があまりにも高値になったので、もうからなくなったからだ」
彼の出生地のカリーニングラード。28年ぶりの里帰りだという。昔はドイツ領、冷戦時代は外国人立入り禁止のソ連最西端の軍事都市。バルト3国のロシア離れで飛び地となったロシア領の経済特区カリーニングラード州とは、彼にとって何ぞや??と問うてみた。そして彼の生い立ちは?
「俺が子どもの頃、カリーニングラードの伝統的産業は漁業だった。ドイツ時代からそうだった。高校を出て1年間、水夫として働き、マグロ缶の加工船に乗った。当時は南氷洋の捕鯨船の母港だった。クジラ肉のソーセージ。今でも覚えている」
ところが、バルト海の汚染が進行し、魚がだんだんとれなくなってきた、遠洋漁業も採算が悪くなっていた。1975年イワノフは、25歳で思い切って、漁業資源が豊富だと聞いていたカムチャッカの漁業コルホーズに転属を申し出た。計画経済のソ連だから、採算悪化で、出身地の漁業に見切りをつけたわけではない。極寒の僻地に行けば給料が2倍になると聞いたからだ。
「今では、カリーニングラードに漁業はない。市場経済になってから漁業コルホーズは解散した。昔は漁業のほかに車両製造とか造船などが活発だったが、今はたいした産業はない」。イワノフは、そう言い切った。では、カリーニングラードとは、ロシアにとっていかなる地位を占めている州なのか?
「まず第一に、ロシア共和国のバルチック艦隊の本拠地だ。バルト海のフィンランド湾にあるサンクト・ペテルブルクは、冬は凍るからね。ここはロシアにとって大事なんだよ。ロシアの西にあるたったひとつの不凍港だから…」
だから飛び地となった今でも、モスクワはこの小さな州から、ロシア人がいなくならないように経済的な優遇策をとっている。エネルギーと食糧はおおむね本国の補助金つきで、輸出入は経済特区扱いで、免税の特典がある。本国より有利に外国と交易が出来る。イワノフさんも特典を利用して、室内装飾用の建材の製造販売業をやっている。
イワノフと町を歩く。ドイツ時代の市役所が、今でも市役所として使われている。州の歴史博物館で、この街をめぐる独ソ攻防戦のジオラマを見物した。1945年4月の5日間にわたる激戦の記録である。当時、ドイツの最東端の防衛線だった「ケーニッヒスベルグ」(現カリーニングラード)に赤軍が進攻した。このあとポーランドから、ドイツに入った赤軍は、2ヵ月後にはベルリンを占領、第2次大戦に終止符を打った。
1947年、連合国のプロイセン国家廃止宣言によりケーニッヒスベルグは、ロシアに帰属することになった。そこでスターリンは住民の民族総入れ替えをやった。生き残ったドイツ兵はシベリア抑留、市民はドイツに送還、新住民はロシア人で編成された。初代の住民は、攻防戦で闘った旧赤軍兵士が多い。カリーニングラード州におけるイワノフ家の起源でもある。
「兵士としてこの地で闘った私の父は、ここに残留した。市の中心部は戦闘でほとんど瓦礫と化したが、ドイツ人の住宅地は、大部分無傷のまま残った。ここで闘った赤軍兵はヨーロッパ?ロシアの農民出身が多かった。ドイツ軍のモスクワ、キエフ攻略作戦で故郷が破壊された人々で、帰るべき家がなかったからだ」。イワノフさんによれば空家になったドイツ人の家は赤軍兵の実家よりもはるかに広くしかも高級だった。気に入った家を選んで住みついた。その後、政府の命令で、ソ連のいろいろな地方から移住者が集まった。市の復興作業で仕事はいくらでもあり、給料も高く設定された。「戦争で、おびただしい数の若いロシア兵が死んだ。戦後のロシア人女性は結婚難になり、この地に残留した元兵士を目当てに、大挙してやってきた」。その1人が、イワノフの母だという。
≪ イワノフ家の歌声酒場 ≫
ポーランドの中のドイツの飛び地を領有したことにより、ここにあったドイツの軍港、ピラウは、バルチンスクと改名され、ロシア海軍の西ヨーロッパへの重要な出口となった。今では閉鎖された軍港町である。イワノフに立入許可証を頼んだ。
「州訪問の理由が“俺に会いに来た”ではまずいよ。ウマイ口実を考えてやるが、発給まで3日待てるか」と言われて断念した。埋め合わせだといって、彼は仕事を1日休んで、通訳のユーリさんともどもバルト海沿岸の景勝の地に車で連れて行ってくれた。
カリーニングラード市の北西35キロの緑の豊かな町、スベトゥロゴルスク。人口1万3000人の保養地である。ソ連時代は党の幹部や役人、そして模範労働者のためのサナトリウムが建設され、これまた立入禁止区域だったという。木造の立派な家が森の木立の中に何百軒もある。今では、金持ちの別荘になっている。ヨーロッパで一番大きいというふれこみの日時計の花畠があった。急唆な崖を下りると砂浜だ。浜辺で少年が、砂に混じったいくつかの茶色の破片をくれた。ビール瓶と思ったら琥珀の小さなカケラだった。
すぐ近くに世界一の琥珀の鉱山、ヤンタルニーがある。年産750トン、世界の90%の琥珀を産出している。重さ2.86キロの世界最大の琥珀が展示されていた。琥珀は、数千年前の松ヤニが酸化して凝固した化石だ。でも石ではないので、さわっても冷たくない。熱すれば融けてしまう。付近の浜辺は、しゃがみこめば、琥珀の採集は可能だ。沖合にカリーニングラードの砂州が見える。その先端と半島との間が、100メートルほどバルトの外海に開けている。そこが軍港とのことだった。
夜、イワノフ家に招待され、ウオッカでカラオケをやった。酔うほどに、「カリーニングラード独立論があるが、どうか」、と水を向けた。
「経済で自立できないのだから独立は無理だ。俺たちは昔のドイツ領に住む根なし草のロシア人なんだと思うこともある。でも、そんなこと忘れることにしてるんだ。俺は、ロシアの東の果てと、西の端の両方に住んだ男だ。皇帝だって党書記長だって、大統領だってそんなことができた男はロシア広しといえども俺しかない。なあ友よ。お前もまたロシアの両端を訪ねたたった1人の日本人だ」。2人で、今は流行らぬソ連時代の流行歌、カチューシャ、黒き瞳を合唱、意気投合したのである。
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