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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: VANUATU・天国に二番目に近い島  
コラム名: 文化問答“ヘソ曲がり人”の旅日記  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2002/09  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   この夏名も知らぬ遠き南の島に出かけた。れっきとした独立国だが、日本人でこの国名を知る人は、1万人に1人もいないだろう。その国は、「ヴァヌアツ」(Republic of Vanuatu)という。5年ほど前、私の勤務する財団の姉妹基金である「笹川太平洋島嶼国基金」が、太平洋に22もある小さな島の国々のジャーナリストを東京に招いた時のこと、この国の新聞記者が、「日本人で私の国の名前を知ってる人は誰もいない」と私に嘆いたことがあった。以来、私にとってヴァヌアツは気になる存在であったのだ。

 ひょんなことがきっかけとなり、2002年の夏、ヴァヌアツに出かけることになった。ミクロネシア、ポリネシア、メラネシアに分れる22の島嶼国に、3000年前、豊かな文化が存在していた。考古学では、「ラピタ土器」の文化という。この土器は、日本の縄文式のそれと似ているが、相互の関連はまだわかっていない。しかし、太平洋の島々で、同じものが次々と発見され、東西南北何万キロにもおよぶ海域に散在する島から、島へと古代の人々が力ヌーで往来し、ひとつの共通の文化を形成していたことが、最近わかってきた。「古代南太平洋の文化の絆である土器の出土現場が、ヴァヌアツにもある。いきませんか?」。そんな誘いもあって、この島を訪ねたのだ。

 「ヴァヌアツとは如何なる島か」。出発前、若干の予習を試みたのだが、日本語の文献にはたいしたものはない。たった1冊、隣の島、仏領ニューカレドニアを題材にした小説があった。1965年、森村桂さんが書いた「天国にいちばん近い島」であった。

 「ずっとずっと南の地球の先っぽに天国にいちばん近い島がある。その島の土人たちが黒いのは、どこの国よりもお日さまをいっぱいもらっているからなんだよ。その島の土人たちは、神さまと好きなだけ逢えるから、みんな幸せなんだ」。彼女が小さいときお父さんがそう話してくれた。「その島はどこにあるのだろう」。今は亡きお父さんは、生前その島の名前を教えてくれなかった。大人になってから、ニューカレドニアの話を偶然耳にした。「その島は気候は常に暖かく、1年中花が咲き、マンゴーやパパイアがたわわに実り、原住民の土人は2日働けば、あとの5日は遊んで暮らしている。伝染病もなければ、泥棒もいないところだ」という。「ここだ!」と私は思った…。

 そんな書き出しで始まる小説だ。南太平洋の島の村落の人々とその生活は、この小説と大同小異であり、ニューカレドニアから、700キロしか離れていないヴァヌアツとて例外ではない。でも魅力的な題名を生み出した小説の筆者に敬意を表し、この島を「天国に2番目に近い島」としておこう。以下はヴァヌアツ見聞記だ。


≪ 「Me longtime no luk Yu」 ≫

 ヴァヌアツは森村桂さんの舞台であるニューカレドニアより、ずっと辺鄙なところだ。ニューカレドニアは、あの小説以来、日本人の旅行熱をあおり、年間、2万3000人が観光旅行に出かける。成田からフランス航空の直航便で8時間50分、とりわけ新婚旅行に人気がある。だが、ヴァヌアツはお呼びではない。南太平洋上の隣の国なのに、この国へ日本から出かけるには、まずオーストラリアかニュージーランドヘ飛ばねばならない。

 私は、2002年7月末、9時間半かけてシドニーに行き、そこから乗り継いで3時間半も飛んでようやくヴァヌアツの首都であるエフェテ島のポートヴィラにたどりついた。ヴァヌアツを知る日本人はまずいない。機中持参した英文の旅行案内書(Lonely Planet)のVANUATU編と首っ引きで、にわか勉強した。

 「ヴァヌアツ」とは、現地語で、「OUR LAND」(私たちの土地)という意味だ。1980年独立してそう名乗った。それまでは英国とフランスの共同植民地だった。83の島からなる国で、このうち12の島に合計20万人が住んでいる。欧州人がこの島の存在を知ったのは、1774年、キャプテン・クックの船が島を発見、スコットランド沖にあるHebrides諸島に地形が似てるところから、ニュー・ヘブリデスと名づけた。欧州人もいい気なもんだ、勝手に名前をつけられ、先住民はお気に召さなかった。そこで独立後、わざわざ「私たちの土地」という名の国家を作ったのだろう。

 われわれ考古学グループの一行は、この島の案内人にKeiko Shanさんをお願いした。「單恵子」。中国語の姓名だが、れっきとした日本女性だ。ご主人が中国人で、恵子さんは横浜生れ、この国に日本国籍をもって17年間住んでいる。

 「ヴァヌアツ人の70%は英語を話す」と観光案内に書かれている。街の中で聞いているとちょっと奇妙な英語に思えた。島民に英語の文章をしゃべると通じない。単語を並べてたどたどしく話すとよく通ずる。このヴァヌアツの恵子さんが、彼女のバンの運転手と話している英語もそうであった。彼は高校のフランス語の先生で、夏休期間中アルバイトで旅行エージェントの恵子さんに雇われているインテリで、フランス語も英語も片言ではないはずだ。

 にもかかわらず、2人の会話は、片言の英語だ。ときおり、まったく耳にしたことのない現地語らしき単語が混っている。失礼とは思いつつ、恵子さんに聞いた。

 「その言葉、英語ですか」

 「そう。まあ英語もどきでしょうね。ビスラマ(Bislama)といって、この国の国語です。」

 国民の65%は、この言葉を使っているとのことだ。恵子さんの説明では、この国には、方言が100以上もあり、相互に話が通じないので独立後、憲法で共通語としてビスラマを国語と決めたそうだ。

 本屋で、「ヴァヌアツの片言英語入門、ビスラマ語のすべて」という本を求めた。英語の題名は、Everything you wanted to know about Bislama. これが、ビスラマ語になると、Evri samting yu wantem savelong Bislama. となる。この変てこな英語、英国人とオーストラリア人が、ヴァヌアツの住民と交易するために開発した言語とのことだ。私は、あなたが好きは、Me like yu. お久しぶりは、Me longtime no luk yu. という。現地語の文法に、英単語をあてはめた言葉で、簡にして要を得ておりわかり易い。

 ところで、こんな小さな国に、どうして100以上も方言があるのか。ヴァヌアツに到着した夜、会食したヴァヌアツ国立文化研究センターのラルフ所長に聞いてみた。彼は、ビスラマ語ではなく正統派の英語でこう答えた。

 「古代のヴァヌアツでは、島の中のそれぞれの部族は、ジャングルと海に隔てられ相互の往来は稀だった。だから、お互いに通じない沢山の方言が存在していたのだ」と。

 いくつかの王国の寄せ集めであるインドネシアも、それぞれの地方語で成り立っている国だ。そこで共通語としてマレー語の変形であるインドネシア語を創造した。ヴァヌアツの人造語、ビスラマもそれと同じだ。


≪ 「目黒のサンマ」か? 「ヴァヌアツの野菜」か? ≫

 第2次大戦中、日本軍は、この島のすぐ近くまで進攻した。「すぐ近くといっても、世界地図のサイズでの話だが、その島は2000キロ離れたソロモン群島だった。南太平洋の日本進攻を食い止めるべく1942年、米軍10万人が首都のあるエフェテ島に上陸、基地を建設した。島民は、防衛軍の兵になったり、米軍基地で労務者として働いた。米軍のくれる給与は高く、島は戦争景気にわいた。この時の駐留米軍人の中に、J・F・ケネディ元アメリ力大統領がいたという。

 この島の経済は、この米軍の基地時代がいちばん豊かであったという。今日のヴァヌアツは独立はしたものの、経済の自立からはほど遠い。この国は農業が基本で、人口の80%が、タロイモ、ココナッツ(椰子の実)、ココア、野菜、牧畜に従事している。この島の牛肉の80%は日本に輸出される。あとは観光と、タックス・へイブン(国際的な税金逃れの避難港としての便宜供与)、そして外国政府からの援助だ。1人当りのGDPは、1500ドル。隣の仏領ニューカレドニアは1人当り1万8000ドルと超リッチであるのに比べると貧乏だ。

 ポートヴィラの朝市に出かける。食糧は豊かだ。だが決して安いとはいえない。ヤム(イモ、この島では、ゆでたり、むし焼きにして主食にする)1本が、3キログラムの大きさで、日本円で500円。新鮮な中国野菜が沢山ある。ヴァヌアツの商店主は中国系の移民が多いので、その人たち目当てに先住民が栽培しているのだという。チンゲン菜が1束で100円。「ヴァヌアツの野菜は、世界で1番おいしい」。案内の恵子さんがそういう。この島は土が豊かだ。何万年前の噴火で火山灰が堆積し、その上に熱帯雨林の落葉が積み重なって何千年もかけて土壌が形成された。その土の養分を吸いとった野菜なのだから、肥料と殺虫剤漬けの作物とは異なる。ジャングルを切り開いた処女地の香りのするみずみずしい野菜だ。

 「Me Wanthem KaiKai」(食べてみたいな)。ビスラマ語の復習のつもりで言ったら、「Small time go hom」(ちょっと家にいらっしゃい)と恵子さん。ポートヴィラの海の見える高級住宅街の彼女の家に招待され、中華料理店主もやったことのあるご主人の事業家、Mr, Shan の手作りで何種類もの野菜妙めをごちそうになった。

 「目黒のサンマ」という外題の古典落語があるが、その流儀に習って、言わしてもらうなら、「野菜はヴァヌアツに限る」で、この島の野菜は、たしかに世界一ウマかった。食べものの話を続ける。われわれ一行は、翌日、恵子さん一家を招いて、返礼の宴を催した。シャン家の知り合いの、10年前、広東から移民してきた中国人夫妻の経営している中華レストランだ。そこで、待望のヤシガニとご対面したのだ。ものの本によると、ヤシガニは絶滅の危機に瀕しており、南洋でもめったに、お目にかかれない。だがこのレストランの食卓に、大皿に載せられたヤシガニのぶつ切りの妙めものが登場した。珍味である。カニミソが小さなご飯茶碗一杯分もある肉。ほのかに甘い。甘いはず。ヤシガニの常食は、ココナッツミルクと、椰子の実の果肉だ。


≪ 珍味・ヤシガニを食べる ≫

 ヤシガニはどうやって、あの固いヤシの実を食べられるのか。食卓の話題であった。甲論乙駁、結論が出ない。こういうときは持参の例の英文の旅行案内書が役に立つ。この本にいわく、ヤシガニの成長は遅い。少なくとも成熟する迄に15年かかる。そこで体長25〜30センチになる。寿命は50年、地球上で一番大きい陸のカニだ。ヤシガニは、海岸から1キロ以内の、ヤシの林に住んでいる。このカニは、夜間、ヤシの木に登って、ココナッツを食べる。ネズミのかじった穴から汁や果実を食べることもあるが、しばしば固いヤシの実の蔕(ヘタ)の部分をハサミで切って、地面に落とす。落ちて割れたヤシをゆっくりとたいらげる。夜間、ヴァヌアツの人々は、松明をつけてカニを探す。割れたヤシの実の食ベカスから足がつく。ただし、ヤシガニのハサミは強力で、よほど気をつけないと人間の指1本くらい簡単にちょん切られてしまうとのことだ。

 名も知らぬ遠き南の島で、ヤシの実と、ヤシガニを食し、ふと、思ったのである。「ここははたして天国に近いのか」と。「ヴァヌアツが天国に近くないとすれば、隣のニューカレドニアだって、同じように天国に近くない」筈だと。試みにヴァヌアツの恵子さんにそれを問うてみた。彼女は、森村桂さんの例の小説、「天国にいちばん近い島」を何回も読んだことがあるという。

 「それは、乙女の感傷よ。実際に住んでみれば、地獄でもないけど、天国ではない。例えばね。伝染病がなかったという話。それは18世紀以前の話よ。ヨーロッパ人が、南太平洋の島々になかったバイ菌を運んできた。コレラ、ハシカ、天然痘、インフルエンザで大勢の原住民が死んだ。20世紀に入ると英仏の囚人がこの島に流され病気が蔓延した。昔は、ココナッツ、イモ、小魚を食べていた。それが、米やヒツジの脂肉や、砂糖を食べるようになり、糖尿病や高血圧にかかり、寿命は45歳よ」天国に召されるのが近い??。それは悪い冗談だ。彼女はさらにこう付け加えた。

 「独立してからこの国の政治の質は落ちたみたい。英仏の植民地時代は汚職はなかった。隣の島のニューカレドニアの原住民の中にも、独立することがはたして幸せなのか疑問をもつ人もいると聞いています」

 「森村さんの小説には、住民は2日働き、あとの5日は遊んで暮らす天国の島だと書いているけど…」

 「昔からそれは男の世界の話よ。いまでも南太平洋の島々の男は女を働かせてブラブラしてる。女にとって南太平洋の島々では、天国は遠い」

 彼女はそう言った。だとすると、南の島々のどこが天国に近いのか。私はそれを、村落に残る伝統的な心の文化の中に見出したのだ。


≪ 村人は神々に近かった! ≫

 私たち一行は前出の文化センター、ラルフ所長と、ジャングルの中の村落に出かけた。古代の太平洋の島々の先住民が、共通の文化をもっていたことを証明する「ラピタ土器」の発掘現場のひとつが、ここにあるという。ラルフは英人と原住民のハーフだ。舗装道路から分岐する脇道を行くと、熱帯雨林に入る。ほとんどの脇道は、それぞれの村に通ずる専用の通路だ。ここに入るには、チーフ(酋長)の許しを得なくてはならない。タオルとか、缶詰などの手士産が必要だ。

 南の島の村落には、まだ「近代」が忍び込んでいない。その意味では、身近に神々がいる世界なのだ。村の人々の「この世」と「あの世」観は興昧深い。宇宙は、先祖の霊と悪魔で満ちている。とくに亡くなってから日が浅い先祖の霊を「お化け」と言い、この世とあの世の間を未練がましく徘徊し、人間に意地悪をする。この呪いを避けるために、村には祈祷師がいる。霊を癒し、悪魔を追い払う。

 「村に入って、握手をしない男がいたら、それが祈祷師です」。恵子さんにそう教えられてきたのだが、誰が祈祷師だったのか、ついぞわからなかった。その代り、チーフとは親しく話をした。英語がブロークンであればあるほどよく通ずるのだから、お互いに便利この上なしだ。

 熱帯雨林の中を30分ほどドロンコ道を行くと村落に入る。そこから細い道をこれまた30分歩くと視界が開け海岸に出た。そこが彼らの「Nakamaru」(集会所)であった。

 チーフの役割は、村の平和と正義のために行動する。対外的には、村人を代表して村の利益のために発言する。とりわけ先祖のものである土地を外の脅威から守り通す責務を負っている。彼の言は法そのものだ。世襲と難行苦行ののち尊敬されてチーフに選ばれるケースがある。チーフとは何ぞやについて、この村のチーフは、そう説明してくれた。

 酋長の大演説のあと、私にお鉢が廻ってきた。日本を代表して何か話をせよとのお達しだ。とっさにこう言った。

 「日本財団と日本の祖先の霊を代表して一言あいさつします。この島に来て、日本のShinto(神道)と、皆様の精神文化と共通していることを発見しました。それは、われわれは神々(GodではなくSprit)といちばん近いところに住んでいるということです。もしかしたら、私は大昔日本に、大勢いたチーフの1人の子孫かも知れません。チーフの子孫として申し上げますが、ラピタ土器文化と大昔の日本文化との共通性が考古学の研究によって説明されたら、こんな愉快なことはありません」と。

 「Excellent. Thank you. JAPAN Chief.」。酋長はそう叫んだ。この島の神々は八百万(やおよろず)の神々と親戚ではないのか??。そんな気にさせる、この村のチーフの固い、固い、長い、長い握手であった。
 



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