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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: アゼルバイジャン共和国紀行(上)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2002/10/08  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
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「火」と「油」の原点を訪ねる
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≪ エデンの園はどこにあるか? ≫

 世界地図を開く。それが国名表示抜きの白地図であってもトルコとイランがどのあたりにあるか、およその場所はわかるはずだ。だが、「コーカサスはどこにあるか」と問われたら、地図上の位置を示せる人は、まずいない。それほど日本になじみが薄い地域だ。

 アゼルバイジャン、グルジア、アルメニアをコーカサス3国というが、トルコの東、イランの北に位置し、黒海とカスピ海にはさまれている。ロシアからみれば、大コーカサス山脈の南側にある帝政ロシア時代の植民地であり、かつまた旧ソ連邦最南端の対西側戦略的拠点であった。

 2001年の10月。トルコのイスタンブールから、カスピ海に面するアゼルバイジャン共和国の首都バクーに飛んだのである。旅の相棒は、松長昭氏。名刺の肩書きは、「文学博士笹川平和財団主任研究員」とある。ちょっぴりいかめしいが、要するに西アジア研究の歴史家兼文化人類学の専門家として、売り出し中の気鋭の学者だ。

 「“エデンの園はアゼルバイジャンにある”と雑誌か何かで読んだが本当か?」

 機中、松長学者に聞いた。「先史時代のコーカサスは、人間にとって楽園だったらしい。旧約聖書の創世記にある地名は、形而上学的な想像の地でなく実在したらしい。考古学者がたどっていったら、アゼルバイジャンの南のハゲ山のふところにある“アジチャイの谷”にたどり着いた。水と緑と果実に恵まれたところで、大昔、自給自足を営んでいた。ノアの方舟の着地点も、コーカサスでトルコとイランの国境付近にある」

 松長君の解説である。「我々は天国に行くのかね」と冷やかしたら、「いや、いまの話でなく、“原始、天国なりき”です」と大真面目に訂正された。彼によると、アゼルバイジャンを始めとするコーカサス地方は今でも高い文化、美しい風景、ウマイものはふんだんにある豊かな土地であることは確かだ。だが歴史時代の始まりとともに、良い土地であったことが仇になり、穏やかな天国どころか、波乱万丈の騒々しさだった。この国の二千数百年の歴史はローマ、ペルシア、アラブ、モンゴル、トルコ、そしてロシアに代る代る、餌食にされた被征服者としての記録で埋まっているという。

 イスタンブールから、トルコの黒海沿岸を飛ぶこと1600キロ、トルコ航空の深夜便はカスピ海に突き出た半島に位置するコーカサス最大の都市、人口170万人のバクーに着いた。

 午前2時だというのに空港にレフェベル氏が出迎えてくれた。名刺に「日本・アゼルバイジャン学術文化交流協会代表」とある。ソ連時代バクーの国立大学を出て、文部省の課長になったが、独立後、官職を捨てた。トルコの新聞の通信員をやってるうちに、親日のトルコ経由で日本を知り「地理的には遠いが、精神文化は近い気がする」と思い込み、日本大好き人間になったという。この国に限らず西アジアの要所にいる松長学者の数ある現地人脈の1人だ。

 翌朝、彼の案内でバクーの海岸を散策する。バクーとは、ペルシャ語で、風の町という意味だ。カスピ海を渡る10月の風が心地よく吹き抜ける。

 「日本人には涼しいのか。われわれには寒い」。レフェベル氏が、ジャケットの襟を立てた。彼は、初級の英語とほんの少しの日本語を話す。松長君はトルコ語の名手だ。アゼルバイジャン語は、トルコ語の親戚で、2人は、何不自由なく会話ができる。

 カスピ海岸に、中世バクーの城壁の町が残っている。11世紀、グルジアの王がこの地を支配し、バクーの黄金時代といわれた頃の城だ。この500メートル四方ほどの地域を人々は「旧市街」と呼んでいる。高さ28メートル、厚い石壁で固めた旧市街のシンボル「乙女の塔」に登る。12世紀、この地を占領したモンゴルの汗(王)が建てたとのことだ。


≪ 石油都市バクーの由来 ≫

 塔の由来がふるっている。この王には近親相姦趣味があったそうで、美しい自分の娘に言い寄った。娘は「お父様と夫の領地が隅々まで見える高い塔を私の為に作ってくれるなら…」と言った。その塔がついに8階に達したとき、もはや逃れられぬものと覚悟し、塔の頂上からカスピ海に身を投げたという。

 それにしても、手のこんだ話ではないか。「モンゴルの侵略は、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を極めた。だからコーカサス人の怨念が、モンゴル王を近親相姦野郎に仕立てあげた」。松長君の説である。

 「それは言える。ここから見ると海岸はかなり離れている。王女はどうやって海に飛び込んだんだ。でっちあげに違いない」。私も、松長説に悪乗りした。「いや、昔はここまで海があったんだ。実話です」。モンゴル帝国嫌いのレフェベル氏が、むきになって反論した。

 乙女の塔から見たカスピ海とその沿岸は、大型の石油掘削のリグが林立していた。その先端で、天然ガスの火が燃え、空を焦がし続けている。

 塔のふもとにある中世の石造りの隊商の宿を改造したレストラン「KARAVAN SARAI」で、昼食をとる。BAKUに古代から、連綿と続く石油の歴史を語り合うには、うってつけの場所だ。メインデイッシュは、チョウザメの切り身の焼き魚であった。

 先史時代から人々は石油を求めて遠くから、このバクーの地にやってきた。「マルコポーロの東方見聞録に、バクーの石油の話が出ている」と松長君。

 マルコポーロは13世紀のヴェネツィアの商人兼旅行家だが、モンゴルから黒海経由で帰国した。その際、バクーは寄らなかったものの、聞き書きを残している。「燃料として、灯りとして、薬として、とりわけラクダの皮膚病の妙薬として、石油を求めた」と。

 カスピ海沿岸の石油地帯は、不毛の土漠の上にある。バクーの郊外も、カフェオレ色の土地が続き、緑が稀だ。ところが、カスピ海に面するバクーの市内だけは樫の大木やオリーブや松?がふんだんにある。アカシアの並木が、広い道路をひき立たせている。ヨーロッパの緑の都市のたたずまいなのだ。

 19世紀末の石油成金の石造りの邸宅が緑にとけこんでいる。誰かが大規模な造園設計をやったに違いない。

 しかし木はどこから持ってきたのか。それよりも土はどうしたのか?

 私の疑間に、レフェベル氏が答をくれた。「バクーの街は石油が作ったんだ」と。

 以下は彼の話だ。アゼルバイジャンは全体としては緑の多い豊かな土地だが、カスピ海沿岸は昔から緑がない。19世紀末、石油ブームがスタートしたとき、バクーは荒れ果てた茶色の土地だった。1860〜70年代にかけて、欧州から石油を求めてやってきたビジネスマンたちは、土と木を欧州から輸入することを考えた。

 バクーの石油は、タンカーでカスピ海とヴォルガ川を遡上し、ヴォルゴグラードからドン川へ。黒海まで川を下りイスタンブール経由で地中海へ。こうして欧州へ原油を運んだ帰途、土を積んで帰ってきた。空で帰ったタンカーには、市当局が税金をかけたという。


≪ ゾロアスター教の本山で ≫

 20世紀の初頭、バクーの油田は世界の消費量の半分を供給した。石油だけでなく、アゼルバイジャンは、火の原点の国でもある。石油とともに地中から噴き出す天然ガスの通り道が無数にある。空気や砂が混入して摩擦が起こると火がついて、そのまま燃え続けることがある。

 バクーのあるアブシェロン半島にはそのような“永遠の火”が、何か所もある。そのひとつスラハニのゾロアスター教(拝火教)寺院に出かける。紀元前650年、教祖ツァラトゥーストラは、まさにこの場所で燃える火を見つめるうちに、宗教的啓示を受けたという。

 「キリスト教倫理思想は弱者の奴隷道徳」と批判する19世紀末のドイツの哲学者ニーチェは、拝火教の中に、強い「超人」の存在を見出し、キリスト教の「神」の死を告げた。

 松長学者によると、ゾロアスター教の教義は、善悪二元論で.世界を善なる超人と悪魔たちの闘争の場ととらえ、最終的には善が勝利する。宇宙はこの過程の永遠の繰り返しとのことだ。

 教義もさることながら何はともあれ旅行記には実感が大切だ。教祖に啓示を与えたその火を拝もうと、1ドル払って寺院の門をくぐった。ところが永遠のはずの火が消えていたのだ。びっくりして門番に通報したら、あわてず騒がず「ちょっと待て」。

 やがて石造りの祭壇に、ツァラトゥーストラが殉死したとされる善の象徴、聖なる火が灯った。案内のレフェベル氏が気まずそうに言った。

 「この話、旅行記に悪く書かんでくれ。門番の話によるとソ連のスターリン時代、宗教弾圧が激しく、何千年前からあった自然の火の道を埋められてしまったんだ」と。この国の独立後、寺院が復旧されたが、火の元は、都市ガスで代用された。早朝で我々以外には客がいなかったので、番人がガスの栓を開け忘れていたのである。
 



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