共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ホーホケキョ、ケチ、ケチ、ケチ  
コラム名: 私日記 第34回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2002/10  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  2002年6月19日

 夕方になってから聖イグナチオ教会の信者さんたちの集まり真和会の主催の聖君の講演会。教会の建物の中で講演をすると、ますますイエス時代に横行していたという「偽教師」になったような気がする。しかし「偽教師」も「偽」という形でとにかく教会に繋がっていたのだ。

 考えてみると、私は偽を自覚することがまんざら嫌いではない。むしろ学問にせよ、研究にせよ、これで完成した、ということは1つもないだろう。只今のところ「私は偽です」と言えば「私は嘘つきです」というのと同じ安心がある。これからの人生はこれで行こう。

 帰りにそのまま三戸浜へ行く。


6月23日

 日曜のミサの後、帰京。


6月24日

 正午新宿発のスーパーあずさ7号で松本へ。昔高瀬ダムの建設の途中、始終この線に乗って信濃大町から西の谷にある現場に入っていた。懐かしい沿線の光景をずっと見ている。

 松本市内のホテルで「市民タイムス」主催の講演会。終わって予定より早い列車に飛び乗ってすぐに帰京。


6月25日

 いつもの出勤日。10時執行理事会。電光掲示板原稿選定ミーティング。午後1時、銀行倶楽部大ホールで「日本工業倶楽部」講演会。私など、こういうイギリスのクラブのような建物の中にめったに入る機会がないので、珍しくて感激。

 財団に帰って、午後3時から『月刊ランナーズ』誌のために長淵悦子さんと対談。

 4時半、来訪されたイツハク・リオール・イスラエル大使と30分ばかり雑談。自国が混乱の中にある時、遠く離れて暮らされるのもどんなに辛いことだろう。

 6時、財団1階の広間で阪田寛夫さんの「お話と歌でたどる童謡唱歌史」の10回目。明治35年に婦人矯風会機関紙に初めて掲載されたという『禁酒の歌』に笑い転げた。川口京子さんがユーモアたっぷりに酔っぱらいを演じながら歌ってくださった。非公式の日本財団の「社歌」にして、折あるごとに皆で歌いたいものだと思うが……。

 その後で、南アのヨハネスブルグから根本昭夫神父が帰国されたので、神父のホスピスを訪ねたことのある人々が、霞が関の官庁とマスコミ各社から集まって来て、神父から改めて南アのエイズの猛威について聞いた。私が5月初め新しい病棟の完成式に出席した時、歌を歌ってくれた10人近くの子供たちのうち、2人がもう亡くなったという。その幼さで、母を失い、1人で死んで行くことの実感は、どんなものなのだろう。

 今日の出席者からは、2000円の会費を受けた。


6月26日

 かつて長良川河口堰の問題が起きていた時、私は何度かそのことについて資料を元に書いたことがある。しかし現場に行ったことはなかった。行けばすぐ「公団側」だとか、饗応を受けたのだろうとか書かれることは決まっているので、私はどんなに鮎を食べに行きたくても、長良川の近くにはここ数年、いやもっと長く、寄りつきもしなかったのだ。

 もういいだろう、ということになって水資源開発公団の近藤徹総裁にご案内頂くことにした。近藤氏も、私の土木の知識の「お師匠さん」と勝手に思っている方である。

 しかしたった1日くらい見て長良川河口堰の問題がわかるわけもない。もし河口堰を書くのなら、最低1年や2年は現場に通わなくてはならない。ほんとうのことを言うと今や私は堕落していて、とにかく鮎が食べたいだけなのだ。それでも饗応と言われることは今でも用心しなくてはいけないので、1日の見学は完全な割勘でお願い申しあげます、と先方に伝え、そのために行く先々で領収書をきちんと貰うために秘書も連れて行くことにした。ほんとうに今の世の中は幼稚でいやになる。どちらかがどちらかを私費でごちそうしたって、ほんとうはいいじゃないか。

 怠け者の私が今回一番見たかったのは輪中の農家が「水屋」と呼ぶ避難小屋を、昔から常設していたことである。とにかくこの地域は何年かに一度は必ず水害がある。そのため、金持ちほど、家邸の一隅に高い石垣の土地を築き、そこに2間の部屋と作業用の土間を築き、周囲が水没した時には、そこに蓄えてある食料を頼りに籠城した。船を軒にくくり付けてある農家もある。「川は自然に放置するのが一番いいのです」という暴論を、今でも吐いている人には、洪水の時、後始末にかかる費用を必ず負担してもらうといい。

6月27日

 夕方「2002 FIFA World Cup “KABUKI”」を歌舞伎座に見に行く。お隣の桟敷はサトウ・サンペイご夫妻。サトウ氏は幕が上がるとさっとスケッチを始められ、「お喧しくて」などと礼儀正しい。私は横目でスケッチを見たくてたまらないのだが、私が原稿を書いている時に、隣席の人に原稿用紙を盗み見されたら、それもいやなものだから、じっとガマン。それにしても歌舞伎を見ながらスケッチができるなんて羨ましいと嫉妬の感情がむらむらである。

 『身替座禅』は本当におもしろかった。浮気する時に女房はつくづく怖い、というテーマである。しかし外国人たちは総じて力マトトだから、いかにして女房の眼をだまくらかして女に会いに行くか、という中村勘九郎さんの名演技をどこまで楽しんだかどうかわからない。こんな不道徳なドラマは妻たちの手前困るなんて言っている人もいるかもしれない。


6月最後の3日間

 家でごろごろ。淋巴マッサージ。私の大好きな家の中の片づけ。


7月1日

 午後福島で、毎日新聞社のための講演会。『無名碑』という小説を書くために、ここから田子倉まで通っていた頃を思い出す。もう30年以上前のことだ。今夜は福島泊まり。


7月2日

 午前11時半、日本財団帰着。執行理事会、各部案件説明。帰りに田園調布警察署に立ち寄って、住民として新署長にご挨拶。

 夜、南アの根本神父と、尻枝毅神父を自宅にお招きしてお引き合わせした。尻枝神父が託されていたお金を、根本神父の活動に対して寄付をされた由。エイズ患者のための新病棟に、これで冬の寒さを防ぐ簡易暖房が備えられる、根本神父は喜んでおられた。


7月3日

 家で淋巴マッサージ。


7月5日

 午後財団へ、マルタ騎士団を日本に作ることについて、幼い難民を考える会の副代表理事・交野政博夫妻と、マルタ騎士団会長のコンスタンティン・フォン・ブランデンシュタイン・ツェッペリン博士、独日協会連合会会長のティロ・グラフ・ブロックドルフ氏が来られる。日本に活動の芽を育てるための私なりの考えを申しあげる。

 3時『日経エコロジー』誌のためのインタビュー。4時、笹川スポーツ財団。


7月6日、7日

 家で連作短編『観月観世』のうちの1つ、「包丁」を書き続ける。30枚以上になるだろう。


7月8日

 旭川の三浦綾子記念館主催の講演会に出席。その前に初めて記念館をご主人の光世氏のご案内で拝見した。酒落ていて、隅々まで愛情のぬくもりを感じる。

 私は死ぬと一切の存在が消えるのが願いなので、数年前夫婦で、数日がかりで数万枚の生原稿と数百枚の写真を焼いた。夫は「その煙で喉が悪くなった」と今でも言うが、残すのも消えるのも楽ではない。

 夕方の飛行機で帰着。


7月9日

 日本財団に出勤の日。執行理事会、案件説明。

 小学館、中央公論新社、新潮社それぞれの親しい編集者来訪。

 夕方、9月下旬に出る予定の「アフリカ貧困視察メンバー」の顔合わせ会。未だにこの会の適当な名称が決まらない。それで必ず私が言い訳がましく説明をすることになる。

 今年はシエラレオーネ、カメルーン、中央アフリカの3国。マラリア地帯なので、その予防薬の飲み方を、めいめいが自己責任において選んでもらうことを説明する。何より過労、深酒、寝不足を避けて「たった17日です。修道僧のように禁欲的にお暮しください」と言った。

7月10日、11日

 家で執筆。淋巴マッサージ。「小心者は体中が凝る。体中を針ネズミみたいにしてやっとこの年月を生きて来たのだ」と自分に言い聞かせて、少し情けなく少しおかしくなる。


7月12日

 朝三浦朱門と、財団の2階で行われたヒンドゥ文明に関する講演会を聞いた。私は性格がいい加減だから、この程度わかればいいやと思って同時通訳のイヤホーンを使わなかった。朱門は正確を期そうとしてイヤホーンを使ったら、訳が悪くてわからなくなったという。どちらにしてもお互いに苦労なことである。そもそも理解するのが難しい問題なのだ。

 財団の部屋に戻って少し雑用を果たしてから、午後俳優座に劇団昴の『ゆうれい貸家』を見に行く。原作・山本周五郎。おかしくていいお芝居だった。最近喜劇とラブ・ストーリーがひどく好きになった。これも老化?


7月13日

 朝長崎へ。佐世保で「教育を考える講演会」。飛行機の都合で少し早く着いたので、初めてハウステンボスの中にあるホテルで昼食を頂いた。オランダ風の町並みはエキゾチックだが、売りに出された家は、夏でも寒いヨーロッパの気候に合わせたデザインだから、日本の風土では暑くて大変だろう。

 講演を終わった後で、今日の講演会の企画者でもある光武顕市長と早めの会食。教育に危機を感じる人は、今の日本にたくさんいるのだろう。私は教育不在をよく感じるけれど、日本人の素質に失望したことはない。政界のおもしろい話も聞かせて頂いて、爽やかな時間であった。


7月14日

 1日、家の中。どこへも出ず。


7月15日

 午後、今度石原慎太郎さんが海洋文学大賞を受賞されたので、その賞を都庁まで届けに行く。選考委員会の日、私は微熱があって家にいたが、受賞者が決定した時、選考委員のお一人は強気で、「石原さんが授賞式の日に出なければ、賞上げない、って言ってよ」と笑った。しかし石原氏はやはり出席しない、という。公務が忙しいのだろう、と私は大変物分かりがいい。「お届けに行きましょう。賞金は目録や小切手なんかだとありがたみがないんですね、ゲンナマがいいな」ということになり、賞金200万円分、2000円札で用意した。100枚の束10個である。都知事が入室する前に、記者団に、嫌らしく積み上げた札束を見せた。

 総理になる資金としては少し足りませんね、と私が言うと、石原さんは総理になんかならない、と言われるので、私はすぐ記者団に「総理にはならないそうです」と言った。すると「そういうふうに決められるのも困るんだ」と言うので「決めるのも困るそうです」と言おうとしたが、その辺からよく覚えていない。記者たちは皆笑っている。「何に使いますか?」という質問に「飲むに決まってるじゃないか」というお答え。「これすぐ銀行で1万円札にして来てよ」と秘書におっしゃった。だから2000円札が流通しないわけだ。

 石原さんは総理は金でなるもんじゃない、と言われた。その言葉だけはよく覚えている。ドラマはそこから始まるのだろう。

 その後すぐ、『文藝春秋』誌の対談。老いについて語ったのだが、石原さんも私も、ほんとうの老いを語るにはまだ少しだけ未熟。ほんとうの老いは、体の不自由の悲しみを知ってから語らなければならないものだろう。


7月16日

 出勤日。9時半、笹川スポーツ財団。10時執行理事会。11時半、日通旅行とアフリカの旅程について打ち合わせ。12時アフリカヘ同行するカメラマンの宮嶋茂樹氏来訪。1時電光掲示板原稿選定ミーティング。1時半、国土交通省谷野龍一郎技術総括審議官が退任の挨拶に来られた。1時50分、笹川平和財団堀武昭氏。クルド情勢について。2時40分、朝日新聞社文芸編集部、矢坂美紀子氏来訪。


7月17日〜22日

 休み、三戸浜。まだすばらしい喉の鶯が鳴いている。「ほーほけきょ、けきょ、けきょ、けきょ」と鳴くのだが、三浦朱門は「ホーホケキョ、ケチ、ケチ、ケチ」と聞こえるという。けちんぼは身に覚えがあるのだ。


7月23日

 出勤日。しかし午後から。

 4時、海上保安庁、津野田次長新任ご挨拶。

 4時少し過ぎ、シエラレオーネのシスター根岸美智子さん。9月の訪問の打ち合わせ。今度訪ねるルンサーという地方都市の修道院は、手榴弾で破壊され、窓ガラスも窓枠もないという。そこに泊めてもらうのだが、寝袋はもちろん、床を掃く箒、床に敷く新聞紙、窓に張るサランネットも持って行かねばならない、と計画を練る。「何しろ、マラリア地帯ですから」とシスター。

 5時、祥伝社。

 6時、阪田寛夫さんの童謡シリーズの第6回目。今日は警視庁音楽隊に特別の出演をして頂いた。会場が狭いので41人ものバンドには狭くて申しわけない。しかし聴衆は大ぜいたくを味わうわけだ。

 今日は主にマーチなのだが、鹿鳴館で演奏されたという『扶桑歌』がおもしろい。曲のテンポが遅いところをみると、鹿鳴館では舞踏ばかりしていたのではないらしい。フォックストロットにしても遅すぎて踊れないのである。『抜刀隊』の歌が『ノルマントン号沈没の歌』になり『ラッパ節』になり『空に真赤な』となった。すべて俗謡化なのだ、と教えられる。

 最後に皆で『我は海の子』を合唱してお開き。今夜は珍しく阪田さんたちと中華料理。ごちそうの匂いを嗅ぎつけて来た三浦朱門は阪田さんの50数年来の親友だが、財団に「汚食」をしに来た罰に、全員のビール代を払わせることにした。


7月24日

 朝10時、警視庁音楽隊にお礼を申し上げに行く。

 11時、日本財団評議員会。

 12時、評議員・理事の方々と昼食。

 午後1時、日本財団理事会。

 2時、海洋船舶部、案件説明。

 2時半、笹川スポーツ財団。

 3時、バングラディッシュの女性と子供省大臣、クルシド・ザハン・ハック夫人来られる。プロフィールによると、夫人の趣味は読書、ガーデニング、ライティング、料理とある。私とよく似ているが、私の著述は趣味ではなく生業。読書は必要に迫られて。ガーデニングははいつくばって草取り。料理はほんとうにご自分でなさるのかな。私は仕事の合間に気晴らしにやっている。似ているようで少し違うような感じもする。

 ハリケーンの後のチッタゴンの話。ダッカヘ向けて北上する遅い列車は、無数の蛍をかき分けて走っていたことを思い出した。工場がなくて水浸しの土地なら、自然に蛍だらけになる。蛍をとるか、産業をとるか……。両方は無理、とその時、私は思い知ったのだ。

 4時から、社会貢献支援財団の日本財団賞を決める選考委員会。社会の片隅で、確実に、勇気をもって、時には命を投げ出して働いた方たちを顕彰するのが目的である。選考委員会は、2時間半にも及び、くたくたになった。

 ほんとうはもう少しその場にいなければならなかったのに、オキナワの米軍海兵隊の兵士たちに本土を見せるプログラムのウェルカム・パーティーに出るようにと急かされる。日本財団がその費用を負担しているのである。


7月25日

 1日、お休み。とは言ってもここをせんどと執筆。


7月26日

 午後2時、陸上自衛隊幹部学校に太田清彦一佐を訪問。太田氏とは、カンボジアのタケオ基地で初対面以来の知己。今回、防衛大学校の研究科の学生さんと、防衛医科大から熱帯医学の専門家がアフリ力旅行に加わることになったが、防衛庁からは初参加なので、貧困の実態を知る研修旅行の意図と、以前からの経緯を正式に伝える。

 5時から船の科学館で第6回海洋文学大賞贈賞式。海を思わせる白とブルーのコンビネーションのすばらしいスーツを召された清子内親王殿下をお出迎えして、和やかな空気の中で式は始まった。


7月29日

 8時半少し過ぎ、日本武道館へ。全日本少年剣道練成大会で挨拶。

 午後、新宿で「水の週間」の記念講演。

 それから再び財団に帰り、寺島紘士常務の退任のお別れパーティーに出席した。誠実、努力、正確、温厚、謙虚を具現した方であった。


7月30日

 出勤日。電光掲示板原稿選定、ミーティング。

 午後1時半。司法制度改革審議会の大野事務局次長。私は司法制度改革審議会の委員だったのだが、陪審制、参審制に対してほとんどの委員たちは、私のように初めから反対を唱えてはいなかった。私は自分が素人だからそう思うのだろう、と「黒い羊」を自覚していたが、最近では、反対の気運が強くなったとマスコミの記事で読んで、呆気に取られていたところである。しかしご来訪の目的は、そのご説明でもなかった。しかし説明される必要もない。

 2時半、東京シティロードレースのことについて小野清子代議士。

 3時、縄野克彦前海上保安庁長官退任のご挨拶。歴代の海上保安庁長官は、冷静で温かく人間的で、すばらしい方たちばかりだった。今回の不審船事件もそうだが、外界が容赦ない方が、人間は本質を見失わないで済むのか。

 夜、私の家で海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。コンゴのムロにあるツアディビシュ師範学校生徒340人分の給食費など760万円を認可。


7月31日

 美容院へ行って、髪を洗い、淋巴マッサージを受けて、これで7月も終わり。
 

第6回海洋文学大賞贈賞式  
海洋文学大賞、第6回受賞作品決定  


日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation