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私は人間が小さいから、人に騙されてはいけない、ということに心を使ってきた。
人さまのお金を預かって、それを海外で働く日本人のシスターたちの事業に廻す中継の仕事をするようになったのは、援助のお金が多くの場合、相手国の政治家や有力者の懐に流れ込むことを防ぐ目的もあった。
私は必ず、
「シスター、建築材料を買う時は、シスターが土地の業者に直接払って下さい。教区の大司教さまなどにお金を預けたりしないで、シスターがご自身で管理なさって下さい」
などと言い、煉瓦が現地価格で1個10円の土地で、外国人であるシスターが少し騙されて、11円、或いは12円で買うことはいいのだけれど、15円も払うような騙され方はしないで下さい、とくどくどとつけ加えたりした。
騙されるな、と言っておきながら、10円の煉瓦に11円、12円払っても仕方がないとするのは、1つには安全のため、もう1つは貧しい人々が少しは潤うためである。あまりアコギなことを言ってシスターが命を狙われるようなことがあっても困る。少しだけ騙されて安全を買うのだ。
それと私はまだ幼稚園くらいの時に、年上の従兄から「都々逸(どどいつ)」なるものの一部に「騙される気で騙されて」という文句があるのを教えられた。それ以来、ほんとうに騙されるのはいけないけれど、騙されていると知りつつ騙される人になりたい、という美学が定着したのである。
その国の名誉のために、国名は明らかにしないが、1人の日本人のシスターがこの間任地から一時帰国して来て、いい話をしてくれた。
そのアフリカの途上国には、イタリアの宣教師たちが入っていて、内乱でずたずたになった人々の心と生活を支えている。神父の出身地のイタリアの町のスーパーなどには、「同郷の神父の働きを助けてください」という主旨を書いた篭が置かれていて、買物に来た人がスパゲッティとか砂糖とかを1袋ずつ入れて行くようなシステムになっている。
こうして集められた物資はコンテナーで神父の働くアフリカの奥地に届けられ倉庫に保管されると、その鍵は土地の青年たちに預けられるのであった。
「それでは盗まれるでしょうね」
と私が言うと、シスターは答えた。
「盗まれても盗まれても責任を取らせて、教育をし続けようと思っていらっしゃるんでしょう」
もしかすると、夜のランプの灯の下で、神父は、いつになったら自分の理想が定着するかと、暗澹たる思いになる時もあるだろう。しかしただ騙されないだけでなく、騙されても騙されても、与え続ける教育もあることを、私は改めて思い知ったのである。
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