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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: バルト三国紀行(中) アレキサンダー君とのドライブ   
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2002/09/10  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ ヒッチハイクで日本に行った人 ≫

 2002年3月31日。リトアニアは早春であった。バルト3国、縦断の旅のスタートである。相棒は、ヴィルニュス大学言語学部修士課程のアレキサンダー君、23歳である。早大で2年間、日本語をトレーニング、英語はもともとうまい。彼は、この国の原子力発電所のお偉ら方であるお父さんから、スウェーデン製のVOLVOを借りてきた。この車で、バルト3国を、リトアニア、ラトヴィア、エストニアの順で、北上することになった。

 車の借り賃は1日50ドル。「レンタカーは高い。お金を節約しましょう。だからお父さんに頼みました。お父さんは、“上等のウオッカが飲める”と喜んでました」。アレキサンダー君が日本語でそう言うのである。

 リトアニアの首都ヴィルニュスから、ネリウス川沿いにハイウェーを北上、終着地のエストニアの首都タリンまで、700キロの車の旅であった。車窓の両側に松林が続く。松林がきれると、白樺とブナの森である。

 森の切れ目に湿原が展開する。「5月になったらリンゴの花が咲きます」とアレキサンダー君。給油に立ち寄ったガソリン・スタンドの温度計は10度をさしている。「北国の春だね」といったら、ヒッチハイクで北海道を旅したことがある彼は「そう。北海道の春と同じ」と相槌をうった。

 リトアニアの国道はヒッチハイクの若者が多い。右手の掌を、人差指を立てて、ピストル型にするのが、この国の「ヒッチ」(Hitch=車を引き寄せる)の相図だ。

「ヒッチハイクは、美人が断然有利だよね」。そう言う私に、2週間で東京まで行ったリトアニア女性の話をしてくれた。

「僕のヴィルニュス大学の1年先輩です。日本の文部省の奨学金で、日本語勉強のために、早稲田に留学したことがある。僕と同じ。半年前ね。彼女、日本に遊びに行きたくなってヒッチハイクでモスクワまで行った。そして何度も乗り継いでシベリアを横切って、ナホトカ港まで。船だけはお金払った。新潟から東京もヒッチハイクです。帰りも同じコースで戻ってきた」

 ヴィルニュス?東京間の所要日数は14日間、「シベリア鉄道を利用するより早い」。彼女の貧乏1人旅のストーリーが地元の新聞に載った。リトアニア人はロシア語が堪能である。だから彼女の快挙が成立する。新潟?東京間は、得意の日本語がモノを言う。定期便の“トラック野郎”あたりに大歓迎されたことだろう。

「どうして紹介してくれなかったの」

「そうおっしゃると思いました。実はきのうの夜、彼女に電話しました。でも留守だった。イースターの休みで旅行中らしいです」

 アレキサンダー君、ガイドとしてもなかなかフット・ワークがよろしい。

「その代わりですね、先生。あなたの行きたいとこ、電話しておきました。今日、日曜日だから、クローズしてるが、特別に開けてくれるそうです」


≪ 「杉原記念館」で思ったこと ≫

 目的地は、カウナスの旧日本領事館、現在の「杉原記念館」であった。カウナスは、ヴィルニュスから車で1時間。リトアニアの第2の都市である。中世のゴシック様式の建物が残っている。ハンザ同盟の代表部が設けられ商業の中心として栄えた。ヴィルニュスは、第1次、第2次の両大戦の谷間にポーランド領に編入されたので、独立リトアニアの首都であった。

 第2次大戦の勃発した翌年の1940年7月の朝、当時カウナスにあった日本領事館に人垣ができた。ナチスに追われ、ポーランドからリトアニアに逃れたユダヤ人たちだった。もともとリトアニアに在住するユダヤ人も含まれていた。この時すでにヨーロッパにユダヤ人安住の地はなく、米国に逃れるのが生き残る道だった。そのためのシベリア鉄道経由、日本までの通過ビザの発行をカウナスの日本領事館に求めたのだ。

 当時、日本は日・独・伊3国同盟の関係にあり、建前としてはビザの発給はできない。しかも、ドイツのリッペントロップ外相とソ連のモロトフ外相との密約で、バルト3国のソ連編入が決まり、リトアニアにもソ連兵が入り、日本領事館も退去を求められていた。

 杉原千畝(ちうね)リトアニア代理大使は立退き期限までの約半月、昼夜を分かたず、日本通過のビザを書き続け、6千人のユダヤ人の亡命を成功させた。以上が杉原氏の美談のあらすじである。カウナスの閑静な高級住宅街の一角に、当時のたたずまいそのままに、ビザ発給の舞台となった旧領事館が残っていた。カウナスの大学の日本文化センターと、杉原氏を顕彰する日本人の会が管理しているとのことだ。門には、「希望の門、命のビザ」と、日本語とリトアニア語で書かれていた。

「1994年、リトアニア首相と日本の外務副大臣が出席して、記念館の開所式が行われました」。わざわざ休日出勤して門を開けてくれたユダヤ系の日本文化センター教授が説明してくれた。彼は意外にもリトアニア生まれのユダヤ人だった。

「実はナチスの厳しいユダヤ人狩りの中で、他国に逃げる才覚もなかった私の祖母は、カウナスに残っていました。リトアニアの人々が、かくまってくれたのです。だから私は、リトアニアに居住する数少ないユダヤ人の1人なんです」と。杉原氏が寝食を惜しんで、ビザ作成に励んだデスクや、仮眠したベッドも残されていた。

「スピルバーグの映画、“シンドラーのリスト”知ってるでしょ。スピルバーグは、最初スギハラの生命のビザの映画を計画したが、日本政府に協力を拒絶され、ドイツの実業家シンドラーの話に切り替えたというウワサがリトアニアに流れました。ホントですか」。アレクサンダー君は、私に日本語でそう尋ねた。

「さあ、その話はまったく知らない」。彼の質問には、うわのそらでそう答えた。

 その時、私は杉原氏の美談の背景について、別の事を考えていたのだ。

 それは(1)杉原氏が日本政府の意思に反してまったく個人の発想で、ビザの発給をしたのか(2)外務省は公式的にはビザ発給は不許可としながらも黙認していたのではないか?(3)当時の日本政府部内には、ユダヤ人同情論が強く、なんらかの裏からの指示が杉原氏に届いていたのではないか(4)他にもユダヤ人にビザを発給した人はいなかったのか?例えば当時の満州国の日本人領事などで??などの仮説だ。

 もしそうであったとしても、杉原氏の行為の偉大さはいささかも損なわれるものではない。だが当時のユダヤ人救済が単なる個人プレーではなく、なんらかの国家意思の反映であったとしたら、日本国の対ユダヤ人の歴史は若干書き替える必要があるのではないか。私は現地で、そう考えたのだ。


≪ ある晴れた日の交通違反 ≫

 話を旅に戻そう。アレキサンダー君運転のVOLVOは、カウナスから230キロ、国道をラトヴィアの首都、リガを目ざした。松やブナの原生林の中を道路はつづく。アレクサンダー君の話では、この原生林は道路の両側に100キロは続いているとのことだ。

「ここに迷いこんだら、一生戻って来れないかもしれません」と彼。

「リトアニアは、エストニア、ラトヴィアとは異なり、中世のドイツ騎士団の占領を免れた」持参した英文の旅行案内書にはそう書かれている。

「その通りです。この厚い森が、中世のプロシャ人の浸入を防いだのです。だから、中世のリトアニアは、海からやってきたドイツ人ではなく、陸続きのポーランド人の影響を強く受けた。気風も、エストニアやラトヴィア人とはちょっとちがう。人懐っこくて、情熱的です」。彼は英語と日本語を巧みに混ぜながら、微妙な文化の違いを説明してくれた。

 国境のゲートを通過した。松の幹が、赤から黒に変わってきた。海が近づいた証拠だ。ラトヴィアの首都リガに着く。人口80万人。バルト3国では抜きん出た港湾の大都会だ。この街は、12世紀、ドイツ騎士団の修道士たちのバルト地方征服の根拠地だった。当時からある教会の高い尖塔が目立つ。

 晴れ渡った真昼間、国立オペラ座の前で、交通警官に捕まった。車のライトをつけていないのが違反とのことだ。罰金10ドルと警官が言っているとのこと。10ドルを現地通貨で寄こせと要求された。多分、フトコロにしまいこむ都合だろう。会話はロシア語だ。「変な国なんですよ。リトアニアとエストニアは、昼間の点灯なしだが、ラトヴィアはライトをつけろという」。アレキサンダー君はぼやく。ひと口にバルト3国といってもそれぞれが独自性を主張している。私の10ドル紙幣を両替えする銀行を探すのに手間がかかった。

 30分以上のロスタイムだった。警官に罰金を渡した。「何故、この国だけ昼間点灯するのか」と聞いた。「他の国の事は知らん」。それが返事だった。
 



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