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私は、経済記者出身のジャーナリストである。海外の出張先で、その事がわかると、「経済」について外国人からあれこれ聞かれる。私に世界の安全保障問題について意見を求める人はまずいない。「アホ」な“平和憲法“をもつ国民に軍事の話を聞いても仕方がない。その代り、「エコノミック・アニマル」とか「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と、かつてもてはやされた日本国で、経済ニュースを永年書いていたのだから、経済に詳しいと思ってくれているのだろう。
2002年の6月、私はトルコの首都アンカラに3日ほど滞在した。そこで、「トルコのインフレと、日本のデフレについての見解を問う」という真剣かつ、タフな設問に遭遇したのだ。お相手は、アンカラで法律事務所をもつ、エンギン・ウラル氏。高名な弁護士であった。
≪ 百万トルコ・リラ札は今 ≫
「トルコ経済の最大の問題は何か知っているかね」
「駆け足のインフレーションだろ。日本はその正反対の超デフレだけど…」
「その通り。トルコ名物は、インフレだ。年々、50%から100%のインフレが20年以上も続いている。世界の大国の中で、そんな国はトルコ以外ないよ」
やおら彼は1枚の札を、財布から取り出した。額面は100万トルコ・リラであった。
「1982年、私はアンカラに家を購入した。値段はこの札、3枚分、つまり300万リラだった。もっともその頃は、100万リラなんていう高額の札はなかったけどね」。いまでも時価20万ドルはするという高級コンドミニアムとのことだ。
「私の家の3分の1の価値のあったこのお札、今では何が買えるか知ってるか? とにかく記念に、この札を君に進呈する。」
印刷も素晴らしく、すかしもある。それだけでなく、ニセ札防止用の薄い金属箔の帯まで入っている。手の切れるようなピン札だ。もらっていいものか、一瞬、ためらった。
「遠慮するな。とっておけ」。彼は私の手のひらに札を載せてくれた。トルコ入国以来、日が浅く、支払いはとりあえずUS・ドルで済ませていたので、100万リラとはどのくらいの値打ちがあるのか知らなかったのだ。この日のUS・ドルとトルコ・リラの交換レートを彼に告げられて驚いた。1ドルが、なんと150万トルコ・リラであった。円に換算すると、この札1枚の値うちは、77円。これではニセ札作りも、絶対に手を出すまい。
「Mr.Utagawa。私は、わが国の財務省や中央銀行の連中に対してあきれかえっている。20年も、インフレが続いているんだからね。とくにこの10年間がひどい。インフレ率を計画的に引き下げると宣言しておきながら、結局は無策だった。インフレ率は逆に上昇してしまった。だから、90年代をトルコでは、“失われた十年”というのだ」
経済無策の失われた10年間、どこかで聞いた言葉ではないか。「日本も1990年代“失われた10年”といっている。バブル経済崩壊後、不良資産対策を小出しにして、モタモタしてるうちに、デフレの泥沼から抜け出していない」
「経済大国といわれる日本でさえもそうなのか。だいたい経済学というのは役に立つ学問なのかね。私は法律家だからよく知らんけど…」
というわけで、トルコの地で、経済学とは何ぞや??について、彼に解説する目に陥ったのだ。難問を英語で答える。難行苦行とはこの事だ。でも幸いな事に「経済学は死んだのか」の外題で某年、某日、日本の某所でスピーチをした経験があったのだ。彼には、私の講演の筋書きを四苦八苦しつつ、英語で話したのである。さて、私は彼に、いったい何を講義したのか? 私の英語の解説の代りに私の日本語の講演録の抜粋を、そのままここに掲載する。
≪ ノーベル賞受賞者の失態 ≫
私は、現役の新聞記者の時代から近代経済学の致命的な弱さを感じていました。私の高校時代の同級生が、東京三鷹の駅前で古本屋をやってます。彼は、ここ数年、経済に関する本の始末に困っています。古本屋で売れるのは、宗教、哲学、歴史、文学書であり、経済書はごみ同然の価値しかないとこぼしています。
先日、「週刊文春」を見たら「日本経済予測大ハズレの10人」という記事が載っていました。1990年前後、今を去ること10年以上前に書かれた10冊の本が俎上にのせられ「エコノミストの予想は100%違う」と猛烈にこきおろされていました。
たとえば「日本のバブルがはじけることはない」「日本は製造業に続き、金融業でアメリカを凌駕し世界制覇する」「日本経済は歴史的上昇気流に乗っており、90年代は米国に比して優勢が続く」、あるいは、「2004年に日本はアメリカ経済の管財人になる」というようなものがありました。
たしかにこれは全然違います。その記事には「この人たちはお粗末」と書いてあるのですが、それもさることながら、私は彼らが予測した背景にある経済学そのものが老朽化してぼろぼろになっているのではないかと考えました。
ノーベル経済学賞も、しばしば変な論文が受賞してます。1997年にマートンとショールズという2人の数理経済学者が受賞しました。それはデリバティブのモデルをつくったからです。金融経済学、デリバティブがノーベル経済学賞になってもいいのですが、おまけがついていました。
ノーベル経済学賞をもらった後に投資信託のファンド会社に共同経営者として迎えられたのです。しかし、大笑いするようなことが起りました。ロシアが平価を切り下げ、借金を踏み倒したのです。結局マートンとショールズのモデルは通用せず、デリバティブもだめになってしまいました。この会社は結局倒産しました。
いったいノーベル経済学賞というのは何なのか。それは選考者の問題ではなく、経済学そのものに弱さがあると考えたほうがいいと思うのです。
経済学は、19世紀の末、物理学の言語である数字と結婚しました。当時の物理学は「限界概念」という言葉に象徴されます。限界概念というのは、その瞬間、瞬間の変化率のことをいいますが、その概念を経済学が導入したのです。
限界概念を導入してからの経済学を近代経済学といいます。その前の経済学はアダム・スミスやリカード、マーシャルによる古典派経済学と呼ばれるものです。
エコノミストたちは、この限界概念、数学でいうと微分の落とし穴にはまってしまいました。というのは、短期的な変化率を出して、それをずっと先まで引き延ばしてしまったのです。今の瞬間、経済が上がり調子だとすると、それを微分して、その傾向を延ばして将来は明るいと予想してしまう。下り坂のときは、同様に将来は暗いと考えてしまう。芯の中は、実は非連続であり、転換点があるのです。数理経済学で、屈折点を予見することはまず不可能に近い。近代経済学の欠点の第一は、この点にあります。生産物あるいは効用を一単位追加したときの変化を「限界」と名づけるのですが、このような変化率の測定によって、短期的な予測はある程度可能だが、長期トレンドがみえない。転換期も全然わかりません。
一般的傾向や転換期をみるのなら四柱推命のほうがいい。それは、中国が農耕社会になってから定住状態が長く続いたなかで、過去3000年の趨勢値にもとづく人間社会の統計的確率の学問です。
変化率を調べるのは結構だが、それにはまってしまうからいけない。エコノミストにそれなりのものだという謙虚さがあればいいのですが、それがあまりありませんから転換期を当てることができない。もし当てるのだったら、万物は周期的に繰り返すとする景気循環論、たとえば設備投資循環、キチンサイクル、あるいは建設循環論のほうがまだ役立ちます。
≪ 「雨が降ると天気が悪い」を証明する馬鹿 ≫
今日、数理経済学ではまったく触れていませんが、日本経済は20年から25年周期の建設循環が下降カーブになっています。また、コンドラチェフは、もっと大きな世の中の変動、たとえば、発明・発見、あるいは社会システムは50年周期だと述べています。そしてこうしたカーブも下降線をたどっており、まだ大底にまで届いていません。数理経済学者はその点について認めていません。
私はそのことを、数理経済学者と酒を飲んだときに言ったことがあります。すると「証明されていないのは科学ではない」という答えが返ってきました。
たしかに数理経済学者はいろいろなことを証明しようとしますが、「雨が降ると天気が悪い」式の自明のことを「俺が証明した」と威張っている人もいます。これは、因果律を証明したのではなく、たんなる同義反復をしたにすぎません。
重要かどうかではなく、証明しやすいテーマを探してから研究する学者もいる。そのあたりが、現代経済学者のお粗末なところなのです。
第2の欠点はすぐに「他の条件を一定にすれば」と称して、現実離れしたモデルをつくってしまうことです。数学の問題を説くときにはそれでいいかもしれませんが、経済を取り巻く環境は刻々変化するし、その条件たるや数えたらきりがありません。
政治システムも同じです。資源問題や環境問題、民族紛争もあればいろいろです。どうしても、他の条件をいつも一定にする学問がはたして有用なのかという問題にぶつかってしまいます。むしろ他の条件こそ大事で、それを全部加味することは数字では絶対できません。
第3の欠点は、ミクロ経済学でいう一般均衡がはたして成立するのかという問題です。われわれは何となく使っていますが、均衡という言葉はかなり難しい概念です。
経済学者のいう均衡とは何ぞや。それは交換を主体として、交換の場所でつくられる効用理論がベースになっています。たとえば水を考えてみます。すごく喉が乾いているから、コップ1杯1万円でも飲みたいとき、逆にたくさんあれば、飲みたくないこともあるでしよう。
靴はどうか。マルコス夫人のように3000足もあったらただでももらいません。つまり、効用というのは、それぞれの人間にとって商品がもつ有用性のことで、それは限界的に逓減するということです。生産者にとっての効用とは利潤を最大にすることですが、消費者にとって効用を最大限にするにはどうしたらいいのか。
たとえば、水とダイヤモンドと牛肉があるとします。そこで、この3つの組み合わせでいちばん効用を大きくするように、それぞれの量を設定することです。牛肉を100トン買っても効用はありませんから、1キログラムといったようにうまく選ぶ。
一方、生産者は、たくさんつくれば値段が下がるからほどよく製造する。こうして消費者と生産者のそれぞれが、自分の効用を最大にする行動をとるや、いずれみんなが満足する静止状態がくる。それを一般均衡といいます。
ところが、経済は生きているから、モデルのなかでは成立しても、はたして現実に一般均衡なるものが存在するのかどうかは疑念があります。
ところで、経済学が19世紀の末に結婚した物理学は、経済学の老朽化をよそにめざましい発展をとげています。ニュートンの力学から出発し、量子力学、相対性理論へと進化し、これに生命原理を発見した生物学と混血し、「複雑系の科学」が登場しています。「物体や生命の組織を構成する要素は、組織内で相互に作用する」と考えます。さまざまな構成要素の複雑な相互作用のメカニズムを明らかにする。それが新しい物理学の挑戦です。
では、今日の経済学が複雑系的な考え方とどこが違っているかというと、複雑なものを因数分解して要素をつかまえます。それはよいのですが、生産量や貿易量といった要素にすべてバラバラにします。これでは、全体をつかまえることはできません。これが近代経済学の4番目の欠点です。複雑系の経済学はまだ出現していません。
要素還元主義は致命的なことを起こします。長島時代の巨人軍を考えてください。ジャイアンツには元4番打者がたくさんいます。落合や広沢、清原、江藤をお金で集めてしまう。そのときの皮算用は、彼らの打点を個々に足すと何点になるから優勝できるというものです。
ところが、組織にはそのなかの成員同士の相互作用があります。たとえば、西武から移籍した清原はチームになかなか溶け込まないから、組織に悪影響を及ぼして、勝てる試合を失なうのです。いまの経済学はそういう愚を繰り返しているのです。
近代経済学は数学と結婚し、すべて数量に還元してしまったので、超合理主義に走ってしまいました。その結果、文化無視の落とし穴にはまってしまい、倫理観が欠如し、人間の顔をしていない経済学になっています。これが5番目の欠点といえましょう。経済学は数学のみならず、哲学、歴史学、心理学など、もっと人間の臭いのする学問と交際すべきではないでしようか。
≪ エコノミスト作・とりかえばや物語 ≫
私は、トルコの論客であり、かつ法律家であるウラル氏に、何故、エコノミストは、経済の病状の診断と、処方をいつも誤るのか??それは、その根底にある経済学が老朽化しているからだと訴えたのだ。
その為に、ここに再録した私のスピーチを思い起こし、以上のような粗筋を話したのだ。もちろん、巨人軍の例は省略したが、それにしても私の英語力の限界を少々超える仕事だった。
そこで彼に聞いた。
「俺の話わかったか?」
「オウ、わかったつもりだよ。ところで、経済学とは学問なのか」
私はこの設問に答えるかわりに1980年のノーベル経済学賞受賞者、ローレンス・クライン博士とのインタビューを彼に披露した。
「クライン博士に聞いたんだ。経済学は数学や物理学と結婚して失敗したのではないかと。その答は“私の娘はニューヨークの大学で生物学を教えている。あの分野は、物理学や化学の成果を取り入れて、前途洋々だ”だった。そこでもう一度、質問した。“あなたのいまの発言は、経済学の限界を知って興味を失ったことを意味するのか。それとも、生物学のように最近の物理学の目覚しい成果を取り入れて、経済学の再興をはかろうとする決意の表明か?”と。そしたら、彼は言った。“経済学はこの100年間、なんら画期的なディスカバリーや、イノバティブな理論はなかった”とね。」
彼は大きくうなずいた。
「トルコのインフレの原因はね。輸入代替工業の育成によって生まれた固有企業の生産性の低さ。これをカバーするために要した巨額の財政赤字、国債の大量発行。そして生産性の低い企業の安易な賃上げだ。トルコにとっていま必要なのは、ディスインフレーション政策だ」。私はそう言った。
「日本はその逆に、デフレから抜け出すためのリフレーション政策が必要なんだな」と彼がいう。そこで彼はあることにはたと思い当ったのである。
「オイ。インフレにするのが得意なトルコのエコノミストと、日本経済を長いデフレに追い込んだ日本のエコノミストと相互に総入れ替えしたらどうだ。名案と思わんかね」。
何とかとハサミは使いようとはまさにこの事。「オウ。成功疑いなし。これこそ真のノーベル経済学賞ものだ」と私もこのジョークに悪乗りした。2人は顔を見合わせ、役立たずの経済学の弥栄(いやさか)を祈念し、トルコワインで乾杯したのである。
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