共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 歌川 令三  
記事タイトル: バルト三国紀行(上) 鉄路で訪れたヴィルニュス  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2002/08/20  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ モスクワ行の国際列車 ≫

 2002年3月。ロシア最西端のカリーニングラード州から、鉄路リトアニア共和国に向かう。発車前、カリーニングラードのビジネスマン、V・イワノフ氏が、モスクワ行の列車の女性車掌に、ロシア語で何度も念を押していた。

「この日本人、ヴィルニュスで下車するからね。必ず教えてやってよ。迷子にならんように」

 ほんのわずかの英語と日本語の単語しか知らない彼だったが、3日間のカリーニングラード滞在で、心は完全に通じ合った。車掌と話込む彼を見て、私は彼の親切心を感じとったのだ。やはり、駅頭での会話の内容は想像通りだった。

 発車後、私のコンパートメントに女性車掌がやってきた。案に相違して若い彼女は英語を話した。

「あなたの友達のロシア人から頼まれているの。“あの日本人、ロシア語の車内放送はわからん。間違いなくヴィルニュスの駅で降ろしてやってくれ”とね」

 かなり流暢な英語でそう言ったのだ。2人は顔を見合わせて笑った。

 国境の小川を越えた。車窓から見た川幅はほんの3メートルほどしかない。

 列車はここからリトアニアを横切って、ベラルーシを通り抜け、再びロシア領に入り終点のモスクワをめざす。ソ連邦時代は、国境というややこしい関所はなかった。

 だが、ソ連崩壊後のロシアにとって、イスラエルのヨルダン川の東と西ほどではないにせよ、この小川(実はヨルダン川も小さな川なのだ)のもつ意味は重い。

 かつての属国バルト三国(リトアニア、ラトヴィア、エストニア)は、いずれはEUに加盟、西側の国になってしまうからだ。

 リトアニアに入ると車窓の光景が変わる。鉄路の両側にある白樺やモミの防風林の二重の並木は、領土の帰属とは無関係に、果てしなく続いている。だが、林の隙間から見え隠れする広大な畠作地帯のたたずまいは、リトアニア領が豊かだった。点在する農家に新築が多い。ロシア領カリーニングラード州の農家は、あばら家が多かった。巨大な穀物用サイロも、リトアニアの農村風景だ。

 女性車掌が、リトアニアの首都ヴィルニュス駅に近づいたことを知らせにやってきた。長い列車からの降車客は、やはり私1人だった。彼女が、私の手荷物の積み降ろしを手伝ってくれた。


≪ アレキサンダー君の「バルト三国論」 ≫

 プラットホームに小さな仮小屋があった。出入国と税関の事務所だった。官僚的で何かと難くせをつけられたロシアとは異なり入国は簡単。日本人はヴィザは不用、パスポートにスタンプをもらい税関へ。

「これ何ですか」「ウオッカ」「何本?」「1本」

 1本とはいえロシアで土産にもらった3リットル入りの超大型だ。規則は1リットルまでだが、「OK」。入国所要時間は、わずか3分。これが、私のバルト三国を北上する縦断の旅のさきがけであった。

 旅の相棒の若いリトアニア人が、プラットホームの入管小屋の出口で待っていた。

「僕がアレキサンダーです。ヨウコソ。コンニチワ」。抜群にウマイ日本語でそう言った。ヴィルニュス大学言語学部修士課程の学生である。語学研修のため2年間、早稲田大学留学の経験もあり、英語も堪能だ。私のバルトの旅の通訳、ガイド兼運転手である。

 バルト三国とはいかなる国か。まずはそれを語らねばならない。日本のみならず世界にとって、まだなじみの薄い国々だからである。ヴィルニュス市内の本屋で英文の地球ひとり歩きシリーズ、「Estonia,Latvia & Lithuania」を求めた。

 この三国は、1990年代に入ってにわかに脚光を浴びた小国だ。第一次大戦前は、プロシャや帝政ロシアによって、それぞれの民族の固有性(Identity)を否定されたり、抑圧されたりしていた。第一次大戦後は、ドイツの敗北とロシア革命のどさくさで独立、民族自決をエンジョイした。でも幸せはそこまで。第二次大戦によってナチス・ドイツに占領され、ナチ敗北後、ソ連に編入される。

 苦悩の半世紀ののち、ソ連の崩壊によって、再独立した。特異といおうか、数奇な運命というおうか。だが、今では、西欧から祝福の紙吹雪を浴びている。バルトとは何ぞや、この本にはそのような趣旨が書かれていた。

「西欧の人が書くと、そういうことになる、間違いじゃないですけど。でも、民族・人種的にいうと三国はそれぞれ違うんです。リトアニアとラトヴィアは、民族的に近いし言葉も似ている。エストニアは、フィンランドに近い。僕、ラトヴィア人の言葉なら少しわかるけど、エストニア語はぜんぜんわからない。物の考え方は、エストニアとラトヴィアに共通点が多く、リトアニアはユニークな存在だと思う」アレキサンダー君の描くバルト人の自画像だ。

「どうしてかというと歴史が違うから。エストニアとラトヴィアは、13世紀から20世紀まで、つねに外国に支配されていた。でもリトアニアは違う。14世紀から16世紀までは大国だったポーランドと連合して、リトアニア大公国は、いまのベラルーシュとウクライナまで領土をもっていました」と。

 リトアニア人の大部分は、カトリック教徒だが、それはポーランドからやってきたものだ。キリスト教のみならず、中世リトアニアの文化はポーランドから伝来したものが多い。彼の母校、ヴィルニュス大学もそうだ。10世紀から600年間、ポーランドの首都だったクラクフのヤゲロニア大学を模して倒立された大学だ。アレキサンダー君の解説を開いているうちに、突然、私の頭の中の、歴史と地理のチャンネルが繋なかったのだ。

「ホウ、“ヤゲロニア”ね。それ、ポーランド中世のヤゲロニア王朝(1382年〜1572年)のことじゃない?」

 彼はその通りだとうなずいたが、どうして日本人がそんな事を知っているのかといぶかった。


≪ ヤゲロニア王朝とリトアニア公国 ≫

 14世紀、ポーランドのクラクフの王妃、ヤドヴィガは14歳。家臣たちは版図を広げるべく、異教徒で熊のように全身毛むくじゃらな北の隣人を入り婿として迎えるべく画策した。それがリトアニアの大公、ヤゲロニアで、結婚の条件として提示したキリスト教への改宗を快諾してくれた。王は36歳であった。ところが幼い彼女は尻込みした。「大公は、巨大な性器の持ち主で、女性の身体はダメにされる」とのウワサが立ったからだ。家、臣の代表団が、入浴の図を実況検分すべく、遠路、ヴィルニュスに派遣された。結果は「並」との判定が下り、めでたく結婚に漕ぎつけたそうな。以来ポーランド、リトアニア連合は両国の繁栄を約束した。

 2000年の秋、ヨーロッパ中世を実感すべくポーランドの古都、クラクフを訪れた際、仕入れたヤゲロニア王朝の由来である。この話に、アレキサンダー君は笑いころげた。縁は異なもの、げに、歴史とは面白い。「君の血にも、ポーランド人のDNAが入っているんじゃない」。そう水を向けたら、ちょっと眩しそうな顔をして、「僕はロシア系です」と。彼のお父さんが、原子力発電所のエンジニアで、ロシア系のリトアニア人だというのだ。

 彼に聞いて始めてわかったのだが、リトアニアは、エネルギー源の原子力依存度が世界一高い国であった。人口370万人のこの国に、チェルノヴィリ型の原子炉が2基もあるのだ。1984年、ロシアの援助で建設、開業したヴィルニュスから120キロにある「ヴィサギナス・イグナリア原子力発電所」だ。5000人の技術者のうち、大部分はロシア系という。86年のウクライナのチェルノヴィリ原発事故以来、世界で最も危険な原子炉にランクされている。だが、これ閉鎖すると年間、37億ドルのエネルギーコストの増加となり、この国ではとてもまかないきれない。EU諸国の圧力で、1基について2億ドルの供与を受け、2005年に1基、2010年に、もう1基を廃棄することになっている。

 バルト三国のロシア系住民は、ソ連崩壊以降、それぞれの国の国籍は取得しているものの、いささか肩身の狭い思いをしているようだ。とりわけ、リトアニアは、最も厳しくソ連に抑圧され、しかも最も激しく抵抗した経験をもつているだけに根強い反ロシア感情がある。ヴィルニュスには“観光新名所”(?)として、「アウク・大量殺人博物館」が、独立後、建設された。通称KGB博物館という。変テコな皮製の囚人服が展示されている。骨が折れ、息が詰まるほど身体を強く締めつけるための拘束衣だ。

 KGBがシュレッダーにかけたまま捨てていった秘密書類の山、1日に1回、1度に40人が5分だけ使えるように設計されたトイレの実物、血だらけの訊問室もある。1991年1月、ソ連の武装部隊から、国会議事堂を守るべく、数万人の市民が抵抗した際のバリケードも、そのまま記念として保存されていた。
 



日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation