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先日旭川の三浦綾子記念文化財団の設立5周年記念の講演をするようにと言われて、初めて三浦綾子さんの文学館も見せて頂いた。
森の一部にあってすばらしい環境である。建物も北海道らしい温かくてシックなデザインで、ご主人の三浦光世氏のご案内で、綿密に集められたその遺作・偉業の数々によって、1人のすばらしい女性の生涯もよく頭に入った。
三浦綾子さんのエッセイを読むと、ご自分は時々ちょっときついことを言ったり、ずぼらだったりするようなことを書いておられて、その度にご主人が優しく諭したり庇ったりしてくださっている。その度に、うちとは違うなあ、と理屈なく思ったことが度々あった。夫も私を庇うのだが、旭川の三浦家のように、絵になる庇い方ではないのである。
しかし何よりも感動したのは、ていねいに集められた遺作の、愛情に溢れた展示の仕方であった。
もう10年近く前になるだろうか、私たち夫婦は数万枚の生原稿と恐らく数百枚の写真を、田舎で焼いたのである。別にニセ札を作ったことがあるので、証拠インメツを計ったわけでもないのだが、私たちは生前も死後も、できるだけ何も残さないことに決めていたのである。なぜその時シュレッダーにかけることを思いつかなかったのかわからないのだが、心のどこかに、原稿は焼くのが当然と思っていたふしがある。大気汚染のことなど考えつかなかったことは申しわけない。
死ぬ時に、せいぜいで50枚くらいの写真を残す。本は出版社に在庫を捌く上で迷惑にならない範囲ですべて絶版。後に残るものは、私の作品を読んでくださっている方たちの手元にある本と記憶だけ、ということにしたかった。死ぬということは消えることでもあるのだから、消させてください、という気持ちは、私の心理と深い関係があっておもしろい。
この原稿の火葬は、2人で遊び半分義務感半分で、数日がかりでやったが、煙で喉は痛くなり、眼も赤くなったが、結構楽しい爽やかな作業であった。
しかし文学館を拝見すると、ここで三浦綾子文学を再確認する人がいるのもいいなあ、と思った。文学館は出会いの場でもある。
私の文学館は(そんなものは将来もありっこないのだが)三浦半島の西海岸のどこからでも眺められる海と夕映えである。私の著作を読めたり、私の意地悪そうな写真を眺めたり、テープに吹き込まれた作品を聴いて頂く設備はないが、永遠の潮騒の音が、私の小説以上に何かを語り続けるだろう。
あるのもいいし、ないのもいいだろうなあ、と思える自由な年齢に、私は幸いにも到達できたのである。
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