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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: バルカン紀行 セルビア&モンテネグロ(4)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2002/06/11  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 限りなく透明に近い「ブルー」 ≫

 モンテネグロの山岳の古都、ツェティーネから、急唆な山道をバスでジグザクに、1時間ほど下降する。黒い森林地帯が終わり突如として、視界が開けた。眼下にアドリア海が、コバルト色に輝やいていた。

「モンテネグロは、小さな国だが、世界にも稀な観光資源をもっている。山と海のコントラストだ。とりわけ海岸の美観たるや旅人を魅了する」。ツェティーネの土産屋で求めた観光案内書には、そう書いてある。

 この種の本は、どこの国のものでも大ゲサな叙述が多い。だから“話半分程度”の期待にとどめておいたのだが、この国の海岸は掛値なしに素晴しい。アドリア海沿いに300キロの海岸線をもち、砂、小石、もしくは岩の浜辺が117ヵ所もあるという。ヴドバの町に入る。オレンジがたわわに実っている。樹齢2000年と称するオリーブの大木と対面した。その背後には黒松の林が。典型的な南欧の景色だ。

 この町の海浜は、1936年パリで開かれた世界観光地コンテストで、欧州で最も美しい観光スポットとして、グランプリを獲得したという。クロアチア、モンテネグロ、アルバニアと続くアドリア海東岸一帯は、紀元前はローマ帝国の属領だった。

 クロアチアやモンテネグロ人のような南スラブ民族が、ここに移り住んだのは、7世紀以降のことだ。中世のモンテネグロ海岸は、ベネチアの植民地だった。その頃の街並みが無傷で残っていたが、1979年のモンテネグロ大地震で倒壊した。しかし社会主義の時代、豊かな大国であったユーゴスラビアは、大金を注ぎ込んで、数年で昔の趣(おもむき)を復元した。

 案内書には、「モンテネグロ海岸地帯は、地中海性気候で、夏の平均気温は27度、冬は寒くても10度。1年間で晴れの日が220日、年の半分は海水浴可。海の色はコバルト色、透明度は38〜50メートル。波はいつも静かで、波高2メートル以上になることは稀。沿岸で獲れる魚は116種類、このほか、多くの種類の貝が生息している」とある。

 透明度とは、海や湖の水の透明さを表す値だがそれは、直径30センチほどの白色円板を水中に沈め、見えなくなる深さで示される。案内書の記述が、ハッタリでないなら、モンテネグロの海は「限りなく透明に近いブルー」ということになる。


≪ 「天皇」と黄色い花 ≫

 戦火につつまれたここ数年、ユーゴにはほとんど日本人の観光客は訪れない。だが、この国がまだ平和だった頃、今の天皇が皇太子の時代にモンテネグロのこの地を訪れたことを知った。

 それがわかったのは、一輪の黄色い花がきっかけだった。オリーブの木々の間に、黄金色の蝶のような形の花を咲かせる木が群生していた。高さ1.5メートルほどで、茎は深緑色をしている。海岸に向かって段々畑のように緑と黄色のモザイク模様が幾重にも連なり、コバルト色の海に映えている。

「この花の木は、何という名前ですか」

 私は同行の通訳、山崎ひろしさんに聞いた。山崎さんはセルビア在住20年、お父さんはユーゴ人、お母さんは日本人で、ベオグラード大学で日本学を教えている。

「アッ。この花ですか。英語では、Scottish Broom、日本語ではエニシダです」。間髪を入れずとはこのこと、即答されて、びっくりした。どこの国でも共通しているのだが、海外での旅先で花や木の名前を男性の案内人に聞いて、満足な答が得られたためしがなかったからだ。

「普通なら、私だって知りませんよ」。山崎さんが、苦笑しつつ種明かししてくれた。

「この黄色の花。いまの天皇が皇太子の時代、この道の同じ場所を散策し“この花の名前は何か”と質問されたそうです。この国の外務省の人もお付きの日本大使館の人も、答えられなかったと、ベオグラードの日本人の間で、結構話題になったことがあるんです」と。

 その後ユーゴで勃発した戦乱の後遺症で、私の出かけた2001年5月の時点ではモンテネグロの海岸まで足を延ばす日本人はまずいない、とのことだった。だが、欧州人やアメリカ人は、イタリア経由で大勢やってきていた。

 ヴドバの町とその北にあるフィヨルドの入江、コトラには、1泊5ドルの大衆向け民宿から、数百ドルの超豪華なホテルや貸別荘が並んでいる。夏のシーズンの3カ月で1年分の収入を稼いでしまうとのことだ。それでもアドリア海の対岸にあるイタリアの観光地に比べれば、はるかに安くて、海も美しいので、ヨーロッパのリゾートの穴場である。

 コトラの入江の水深12メートルの海に小さな人工島がある。ここに1754年に建設された聖母教会を舟で訪ねた。200年かかって島を造り、100年かかって建物を作ったという。カトリックではなく正教(東方教会)だった。船乗りの守り神で、さしずめ正教の金比羅さんといったところか。「入江のほとりには、南スラブ人としては初の航海学校が設立され、200隻の帆船隊をもっていた」。堂守りの老人の話だ。

 この学校は、モンテネグロ大学海洋学部の前身だ。海洋学部に立ち寄ってみた。

「モンテネグロ人の船乗りとしての文化はこの入江に脈々と続いてます。でも悩みは本学部に練習船がないこと。10年にも及ぶ西側の経済封鎖で、維持費がまかなえず廃船になってしまった」。学部長氏の嘆きだが、海の美しさだけは、昔も今も変わらない。

「19世紀の初頭、ゲーテはこのあたりを旅行してます。“イタリア紀行”に、イタリア側ではなくモンテネグロから見たアドリア海の方が、はるかに美しい。神は不公平だ??という意味の一節があります」。山崎さんの解説である。


≪ ブヤノビッチ首相会見記 ≫

 この日(2001年5月19日)山崎さんの通訳でこの国のフィリツプ・ブヤノビッチ首相と会見した。首相はこう言った。「1918年までモンテネグロは独立国だった。この10年、旧ユーゴの共和国は相次いで独立していったが、われわれは、セルビアと連邦を組んでいる。これを新ユーゴと言うのだが、このシステムは、モンテネグロにとっては対等の共和国とは言い難い。セルビアはモンテネグロの16倍の国土をもち、人口も15倍ある。あらゆる経済指標からみても、この2つの国は、1つの連邦の中で、対等に共生することはどだい無理なんだ。私の願望は、独立であり、国民の多くはこれを支持している。モンテネグロには天然資源がある。海と山の観光で大きく外貨を稼ぐこともできる。造船、港湾、海上交通など、山の向こうのセルビアではなくてアドリア海に将来の発展の可能性を画くべきなのだ。われわれが独立すれば、“解体ユーゴスラビア”の全プロセスは終了するのだ」と。

 私がモンテネグロを訪れてから1年経つ、そして2002年6月から「新ユーゴ連邦」は消滅し、「セルビア&モンテネグロ共和国連合」となる。そして独立派の旗頭であるこの首相の願望がいま一歩、一歩、現実のものとなりつつある。

 話をもう一度、1年前に戻す。私と山崎さんは、首相との会見の後、セルビア・モンテネグロの「離婚の構図」と、バルカンのゲオ・ポリティーク(地政学)について一晩じっくりと語り合った。以下は当時の問答だ。

??セルビアは、海のない国になる。モンテネグロと離婚すればね。いずれ、離婚でしょ。

「正式に、独立を宣言するかどうかは別として、モンテネグロは、セルビアから、心が離れていることはまぎれもない事実だ。アドリア海で、連邦軍(セルビア軍)が、イタリアの密輸船を捕獲したら、船にモンテネグロの警察官が乗って、入港の手引きをしていたなんていう話もある。モンテネグロの予算の3分の2は、外国の援助で成り立っている。セルビアより、外国の受けははるかによいのだ」

??セルビアは、バルカン半島の憎まれっ子なのか。

「ミロシェヴイッチの時代は確実にそうだったといえる。バルカン半島は、異なる文明の東西、南北への通路だった。バルカンの中央に位置するセルビアは強国であり、時には東西、南北の隣国を制覇し、時には高速道路の真ん中に建てられた不法建築の家みたいに、まわりの国から嫌われ、邪魔物扱いされる。そのフィナーレが、NATOの空爆と、西欧によるミロシェヴイッチの戦犯裁判だ」

 バルカン半島中央部の旧ユーゴを旅行して悟ったこと。内陸部は山と渓谷で幾つもの地域に分れている。同根同種の南スラブ人の移住者たちも、そこに定住すると互いに世現的に独立し、かつて同じ文化に属した民族も、何世紀もの別居で気風が異なり互いに異邦人化していた。対ナチス、対スターリンの政治的事情で、「大ユーゴスラビア」の旗のもとに、いったんは結束したものの、国際政治の大状況が変化すれば、もともと6つの共和国はバラバラになる運命にあった。それがいま進行中の「解体ユーゴスラビア」の地政学原論である。
 



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