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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 私の「南太平洋学」  
コラム名: 文化問答“ヘソ曲がり人”の旅日記  
出版物名: 月刊ぺるそーな  
出版社名: マキコデザイン株式会社  
発行日: 2002/05  
※この記事は、著者とマキコデザインの許諾を得て転載したものです。
マキコデザインに無断で複製、翻案、送信、頒布するなどマキコデザインの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私はさほど若くないので、南太平洋と聞くと、すぐ昔の「南洋」を連想してしまう。酒席の歌に「私のLoverさん、酋長の娘、色は黒いが南洋じゃ美人」というのがあった。この歌は、現在のマーシャル群島共和国が舞台で、第一次大戦後、戦勝国であった日本が、元ドイツ領を信託統治したころの流行歌だ。私が小学校時代の南洋のマンガ、「冒険ダン吉」は、そのお隣のいまのミクロネシア共和国のトラック諸島がモデルであった。しかし、世界地図で見る南太平洋は、こうした戦前、戦中の日本がおなじみの「南洋」よりもはるかに広い。ヨーロッパ人の学者の分類によれば、ポリネシア(多くの島々)、ミクロネシア(小さな島々)、メラネシア(黒い島々)の3つの文化圏に分れ、22もの国家がある。だから、「色は黒いが南洋じゃ美人」といっても、文化圏が異なると、美人のタイプもそれぞれ異なってくる。言語も人種も多様、あるいは火山島、隆起サンゴ島、環礁と地質の組成も多様な島々なのだ。

 だが、いくつあるのか定説のない「南太平洋」(南半球の太平洋諸島という意味ではなく、日本の南域の太平洋に浮かぶ島々をさす)の無数の島々にも、いくつかの共通性がある。強い太陽、青い海は言うに及ばずだが、16、7世紀の大航海時代、ヨーロッパ文明が到来、新石器時代の生活水準だった部族共同体に、突如として西洋の物質的豊かさがもたらされ、精神文化としてのキリスト教が急速に浸透してしまったことだ。南太平洋のどの島をとっても、おしなべてそういえる。

 いわば、西洋による南太平洋の文化的占領である。私は都内のある大学院で、週1回、比較文化論の講座をもっている。過日、以上のような問題意識のもとに、十数人の学生とともに、私の旅の随筆「ポンペイ島で思ったこと」を素材に「南太平洋学」の演習をやった。今回の文化問答の読み物として、私の旅日記の抜粋と、それをめぐる討論をここに再録する。


〔討論の素材・ポンペイ島で思ったこと〕

≪ アイルランドの入墨男とヘーゼル神父 ≫

 ミクロネシア連邦の首都の所在地ポンペイ島は、火山島だった。切り立った山々が、天に延びて、その頂きは雲にかくれて見えない。山の険しい斜面は、濃い緑の雨林に覆われ、その割れ目には、急流や滝がいくつもあり、激しく落下している。ここは、南洋によくある島々のように、平らではないし、砂浜も見当たらない。海に切り立つ断崖から、斜めにのびる椰子の木がなかったら、どこか北国の深山が海中から、にわかに出現したのではないか??そんな錯覚に陥る南太平洋の島であった。

 実はこの光景は、この島からの帰路、飛行機から見たもので、往路は夜間飛行だった。この島に着いたのは、夜中で島の輪郭も定かではなかった。この島へやってきたのは、米領のグアム島からであった。2001年12月3日午前零時10分MIKE(コンチネンタル・ミクロネシア航空)は、トラック島経由で空港のあるソーケンズ島に着いた。そのころから暗闇の中を、橋らしいものを渡って、ポンペイ島の繁華街といわれるコロニア(ここも真暗闇)を通り抜け、予約しておいたVillarge Hotelに入った。

 たまたま部屋が、一時停電であった。星が明るい。南十字星はないが、シリウスや北斗七星は見える。あたりのシルエットは、暗闇の中で色がない。白黒TVのようだ。目をこらして見ると、ベッドを白い蚊帳が覆っていた。「Geckoよけにもなるので、Mosquito Netがついている」。遅い到着を迎えてくれたホテルのフロントがそう言っていた。「Mosquito Net?」一瞬、何かと思ったが、何のことはない。考えてみれば蚊帳である。電灯に光が戻ったら、天井にGecko(守宮・やもり)が、張り付いていた。

 風はそよとも吹かない。部屋には冷房がない。蚊帳の中の空気が重く感ずる。気温は27度、それほどではないのだが、湿気がすごい。おそらく湿度は90%はある。眠れぬままに旅行案内書、『ミクロネシア・ハンドブック』を開く。「ホノルルとマニラの中間にあり。19×23キロの島なり。海から熱帯雨林が急勾配を上がり、“大山”(標高727メートル)と“巨人の歯の山”に至る。ポンペイ島は、世界有数の湿気の多いところ。山の雨量は年間で約1万ミリ」とあった。

 1年に1万ミリ雨が降るということは、降り積もった雨を、筒に入れて貯めたら、高さ10メートルもの水柱が立つ。琵琶湖の半分ほどの小島なのだが、緑がよく育つわけだ。翌朝、このレストランの中で一番、風通しがよいからと勧められたテラスのテーブルで、1人で納得した。

 朝食メニューに「Romen with egg」とある。お値段は3ドル50セント、早速、それを頼んだら、目玉焼の片目と、ニンジンとピーマンの千切り入りの、カップラーメンが出てきたのにはびっくり。ラーメンの熱気を体内に摂取したせいか朝からやたら蒸し暑い。ホテルの飼い犬が、ぐったりと私の足元で寝そべっている。

「どうしてそんなに蒸し暑いのか? ですって。それは、赤道に沿って西から東に吹く貿易風が、このあたりの上空に来ると死んでしまうからだよ。そこが、同じ太平洋の熱帯の島でも、さわやかで過ごしやすいハワイとは違うところさ」

 この島のイエズス会のフランシス・へーゼル神父がそう教えてくれた。私が、わざわざポンペイにやってきたわけは、この人に会うためだった。

 へーゼル神父は、61歳、米国のボルティモアの神学校を出て布教のために島に住み25年経つ。島の名士でもある。この島に最初に住んだ白人は、アイルランド人の船乗りジェイムス・オコンネルという男だったという。1830年、彼の船が難破、イカダでこの島にたどり着いた。当時、この島の文明は、“新石器時代”のそれであり、島民は人食い人種であったという。オコンネルは、危うく食べられそうになったが、アイリッシュ・ジグという滑稽な踊りを披露し島民の関心を集めることに成功、難を逃がれた。その代わり若い娘たちに身体中に入れ墨をほどこされる儀式の実験台にされたが、苦痛に耐えた。これが酋長のお眼鏡にかない、彼の娘と結婚したとのこと。私が持参した英語の旅行案内書、『地球1人歩き』の「MICORNESIA編」から仕入れた「アイルランドの入れ墨男」の伝説だ。

 この話、船乗りのホラではないかと思ったが、「彼がポンペイ社会を詳細に記録、簡単なポンペイ語・英語辞典を作ったのは事実だ」。へーゼル神父はそういう。後刻、気がついたのだが、この旅行案内書の表紙は、私が、カップヌードルの朝食をとった前出の“ポンペイで最も涼しい場所”のカラー写真だった。そしてこの本の第1ページの著者の前書きの冒頭には、なんと「本書作成にあたりFrancis X Hezelに、特別の謝意を表す」と書かれていたではないか。


≪ 「この次は、何人になればいいんだい?」 ≫

「とにかく働きませんよ。ミクロネシア人は…。アメリカ人がスポイル(甘やかす)しているから」。これは、ホテルのレストランで知り合ったハワイ在住の日系米人三世の環境学者のポンペイ人批判だ。私もそう思う。やる気がなさそうに見える。

「そのくせ、この島の男たちは政治好きなんだ。狭い島はどこでもそうだけどね。酒を飲んで好んで寄り合いをやる。その時、候補者はいろいろ約束する。当選したら、お返しする。だからいつも汚職だらけ。知事のLmpeachment(弾劾裁判)が、いつも新聞記事になる」とヘイゼル神父。この島に「近代」がやってきたのは、19世紀の中葉だ。それまでは、酋長をリーダーとする首長制社会だった。しかし、それなりに平和があり、幸せがあり、そして彼らが誇り得る文化があった。

 それが1886年のスペイン統治にはじまり、ドイツ、日本、そして1945年から米国の信託統治ののち、86年ミクロネシア連邦の1つの州として独立した。独立したもののミクロネシア連邦の財政は、米国に大きく依存している。米国は「自由のための提携契約」で、年間6100万ドルの贈与と1300万ドルの貸付を今後15年間続けることを保証した。この島は何で食べているのか。第1は政府の役人の収入、第2は政府の公共事業。この2つは、元をただせばアメリカのカネだ。第3はハワイやアメリカ本土に出稼ぎに行った人の送金。そして第4が、観光とわずかな農漁業だ。

 米国丸抱えの経済から卒業する見込みはなく、島の将来像も全く見えてこない。島の知識人たちは、ミクロネシア人とはいったい何なのか。ポンペイ人である自分とは何かをめぐって、主体としての存在の危機(Identity Crisis)に陥っている。この島でジョークを聞いた。

「昔はスペイン人になるように、ドイツ人になるように、そのあと日本人になるように、そして今では、アメリカ人になるように…。この次は、いったい何人になればいいんだ」

 植民地支配、島の文化の破壊のあと、いまだに続く、島のもつ個性と、近代化とのミスマッチングをついた怖いジョークである。

 ポンペイ島滞在の2日目、ナンマドールの巨石文化の壮大な遺跡に出かけることにした。この島で最も涼しいといわれる岬の先端にあるわれわれ一行の宿泊先Village Hotelとは反対側の島の南に浮かぶ人工島である。船外エンジン付きのボートで、遺跡を目指す。同行者は、この島で25年も布教活動を続けるフランシス・へーゼル神父らだ。

≪ 岩はどこから運ばれた? ≫

 ほとんど静水に近いラグーンの内海を行く。やがて人気のない人工の島々が見えてくる。島そのものが、巨石建造物であり、島と島の間を道路のように幾筋もの海面がつないでいた。碁盤の目のように見える町並み、いや“島並み”もある。ポンペイ州観光局のくれたガイドマップを開いたら、こんな奇妙な人工の島が92もある。海底は浅く、水路は狭い。ボートは、ゆっくりと進む。

 この奇妙な島。というか、建造物の構造がはっきりと見えてきた。黒っぽい五角、もしくは六角の玄武岩の太い柱を深さ約1メートルの珊瑚の化石の海底から、井ゲタに組んで水面から1〜2メートルの高さまで積み上げてある。それが島の外壁なのだ。外囲いの中には、砕いた珊瑚を敷き詰めて、平らにしてある。こうして建設した島々は大きいものは100メートル四方はある。それぞれの巨石の柱が、よほど精密に組み合わせてあるのだろう。何世紀にもわたる嵐や海水による被害を受けた形跡がほとんどない。

 それにひきかえ、完成後数年で早くも大地盤沈下の始まった人工島、関西空港は何たるざまか??。ナンマドールで、それを考えたのである。

「Mr. Utagawa.この玄武岩の柱は長さ8メートル、重さは2トンはある。どうやって運んできたと思うか」。へーゼル神父に声をかけられ、「ナンマドール」と「関空」の“施工者”のどちらが賢いのか較量は中断した。

「アルキメデスの原理さ。ヤップ島の大石貨、知ってるだろう。あの原料はパラオ島だ。ヤップの住民は、巨石をロープで海中にぶら下げ、イカダで運んだ。それと同じさ」。とっさに私はそう答えた。

 この摩可不思議な人工島の建設が始まったのは、AD500年頃だという。ポンペイ島には岩肌が角柱の形状で露出している豊富な玄武岩があり、わざわざ柱状に削る必要はなかった。謎はあの当時、どうやってそれを輸送したか??なのだ。へーゼル神父は言う。

「私も1度はそう考えた。でも、このあたりのラグーンの水深は、1メートルから2メートルしかないよ。ロープで海中に吊るすのは無理だ。そんなに重い石を直接カヌーに乗せたら、確実に沈んでしまうしね」

「では、どうやって運んだのか」。

「実は私にもわからない。伝承では、岩はマジック・パワーで空を飛んだことになっているが……」。


≪ バタバタ死んだ免疫のない島の住民 ≫

 考古学チームの放射線炭素の分析によると、ナンマドールの石の島は、6世紀から16世紀まで約1000年かけて建造されたものだという。何のためなのか、今もってそれがはっきりしない。ヨーロッパ人がこの島にやって来たとき、ナンマドールには人間は1人もいなかった。

 この島の最初のヨーロッパ人は前号でも紹介した1830年にここに漂着したアイルランド人の船乗り、オコンネルだ。

 へーゼル神父の話では、彼は、この薄気味悪く棄てられた遺跡に足を踏み入れ、「途方もなく素晴しい」と思った反面、恐ろしくて震えが止まらなかった??と回想しているという。

 何のために建てられ、そして誰もいなくなったのか。その夜、宿舎のHotel the Village「レストラン・入れ墨のアイルランド男」で、この話題を酒のサカナにしたのである。

 ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見以来、ヨーロッパ人が南の島々にやってきて、その多くを征服した。「Gun, Germs & Steel」という文化人類学者の著書を読むと先住民の持っていた文化破壊は「銃と細菌」によって行われたとある。ヨーロッパ人は天然痘やハンセン病をもってきたが、島の住民たちは免疫が全くなく、バタバタと死んでいった。ポンペイ島の人口は、1820年には1万5000人だったが、55年には3分の1の5000人に減った。

「だけど、ナンマドールが無人化したのは、それより100年以上も前らしいから、遺跡に関しては、ヨーロッパ人はアリバイが成立する」

「その通り。ヨーロッパ人は犯人ではない。そんなことより何のためにナンマドールの人工島が建設されたのか、それさえ詳しいことはわかっていない」。へーゼル神父は言う。観光案内書によると、92の島々には、それぞれ王の住居、儀式の島、聖職者の墓、来客用のゲスト、召使の住居、海からの外敵を防ぐ要塞など異なる目的で建造されていたとある。

 王とその家来だけが常住し、民衆はカヌーでここに通っていたともいう。

 総面積は、1200メートル×600メートル、面積70ヘクタールの謎の巨大な埋立てプロジェクトだ。

「崇りが恐ろしい。だから島の人間はここには足を踏み入れない」。マングローブ蟹の大皿を運んできたポンペイ人のウエイトレスがそう言った。ポンペイがドイツの支配下にあった1907年、ドイツの総督がナンマドールの墓の1つを発掘した。ところがこの総督は遺跡から戻った直後、変死した。病名は「日射病」という公式発表があった。だが、誰一人それを信じる島民はいなかったという。


〔文化問答・南洋問題演習〕
 
 以上、私の旅日記を読んで、ぺるそーな読者の皆さんは、何を感じとっていただけたろうか。ゼミの学生からは、5つのテーマが提出された。いづれも文化人類学の基本問題で、ディスカッションでその答を作ってみたのである。

 設問1 なぜ16世紀のヨーロッパは、ごく短期間(100〜200年)の間に、太平洋の島々の大部分を完全に征服することができたのか?

 答 直接の原因について、興味深く分析しているのは、私の旅日記の文中に紹介した文化人類学者ジャレッド・ダイアモンドの本、「銃・病原菌・鉄」だ。彼は、16世紀以降ヨーロッパ人が、他の民族を大量に殺したり征服することができたのは、本の題名にある3つの物質を独占的に保有していたからだといっている。

 設問2 銃や鋼の剣のような武器が、優れていたことはよくわかる。だがどうして「病原菌」なのか?

 答 当時のヨーロッパ、南太平洋よりもはるかに高度な、農・畜産文明をもっていた。そして家畜の“死の贈り物“ともいえる多くの病原菌をもっていた。天然痘、インフルエンザ、結核、ペスト、ハシカetc。そんな病気は南太平洋にはなかったので、住民は免疫がなかった。すでに免疫をもっていたヨーロッパ人が大勢やってきた。彼らは発病はしていないものの“意図せざる”病原菌の伝播者となった。かくして先住民はバタバタと死んでいった。銃や剣で殺された先住民の数十倍から100倍の人々が病気で死んでいったといわれる。

 設問3 どうして、ヨーロッパが南洋に進出したころ、先住民の生活は、新石器時代のそれだったのか。

 答 この問題は、農耕社会の発生が重要な鍵を握っている。農耕によって食糧生産力が飛躍的に増大する。余剰食糧が蓄積される。社会は非生産階級の専門職を養うゆとりを生み出し技術進歩がもたらされた。余剰食糧の管理や記録の必要から文字が発生する。そしてやがて、都市が発生する。ヨーロッパやアジア大陸の文明がこのパターンである。だが、南太平洋には、そのような機会がなかった。

 設問4 それはどうしてなのか。

 答 環境の違いである。ユーラシア大陸や、中国大陸はほぼ温暖で農耕に適している。それだけでなく、陸続きの平野が、ヨーロッパでは東西に、中国では南北に続き、食糧生産のノウ・ハウが伝播しやすかった。島の点在する南太平洋では、そのような地理的条件がなかった。

 設問5 南太平洋で、なぜキリスト教が急速に広まり、短期間に住民のほとんどを信者にしてしまったのか。

 答 ヨーロッパも、アジア大陸も、インド亜大陸も、紀元前1000年頃の人々の精神世界は、南太平洋と同じように部族と血縁に基盤を置く、アニミズム(自然の中の霊魂信仰)だった。しかし大陸に血縁と古代宗教を超える普遍的宗教が発生した。これらの宗教は抽象的な宇宙原理(ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教)をもつか、唯一の創造神(キリスト教、イスラム)をもち、神話の束縛から脱した。ヨーロッパが、キリスト教をたずさえて、南の島々に入った頃、先住民はアニミズムにもとづく、タブーの共同体に、不自由さを感じていた。「銃と剣」と「銀貨しによる強引な布教活動があったのは、まぎれもない事実だ。しかし武力とカネだけでは人の心は獲得できない。土着の宗教のタブーや霊魂よりも、世界最大の小説「バイブル」の方が、多分説得力があったのだろう。
 



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