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異文化の理解は可能にしなければならないことだし、また長い年月をかければ可能になることが多いが、日本人は話し合えば今すぐにでもわかり合えると思うところに、実はもっとも根強い問題の根源がある。
今年4月のやや古い英字新聞で読んだ話だが、カナダのケベックに12歳になるグルバジ・シンというシーク教の男の子がいた。シーク教というのは、インドのパンジャブ地方を中心に、イスラムの影響を受け、ナーナクという開祖によってできた宗教だという。ヒンドゥ教の偶像崇拝、階級制度もはっきりと否定し、外国人は「ターバンを巻いた髭もじゃのインド人」と感じている。法曹関係者も多いが、軍人やガードマンなど武を基本とする職業についている人が大多数である。
そういう背景もあって、問題になったのは、このグルバジ少年が、シークの儀式用武器として毎日学校にも携行していた刃渡り20センチのキルパンと呼ばれる短刀である。美しい鞘に入った短刀は先が少し跳ね上がった形で、まことに鋭利である。
1990年代には、少なくともその地方ではシークの学生や教授がキルパンを持つ権利を認めていた。しかし現在、生徒の暴力的な事故を防ぐため、他の学校ではシークの生徒たちにも本物のキルパンではなく、象徴的なキルパンのペンダントか、プラスチック製のキルパンを持たせることで納得させていた。しかしグルバジの両親は、彼らの信仰から代用品は受け入れられない、と言い張ったのである。
一家の弁護士によると、どの社会にも、信仰に対して他人よりオーソドックスな態度を取り続ける人というものは必ずいるもので、1つの学校がグルバジの宗教上の習慣を拒否するのは、善悪の概念と信仰の自由を否定するものだ、と言っている。
一方学校側は、そうした「武器」を携行するのは、他の生徒が安全な学校環境の中で学ぶ権利を奪うものだ、という立場を取っている。するとグルバジの弁護士は、なぜ学校がこの短刀だけを危険視するのか。そんなことを言うなら、学校で使うコンパスでだって他人を刺すこともできる、と反論している。
グルバジの両親は、息子がキルパンを布に巻き、衣服の下に隠して見えないようにするという点までは受け入れるが、象徴的な代用品は承認できない、と語っている。
この裁判沙汰にまでなった問題の決着を私は読み過ごしてしまって知らないのだが、シークだけでなく、今でも世界では、自分や、自分の部族や、自分の国家は自分で守るということが常識になっている。それが常識でないところに、瀋陽の日本総領事館の敷地内に中国人警察官が入っても平然として見ている非常識を、世界に晒すことになったのである。
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