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2002年2月28日〜3月3日
三戸浜の海の家で暮らす。空豆の莢がずいぶん大きくなった。プロテアの花の赤い花びらの色もはっきり見えて来た。
今年は春が見られる、と私が喜んでいるのは、一番花の見事な季節に、毎年必ず身障者の方たちとイスラエルに出かけていて、これで19年も花を見たことのない木もあるからだ。毎年「来年こそは日本にいるぞ」と密かに決心するが、なかなかそうならない。
東京からお客さま2組。
3月5日
9時半から、日本財団で9月に行う予定のシエラレオーネ、中央アフリカ、パキスタン行きの日程を旅行社と協議。なあに、どうせそのうちにまた飛行機のスケジュールが突然なくなるか変わるかするだろうとは思うのだが、一応旅程を立てないことには、仕事が前進しない。驚いたことにはパキスタンのカラチヘは、もうロンドンから直行便が飛んでいなかった。パリからエールフランスに乗ることになる。旧宗主国との繋がりなどとっくに消えているのだ。
10時、執行理事会。
11時半、防衛大学校、西原正校長他、卒業式の打ち合わせ。ものものしくて、少しびっくり。
11時、シンガポールからロザリー・ショー医師。日本財団主催のホスピス・ナースたちの会議に講師として来てくださったので、いっしょに財団の食堂で食事。財団はホスピス・ナースの特別講習を半年の期間を決めて受けて頂く手伝いをしている。もう既に卒業生は450名。そうした方たちが、清瀬で受講する間、気持ちよく安く住めるマンションも国立に2億円で買った。その前は、仕事を休んで来てくださったベテランの看護婦さんたちが、けっこう高い下宿代を払って住居を見つけなければならなかったのである。
午後1時から3時、海上保安庁で第2回政策評価懇談会。非常にためになる問題をたくさん認識させられた。たとえば、ほんの数人で灯台を守っている離れ小島に、数人の武装集団が上陸して住民を人質に占拠したらどうなるか。人口数千の島でも、そこに住むのは高齢者ばかりだった場合、国籍不明の侵入者が占拠するのはいとも簡単なことである。12カイリ公海や200カイリ排他的経済水域の規約があれば、こうした離島の占有ははっきりした意味を有することになる。或いはハイジャックされた数十万トンタンカーが、東京湾で指示された目的地に向けて突っ込むことを強制されたらどうなるか。
日本海に面した海岸線に或る日いっせいに数百、数千の難民を載せたボートが押し寄せたら、日本人はどうするつもりなのか、ということは、いつか書いたことがあるのだが、今はむしろ危険性が増した状況だという。かねがね人道をうたい文句にして来た人たちが多い日本なのだから、その精神を貫けば、数千、数万、数十万のボートピープルにも入国を許し、生活を認めなければならないだろう。そうすれば住宅、学校の建設、水道の使用量の増加、医療費の増額などに対して手当てをし、当然地方自治体も国もそれに備えなければならない。それは納税者が、その人たちのために金を出す、ということだ。しかしただ増税だけに耐えるのでは充分でない。大勢の難民の流人は必ず、失業、犯罪、麻薬、売春を伴うものだ、と常識で言われている。
もっと恐ろしい話。湘南の海岸でヨットを楽しむ人が或る日突然、白昼傍に近寄って来た1隻のボートから乗り移った男たちにシージャックされ、そのまま身柄をどこかへ拉致されることがないと言い切れるか。ヨットは穏やかに走り、中で犯罪が行われていても、海の上では誰も察知しようがない。こうしてヨット自体も、その本来の所有者も消える、ということになる。こういう危険性に関して、日本人はまるで子供のように無防備である。
午後3時半、財団に帰る。産経新聞社、「第三文明」編集部、駐ヴァチカン日本大使・中村實宏氏など来訪。
3月9日〜10日
従兄の大和正道氏夫妻と、湯河原へ行く。
昔我々の祖母がよくこの奥湯河原に避暑に来ていた。朝日の射す座敷の和卓に、子供の私は朝飯の時ちょこんと正座して、鯵の干物を食べさせてもらった。あの味は忘れられない。
正道氏は腎臓の人工透析を受けていて、最近少し体調が悪いと言い、昔風に奥さんをこき使う。今にも死にそうなことを言っているくせに、頭は明晰、口は悪い。それに対して面と向かってはむかうことができるのは、他人では私だけ。
朱門が運転して途中海老名のパーキングエリアに着くと、その辺を歩いてみたいと言う。「そうなさい、そうなさい」と奥さんと両腕をがっと掴んで情容赦なく歩かせるのは、毎年、障害者との巡礼でこういうトレーニングに馴れているからである。若者たちの人波を歩いているうちにお腹が空いて来たらしく大きな中華饅頭(1個300円)を食べたい、という。全く「年寄りは町に出よ」である。
箱根経由順調に奥湯河原の天野屋に着いた。朱門と私は町を散歩。温泉中毒の正道氏はすぐお風呂。
この人は湯浸かり人生である。夕食には特注の鮑の塩蒸しと海老の鬼殻焼きを召し上がった。私はこんなものどこがおいしいの? と白々しい目付き。私はイワシや鯖の方が好き。
翌朝は、出発前に名物の黍餅を買いに寄った。箱根に廻り、宮の下の富士屋ホテル前の骨董屋さん街を歩く。家でよろよろしていた人が、好きな骨董は見ると言う。ホテルの食堂まで結局200メートルは歩いた。人間、リハビリルームなどでは、おもしろくないから運動しないのだ。足腰不自由な人は旅行に出るのが一番いい。おかしなコギャル、おいしい「餌」、生の証を感じさせるような景色に釣られて、歩いてしまう。どうせ一度は死ぬのだからびくびくしないで旅行すべし、と改めて思う。
3月12日
日曜日の夜、東京の家から、千葉県まで大和夫妻を送って行った藤野さんが、「大和さんは『これから2、3年旅行するんだ』って言っておられました」と報告。私は「あれ? もうすぐ死ぬ予定じゃなかったの?」と相手もいないのに、また皮肉。旅行ではないけれど、三戸浜の我が家で週末を過ごす約束もしてある。鮑の塩蒸し、さざえの壼焼き、海老の鬼殻焼き、何でも私が作りますからね、と安請け合いしてある。
いつもの通り、執行理事会、電光掲示板原稿選定ミーティング。「FORE」誌のインタビュー。
その後首都移転反対のヴィデオ撮り。石原慎太郎さんから要請があった企画。私の論旨は、「こんなにお金がない時にやるもんじゃありませんよ」の一言に尽きる。しかしわずか2、3分のヴィデオを撮るのに14人のスタッフが現れた。私だったら(ということはわずか100人たらずの職員しかいない財団だから眼も届き易いのだが)こういう会社とは提携しない。制作費が高くついているに決まっている。まあ、入札制で業者を決めたなら仕方がないが。
夜、三浦朱門と国立劇場で『冬桜』『秋のかっぱ』を見る。『秋のかっぱ』は新作。なかなかおもしろい。最近風の顔のかっぱも観客に受けている。
3月13日
北京大学の関係者から、北京で講演をすることができるか、という打診。
「自由に喋ってよろしいのでしたら」と答える。
昼から松下政経塾の理事・評議員会。
夕方、海外邦人宣教者活動援助後援会の懸案事項について打ち合わせ。
3月14日
1日、家の中のゴミ捨てと執筆。
3月15日 庭の花がきれい、と言って1日葺らす。夫には、私がどうしてこんなに花を見て喜んでいるのかわからないらしい。
夕方、ホテルオークラでローマから来られたピタウ大司教に久しぶりでお会いする。新しくできる財団の発足準備のため。
3月16日
10時の新幹線で京都へ。来年の今日開かれる「世界水フォーラム」の準備的な講濱会だという。国立京都国際会館周辺の春の気配のきれいさに、また京都に遊びに来ることを決意した。
3月17日、18日
家で執筆。指圧も受ける。体中にこりがある。私は小心だから、こりを作って防御しているのだ。いやな性格だ。
3月19日
10時、日本財団で執行理事会。
1時、新たに短いエッセイの連載を始める「Forbes」誌と、事務的な打ち合わせ。国際的な視点に立ったものというお約束。しかしどうせ私のことだから、低級なばか話しか書けない。
昔、聖心という学校で「国際的になるということは、その国の人としてみごとな人になることだ。(To be international, be national.)と教わった。英語が喋れるかどうかなどということではない。思想、ものごしに、その人が選んだ人生の筋が通っていれば国際人になれる。これは真理である。
当時、英語で授業を受ける国際部の生徒たちと私たち日本人の生徒たちが同じ講堂で集まる時、向こうは右足を引くバレリーナみたいなお辞儀(コーテシィ)をやり、私たちは日本風の最敬礼をさせられた。それを指導したのは、イギリス人、ドイツ人、スペイン人などのシスターたちであった。当時は、チューインガムを噛み噛み町を歩き、すぐダンスに行き、というアメリカかぶれが流行っていた時代だったが、私たちは食べながら歩くことも、両親同伴でないダンスパーティーに行くことも禁止されていた。世間に流されない、というのが、私たちの受けた教育の基本姿勢だったのだ。おかげで生き方がわかった。
夜は山王飯店で、日本財団の理事と評議員の懇親会。耳学問ができるありがたい機会。
3月20日
喉が悪いので肩が凝る。昔からの持病。
3月21日
聖心で同級だった片桐加寿子さんと前橋へ。群馬大学の教授でいらした矢吹貞人さんの終身助祭の叙階式(任命式)がカトリック前橋教会で行われるのである。
もう今となっては時効になった物語。
20年近く前、矢吹教授は私たちが始めたばかりの盲人のための聖地巡礼のボランティアに来てくださった。ローマの1日、私たちは夕方岡の上のベネディクト会で歌ミサに出席した。ベネディクト会は典礼を研究する修道会なので、今ではもう、あまり歌われることがなくなったグレゴリアンでラテン語のミサを唱えていた。私は眼の見えない人たちには、せめて音のごちそうをしたかったのである。
ミサはだからうんと時間がかかった。その日は日中は汗ばむほどの暑い日で、矢吹さんは軽快な半袖姿だった。しかしベネディクト会の石作りの巨大な暗い聖堂の中に1時間近く坐っているうちに、寒さはしんしんと身に染みるようになった。少なくとも、私は寒くて辛くなった。それでも私は長袖を着ている。しかし矢吹さんは半袖である。私は小さな声で矢吹さんに聞いた。
「先生、お寒くありませんか?」
「ええ、少し」
矢吹さんはきれいな答え方をされた。私は首を伸ばして右の方を見た。私の隣が矢吹さん、その隣に偶然、この片桐加寿子さんがいた。私は首を伸ばして、彼女に小声で言った。
「ねえ、カッコちゃん、寒いからくっつかない?」
この比類なく賢くユーモアのわかる友達は、たった一言で私の言葉の意味を察してくれた。そして私たち3人、片桐加寿子、矢吹貞人、と私は、祈禱台に並んだまま身を寄せ合った。実は片桐加寿子さんと私は目方においておっつかっつだった。だからサンドイッチの両側のパンに当たる2人は、矢吹さんというハムに対してかなり有効な暖房の目的を果たすだろう、と思われた。それから私は、矢吹さんに囁いた。
「先生、ごめんなさいね。若いお嬢さんでなくて……おばんたちで」
ミサの途中だというのに、私たち3人は慎みなくくつくつ笑った。
しかしこのことが、1つの転機になった。私は間もなく、矢吹さん夫妻がアメリカ滞在中に、1つの変化を迎えたことを語られた。矢吹さんは1人で日本に帰って来た。毎日、大学から、灯のない冷たい家に1人で帰る生活が続いた。
「十何年か先、娘たちが大人になった時、年老いた1人の司祭が誕生するかもしれません」
矢吹さんがそう書いてから20年近くが経った。
矢吹さんは「離婚」しなかった。神の前で誓った結婚は解消していない。だから独身を条件にする司祭にはなれなかった。しかしそのまま助祭になった。式の中で矢吹さん自身、その当時が人生でどん底だったと挨拶された。しかしおもしろいものだ。どん底からは、人はもう落ちられない。這い上がる他ないのだ。
神という方は最大の作家だ。メロドラマ顔まけの物語を作りながら、その悲しみも明るさも、軽いどころか、重く温かく、途方もない精緻な筋書きで人生を見せる。神さまは作家なんだなあ、と心の中で独言を言う。
式の途中、矢吹さんは教会の床にひれ伏して誓いを示す。これをプロストレーションと言うのだが、私たちは変な英語を覚えさせられていたものだ。
式後、片桐加寿子さんと私、すなわちサンドイッチのパン2枚のほうは、俗世の安逸を楽しむことにした。前橋まで来たのなら、伊香保温泉で1泊しようというのだ。温泉でも神は賛美できるのだ。
3月24日
昨日のうちに三戸浜の家に来て、今日は朝早く横須賀の防衛大学校の卒業式で来賓祝辞をするために行く。小泉総理、中谷防衛庁長官、綿貫衆議院議長も来られた。
自衛隊が、世間から冷たい眼で見られているうちは堕落のしようがなかった。しかしこれからは危険もある。449人の人生がこれから始まる。卒業式は英語でコメンスメントだから、すなわち業が終わるのではなく、むしろ今日から「始まる」のである。
午後、迎えの車に乗ってそのまま帰宅。車はプロテアの赤い花をたくさん積んでいた。
3月25日
午後、荒川下流工事事務所長の泊宏さんに荒川を見せて頂く。泊さんとは一昨年、いっしょに南米の調査旅行をした。その時のメンバーの他に、貴重なチャンスなので日本財団の海洋船舶部からも2人を勉強のために参加させてもらった。
私の子供の頃、私の両親は必ず荒川放水路と言っていた。しかし私は荒川には細いながらも元の流れがあって、放水路はそれを元に整備したものだ、と思っていたのだ。今回、荒川は全く地図の上で線を引いた人工の放水路だと知ってびっくりした。
明治40年と43年に、流域は大きな洪水に見舞われる。それをきっかけに19年間をかけて、河口から22キロの地点まで人工の川が開削された。荒川放水路の完成は昭和5年のことであった。
治水は政治の基本である。それなのに「自然を守れ」「川は自然のままがいい」などと、のほほんと言う人々がいる。既にこうした治水の機能によって生活を守られた上で勝手なことを言うのだ。甘えもいいところだろう。もし荒川の堤防が決壊すると、首都機能は麻痺する可能性が強いのである。 隅田川の方が川としては有名で情緒があるが、私は荒川放水路の地味な姿に深い魅力を覚えた。早めの桜も思いがけず見られて、帰りにはアサヒビール本社のレストランで、会費 制の夕食会。
3月26日
10時、財団で執行理事会。
午後、日本造船工業会会長、岡野利道氏他、メガフロートのその後について報告に来てくださった。羽田空港の延長工事には、私が「畳のお化け」と呼んでいるこの鋼鉄製の巨大な浮き畳を幾つも繋いで、浮かべればいいのである。飛行機の離着陸も問題ない。今までの実験では、この浮体の下は魚の魚礁になっている。ということは、堤防ではないから潮流を妨げていないということだ。浮体そのものは100年は保つ。万が一不都合が起きたら、撤去は簡単。
日本財団はこの事業の開発に83億円以上も研究費を出しながら、売り込みは一切しない。商業ベースで使われても、「あがり」を1円だってもらうわけではないのだが、開発に動いた人たちを考えると、実用化してほしい、と思う。
3月29日〜31日
三戸浜に大和正道氏が泊まりに来てくれることになった。
奥さんによると、あの湯河原以来、急に1人でひょこひょこ歩くようになって、透析の日に、病院の看護婦さんに「大和さん、何かあったの?」とどうしてこんなに急に食欲が出て、運動もできるようになったのか驚かれたという。だから私は今日、灰皿も運んであげない。自分で居間まで行って取っていらっしゃい、という冷たさだ。タバコ飲みたさにバランス取って歩くのも、リハビリですよ。
大和氏は夕方5時頃からお腹が空いてご飯を待っていられないらしく、1人で食堂に陣取る。焼きはまぐり、さざえの壼焼き、鮑の酒蒸し、しまあじと太刀魚の刺身、我が家で採れた空豆の初物、大根の煮つけなど、どれもかなり食べる。もっともこの家で食事をする人は誰でも2時間くらい食べていて、しかもお腹に入るのだから不思議だ。
大和氏、30日朝はパンを2枚。その朝、私が煮たばかりのまだあったかい苺ジャムも案外気にいる。苺ジャムは苺の値段を見て作る。4パック580円で買って来た不揃いな苺は真赤に熟れていて絶品だったのでおいしくできた。
神さまは物語作家でもあるが、実に素晴らしい医師でもあり、看護婦でもあり、時には調理人でもあるのだ。
31日は復活祭。
朱門と三浦海岸のカトリック教会へ。
今年も、主の十字架上の苦しみを真剣に考えることが少なかったように思う。
大和夫妻を送り出してから、私たちも東京へ向けて帰る。
時既に3月の終り。年度の終り。
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