共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 笹川 陽平  
記事タイトル: 義理と人情と親孝行  
コラム名: 特集 奮闘す!  
出版物名: MOKU  
出版社名: MOKU出版  
発行日: 2002/05  
※この記事は、著者とMOKU出版の許諾を得て転載したものです。
MOKU出版に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどMOKU出版の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = =

「人と人が付き合う中で大切なのは、いまの日本人に最も欠けてしまった義理と人情と親孝行なのです」独自の民間外交で国際機関や世界各国の人々から大きな信頼を勝ち得ている日本財団理事長の笹川陽平氏に聞く「日本人へのメッセージ」。

= = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = =


≪ 百の議論より1つの実行 ≫

〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜
 笹川陽平氏が理事長を務める日本財団は、地方公共団体が主催する競艇の収益金を財源として1962年に設立された世界有数の非営利組織である。国内外の社会福祉や自然保護のボランティアの支援事業、世界各国との友好促進、医療活動などの海外協力援助事業
に積極的に取り組み、活動範囲を拡大してきた。40年間に及ぶ海外協力援助で築いた国際ネットワークは、国連などの国際機関にも活用されている。
〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜

 世界地図の中心に赤く塗られた日本を見ると、われわれ日本人は、自分たちの国が世界の中心にあるような錯覚を起こすことがありますが、私は、世界のいろいろな方々と交わる中で、世界あっての日本だということをつくづく実感します。同時に、これからの世界は、どのようになるのかということより、まず、日本がどう動かなくてはならないかということを、考えていく必要があると思うのです。

 戦後60年近くが経ちましたが、これだけ長く戦争のない時代が続くということは、歴史的にも珍しい。われわれの生活は、右肩上がりの成長を続けてきましたが、憲法や教育などの基本的な問題の議論はされないまま、枝葉のところで対症療法を繰り返してきました。経済至上主義の中で、問題を先送りしながらうまく処理するという安易な生活の知恵のようなものが生まれ、問題が解決されることなく来るところまで来てしまった。いよいよこれではダメだという事態に陥っている。それが、いまの日本だと思います。

 みんなが国を憂い、民族を憂い、先行きを憂いていますが、100の議論より1つの実行です。「失われた10年」とよく言われますが、これは、だれの責任でもありません。日本をつくってきたわれわれ一人ひとりの責任なのです。

 みんなが嘆くように、日本がダメな国になったとは、私は思いませんが、あれだけ大変な戦争を体験したあと、長く平和を維持してきたのだから、命以外ならなにを犠牲にしてもいいと思えば、なんでもできるんじゃないか、という気がします。阪神・淡路大震災があったとき、全国から1万5000人もの若者がボランティアのために集まってくれた。あれだけの人たちが、なにか事があれば、駆けつけて手伝おうとしていることに、日本の未来が開かれたように感じたのは、私だけでしょうか。それを大事に掘り起こし、育てていかなければなりません。

 そこで、問題となるのは、日本人が拠って立つ歴史や文化、社会のさまざまなよき習慣を忘れ去ってしまっていることです。自分の国のことをわかっていないから、海外で「日本人はどういう民族なんですか?」と聞かれても答えられない。

 特に指導者は、自国の歴史を正しく理解し、教養としての哲学を身につけ、芸術文化についての知識をもつ必要があります。こうした3つの高い教養に支えられ、外国語で相手を説得する語学力を持ち合わせていなくては、世界で通用しません。私は、英語も哲学もわかりませんから、偉そうなことは言えませんが、自戒を込めて言うのです。

 日本には、「和の精神」というものがあって、強いものと弱いものが相互依存しあいながら棲み分けをしてきた社会でした。ところが、「強いものは生き残って、弱いものは消えていくのだ」といったアングロサクソン的な弱肉強食の考え方が、グローバルスタンダード(世界の規範)として置き換えられてしまい、そうしなければ日本の国が成り立たなくなるような錯覚に陥りつつあるのは実に残念なことだと思います。

 米国の価値観を無批判に受け入れるだけで、自国のよき伝統や独自の価値観を放棄して、どうしていいのかわからなくなって右往左往しているのが、いまの日本の姿です。これでは、まるで根無し草で、国際社会で尊敬されるはずはありません。

 どこの国でも、自分たちの国の歴史や文化や伝統というものに誇りと知識をもっています。中国には、「10年木を植える。100年人を育てる」という言葉がありますが、日本は、よき伝統や習慣を守ることより、生活を向上させることが先になってしまったのです。

新渡戸稲造の『武士道』のように、私は、指導者の根本は武士道にあったと思います。人の上に立つ指導者は、志をしっかりもち、それをまっとうする手段としてどう生きるかを考えることが大切です。

「閉塞感」という言葉がはやっていますが、自分はなんのためにこの世の中に生まれてきたのか、どうやって自分が描く人生を生きるのか、そうした考えや志は失ってはならないと思います。会社の中で社長になることがすべてというのではなくて、それを通じて自分は、社会あるいは国家のためにどれだけ貢献できるかを考える。大げさかもしれませんが、それを認識することが、非常に大切だと思います。


≪ 世界の国の数だけ常識はある ≫

 私は、これまで数多くの国の指導者ともお会いしました。そこで思うのは、指導者というものは、国家や国民のために身を挺して働く、そのためには不惜身命で、命を捨ててもいいという精神構造ができあがっていなかったら、なるべきではないということでした。

 武士道のようなものを身につけていると感じたのは、サッチャー元首相でした。大英帝国という歴史の重みをしっかり受け止め、強い意志と実行力で、揺るぎないリーダーシップを発揮していました。困難な局面にあっても、指導者自らが断固たる姿勢で進む道を示し、それを国民が受け入れなければ、指導者の座から降りるという厳しい覚悟で、国家のために身を捧げていました。

 それに比べると日本は、民族の誇りや歴史を背負っている指導者が少ない。国家の誇りが傷つけられることに対して鈍感です。中国、ロシア、朝鮮と地理的に隣同士の関係にありながら、海に囲まれているためか、感度が鈍くなっています。

 北朝鮮の日本人妻の一時帰国問題で、1997年6月、国交のない北朝鮮を訪ねた私は、500人に及ぶ日本人妻の一時帰国の話をまとめました。しかし、日本政府の対応は冷淡で、動き始めたのは平壌放送がこのことを放送してからで、結果的に里帰りが実現したのはわずか30人でした。

 私は、帰国直後、ペルーのフジモリ大統領が国賓として来日した際のパーティで、隣の席だった外務省の事務次官に「北朝鮮に行ってきましたよ」と日本人妻問題について話をした。ところが、「ああ、そうですか」でおしまいでした。会談の内容や交渉の経過すら聞こうとしなかった。外務官僚は、天皇の特命全権大使だった時代といまだに同じ感覚で、特権階級にあると思っているためか、プライドが非常に高い。そのプライドの高さは、本来、外国に対して発揮されるものであって、国民に対して表れると傲慢というかたちになります。

 もう1つ問題なのは、外交は、外務省の専売特許だと考えていることです。確かに、か
つてはそういう時代もありましたが、いまや民間のNGO(非政府組織)も活発に活動して大きな成果を上げています。日本財団もその1つです。ところが、外務官僚は、民間のすぐれた知恵やノウハウを認めようとしない。非常にもったいない話です。

 先の事務次官は、悪気はなかったのだと思いますが、情報に対しての感度が鈍いというのは致命的です。日本の国益を考えるのではなく、アメリカの意向に従っていればよいといったアメリカ追従型の外交が長く続いて、情報収集をする必要がなかったことの弊害ではないでしょうか?

 国家間の問題や歴史的認識というものは、コインの表と裏ですから、認識が一致することはまずありません。世界の国の数だけ常識はあるわけで、議論をするということは、意見が一致するということではないし、無理に一致させる必要もない。ただし、どういう点で食い違いがあるのかという相違点をお互いに見いだし、理解することはとても重要なことです。

 アメリカでは、教育の中にディベートの時間があります。論争を通して、自分の気持ちを相手に伝え、相手の気持ちを理解するという訓練を重ねていくことが、国際化には不可欠です。自分の意見をはっきり言えない人は、決して外国から信頼されず、理解されることはないからです。

 国と国の関係が良好なときに外交活動をやるのはだれだってできます。知恵を働かすことは、国の指導者にとって非常に重要な要素です。知恵とは、落としどころをどうもつかということ。外交は妥協です。それがないと、どんどん先鋭化する。国家と国家であれば、それこそ争いになってしまう。知恵を働かせて、きちんと落としどころをもつことができるような信頼関係や人間関係がなければ、国家間の問題解決はできません。

 日本が世界から尊敬されるためには、他国と真剣に議論をしなければなりません。話し合いの根本は、日本人としての誇りがあるかどうかということです。相手に真剣に向き合い、意見は意見として率直に述べるべきです。多少ゴタゴタはあるかもしれませんが、100年後には必ずプラスになるという信念をもつべきです。

 たんに相手の意見を受け入れるだけでは、バカにされることはあっても尊敬されることはありません。海外の人々は、日本と日本人の考えを知りたがっています。私は、相手に辛口のことも言いますが、それが信頼関係を強めることになるのです。

 日本は、武力による国際紛争の解決を放棄しているわけですから、情報をできるだけ早く集めて分析し、まともにぶつからないようにしなければならない。つまり、ケンカをしないように危険を避ける知恵がなければダメです。しかし、残念ながら、ほかの国と比べて圧倒的に情報収集能力が劣っているのがいまの日本であると思います。


≪ どんなに偉い人でも血の通った人間だ ≫

 われわれ日本財団は、どこの国のトップと会うときでも、外務省にお願いしたことは一度もありません。すべてわが財団独自のパイプによって会っています。日本の元首相をオフレコで中国のトップに引き合わすこともあります。日本の大使が間に入って、テーブルを挟んでお行儀よく話をしたら、話が硬くなってしまいます。これでは、相手の心をつかまえることはできません。

 私どもの活動は、いかに官僚的手法や官僚の支配から脱却するか、その闘いの歴史でもありました。前例・平等主義を排し、柔軟かつタイムリーに資金を調達して、世界に日本をどのようにアピールし、存在価値を示すか。私どもは国益の一部を担っているという自覚のもとで、仕事をしています。

 例えば、日本の北朝鮮外交は、外務省も政治家も、朝鮮総連を窓口にする以外にパイプをもっていません。しかし、私は、独自の人脈で、金日成元国家主席にも会っています。会えば耳の痛いことでもなんでも、率直に意見を交換します。

 人はみな、相手によく思われたい、批判されたくないと思うものですが、日本の指導者に必要なのは、たとえ批判されて悪く思われようと、自分の信念で行動し、結果を出すことだと思います。

 政治家の訪朝団は、「マスコミ受け」だけで、なにも結果が出ていません。そこに、1つのポリシーなり哲学があればいいのですが、心が入っていない、たんなるパフォーマンスですから、なにをやっても繋がるわけがない。だから、私は、議員外交は批判的に見ています。

「たくさんの海外の要人と個人的な信頼関係を築く、その根本となるのはなんですか?」とよく聞かれますが、私はやはり、待っていてもダメで、意識的に人間関係をつくる努力をしなければならないと思います。

 役人は、外国に行っても短期間での交代を余儀なくされます。しかし、私どもは、10年、20年という長期的視野で計画を立案し、継続したお付き合いをしていますから、自然と相手との信頼関係も違ったものになります。中国や北朝鮮に限らず、世界中すべて、同じ人間が動かしているわけで、化け物がやっていることでも、神さまがやっていることでもないということを認識しておくべきです。

 世界中のどんなに偉い人でも、すべては血の通った人間です。女房には頭が上がらないとか、出来の悪い息子がいるとか、人間的な悩みをもっています。だれでも、最後は裸で死ぬのだから、ハートがあれば理解できる。要は人間対人間の会話や付き合いができるかどうか、というのが私の一貫した考えです。

 いわゆる超大国の冷戦構造が崩壊してから、地域紛争があちこち出ているいま、民間の果たす役割は非常に大きくなっています。対人地雷全面禁止条約も、もともと一民間組織が始めた仕事です。民間団体が、国際会議で超大国の代表者と同等の立場で論争する世の中に変わってきています。

 国民一人ひとりが、民間人として大きな役割を担っているのであって、政治家や官僚だけに外交を任せておくことではないと思います。そのときどきの政権を担当している者同士の形式的な付き合いでは、本当の情報を得ることはできません。いわゆる「葵の御紋」の威光だけで外交ができる時代ではなくなったのです。これからの外交は、民間の情報を多角的・重層的に吸収して、政策の中に生かしていく必要があります。だから私は、国対国の外交の重要な隙間を埋める民間外交を積極的に推進しているのです。

 例えば、カーターさんが米大統領時代、彼の出身地であるジョージア州プレーンズという地方都市に日本の経済人が殺到して、図書館をつくる資金を出すという話になりました。しかし、大統領を辞めたカーターさんが、いざ図書館をつくろうとしたら、資金がないから出せないということになった。そこで私が、当時の中曾根首相に頼んだら、レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係があるからと婉曲に断られてしまった。

 カーター政権が終わったから、「ハイ、さよなら」では、「日本は信用できない、嘘つき」と思われてしまいます。それが、時の政権に聞こえたら、後々の対日政策にも影響が出る。それでは困りますから、代わりにわれわれが出しましょうということで、力ーターさんとのお付き合いが始まりました。私たちは、率直な話し合いをして、ストレートにボールを投げ込んでいます。

 私どもは、ロシアに行っても、政権を担当していない人と付き合うことが多いのです。時の政権の人は、政府の人に任せておけばいいわけで、私は、日の当たらないほうの人と付き合う努力をしなくてはいけないと思っています。

 先ほど、人間対人間の付き合いと言いましたが、大切なことは、「義理と人情と親孝行」です。こう言うと、日本人そのもののように思いますが、いま、日本人に最も欠けているのが義理と人情と親孝行です。実は、海外の人々のほうが、義理や人情に厚いんですよ。そのことを教えてくれたのが、みなさんがいろいろな意味でよくご存じの父・笹川良一でした。


≪ 「清しか飲めない」から決断できた ≫

〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜
笹川陽平氏は、1939年に故・笹川良一氏(元日本船舶振興会会長)の三男に生まれた。62年明治大学政治経済学部卒業後、89年日本財団理事長に就任。アフリカの食糧増産運動、チェルノブイリ原発事故の被災児への検診など、日本と世界各国との関係を深めるため、独自の民間外交に力を注ぎ、2001年5月には、世界保健機関(WHO)のハンセン病制圧特別大使に任命された。
〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜

 父は、のちに不起訴になったとはいえ、戦争責任を問われたA級戦犯容疑者のレッテルを貼られたことで、その後の人生で数多くのいわれなき誤解や誹謗中傷を受けました。しかし、「些事逆らわず、また計らうことなし」と常に泰然としていました。あまりに泰然自若としているので、子ども心にその胸中をしばしば思ったものでした。

 父の後半生は、競艇事業の発展と日本財団(日本船舶振興会)を中心とする社会福祉活動、造船・海運の振興、世界規模でのフィランソロピー(博愛精神に基づく社会貢献活動)に費やされました。

 日本財団は、競艇の収益から今年は480億円の予算を計上して、さまざまな社会活動をしている団体やプロジェクトを支援しております。私は、おカネは稼ぐより使うことのほうが難しいことを知りました。浄財も巨額になればなるほど、そのおカネを生かす知恵が試されるからです。

〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜
 良一氏の死後、ご記憶の方も多いだろうが、莫大な資金をもつ日本財団の運営、そして行く末に、政財官はもとより、マスコミ、そして魑魅魍魎に至るまで大きな関心を集めた。
そうした泥沼ともいえる事態を収拾したのは、陽平氏の決断であった。給料なし、ボーナスと退職金なし、交際費なしの会長の座に作家の曾野綾子氏を迎え入れることで、事態は収拾したのである。
〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜

 父が衰え、父の後という問題が現実のものとなったとき、父の周りにいた人たちと対立したこともありました。私が、自分の保身を考えたら、彼らに対して妥協することもできたでしょう。実際、どんなに楽だったでしょう。しかし、それまで父が引きずっていた古い体質を払拭するには、いましかないと決断したのです。私自身、マスコミから叩かれ、世間から誹誇中傷を受けました。ただ一方で「その勇気には感服した」と共感してくださる方もおられたのです。

 おかげさまで、その後は国際機関にも信頼をされる民間団体へと脱皮できたのではないかと密かに自負しているわけですが……。

「人間なんて、すべて善人という人はいないし、どこか悪人の部分もないとダメ、いまは大悪人がいなくなったから、日本はダメになった」と曾野会長は言っておられますが、父のは、まさに清濁併せ呑む人でした。しかし、私は、清しか飲まないし、飲めない。だから、新しい財団の道を決断できた、そう思います。よくパーティの席などでいろいろな人とご挨拶をする機会がありますが、民間のお仕事をしている人には名刺を出しません。それぐらい巨額の浄財を扱うには気を遣わざるをえないのです。

 私にとって父は、父親というより人生の師でした。身びいきと笑われるでしょうが、草の根の人々、日本という国の行く末、世界の平和を思うことのみに生き続けたのが父だったと思っています。

 私は、父に甘やかされた記憶はありません。叩かれたことも、大声で叱られたこともありませんが、世の中で最も怖くて大きな存在でした。「ちょっと」と父に呼ばれると、緊張して、必ずトイレに行ってから居室に向かったほどです。父は、大きな目でギロリと睨むと、「学問などしなくていい。社会勉強はおれが教えてやる」と言いました。言葉のとおり、「勉強しろ」と言われたことはなく、どんなことがあっても学校から4時には帰ってこいと厳命されました。

 当時、父の自宅は来客が多く、私は朝起きると、飯炊き、車の掃除をし、お客さんの靴を磨いて、自分で弁当を詰めて学校に行きました。帰ってくると、洗濯、お客さんのシャツのプレス、台所の片付けと、早朝から夜中まで家の雑用をしました。そうした生活を続けていましたが、もともと勉強が好きではなかったから、働いていたほうが楽でした。

 父からは、挨拶の仕方、電話のかけ方、靴の脱ぎ方など、社会生活上必要なことを教えられました。かつてはどこの家庭でも、ごく普通に行われていたことです。特に、お手伝いさんには、明るく自分から挨拶するように言われました。また、演説の間の取り方、堂々とした姿勢で話し、絶対に原稿は使うな、目の位置は右から左、左から右と、一人ひとりの目をちゃんと見ながら、自分の心を相手に伝えるということを常に意識して喋らないといけない、立て板に水というのは、ただ流れているだけで相手の心には残っていないといったことを教えられました。

 よく親の背中を見て育つと言いますが、私にとって父親の存在は非常に大きかった。家庭の中で、生きた勉強をさせてもらったという気がします。社会の最小単位は家庭で、家庭がしっかりしていなければ、国も社会もうまく機能しません。それぞれの家庭が落ち着いて、平和であることが父親の最小限の役割だと思います。

 これはなにも、父権を振り回すということではなくて、父親としての存在感が大切だということだと思います。父親の存在を子どもたちに認めさせるのは、「男の背中」です。偉そうなことを言わなくても、おやじが子どもたちや女房の話を黙って聞くことから、父親を中心とした家族の会話が生まれるのです。

 私は父にものすごく厳しくしつけられましたから、その裏返しで4人の子どもたちは、ほとんど自由にさせています。でも隠し事はさせない。親子でなんでも話します。性の話もオープンなので、「うちのおやじとは彼女の話もできないのに……」と、よその子もびっくりしています。

 どこからニュースを得るのかわかりませんが、父親の仕事のことはよくわかっているみたいで、子どもの人生にとって1つの目標になっているようです。まあ、これは仕事で不在がちな私に代わって、家庭のすべてをみてくれている家内のおかげかもしれません。


≪ 活路は開き直りの精神から生まれる ≫

 私の父は、人の一生は、「飲んで、食って、して、寝て、垂れて、ハイおしまい」とよく言っていました。所詮、そうなのかもしれませんが、この言葉の真意は、「ハイおしまい」ならば、それまでの人生をどう生きるか、「飲んで、食って、して、寝て、垂れて」だけでよいのか? ということでしょう。

 父は、「人生は、生きた時間の長さではない、いかに生きたかだ」とも言っていました。人間に与えられた時間はそれほど長くはない。無為徒食すれば、なにも残らずに終わってしまう。自分の一生は1回きり、この世に生を享けた者は、平等に必ず死ぬことになっている。だからこそ、自らの信ずるところに向かって、精いっぱい生きていこうではないか、と言いたかったに違いありません。

 なかには、人より多くのおカネを儲けることが楽しみという人がいます。それも決して悪いこととは思いませんが、おカネを儲けることが目的になっているのはどうでしょうか?使わないおカネなんて三文の価値もない。目的もなくなんとなく毎日を送るというのも、楽しくない。

 父の影響で、私は若いころから、自分の人生を真剣に考えました。死というゴールに向かって、毎日、切瑳琢磨して、「社会のために尽くして、ああ、おれもよく頑張ったなあ、いい人生だった」と思える死に方をしたいと思ってきました。

 父は、生前、「世界は一家、人類は兄弟姉妹」というスローガンを掲げました。父は、常に20年、30年先をみていた。当時、グローバリゼーションなんていうことをだれが思っていたでしょう。偽善だ、売名だと批判を受け、「世界は一家、人類は兄弟姉妹」ならば、なぜ「戸締り用心、火の用心」と言うのだと嘲笑する人もいました。しかし、父はなんら意に介することなく、「世界は一家、人類は兄弟姉妹」を繰り返しました。これは、父が求め続けた理想だったのです。

 確かに、「世界は一家」であったらすばらしい。しかし、現実は、「世界は紛争の巷、人類は敵同士」です。冷戦が終わっても、世界のさまざまな場所で流血が続いている。人類の歴史は、戦争の歴史でもありますが、理想と現実の開きを1ミリでも縮めようとしたのが、父の一生だったという気がします。

 あまり知られていないことですが、父は、後半生のかなりの時間を「らい(ハンセン病)撲滅」のために費やしました。父が子ども時代、家の近くにらい患者の家がありました。好きな人と結婚することもできず、悲嘆にくれて行方不明になったことを知って、らい根絶の志を抱いた父は、戦後、治療薬「プロミン」をつくった石館守三博士と出会い、資金供与を申し出て、財団法人笹川記念保健協力財団を設立したのです。

 父は、信念である「世界は一家、人類は兄弟姉妹」を実現するため、病気、飢え、貧困といった人間の根本にかかわる悩みに立ち向かおうとしました。父は、どこの国に出かけても、らい病院へのお見舞いを欠かしたことがありませんでした。

 私が、らいの問題について数十年にわたって携わってきたのは、父の遺志を継いだということもありますが、人類始まって以来、どんな国に行っても差別と偏見を伴う病気はほかにない、という思いがありました。人から売名行為とか、ええかっこしいと言われようと、耐えて長くやり通す信念と勇気を私は父に教えられました。日本財団は、世界かららいをなくしたと言われるようになるだけでも、その存在価値はあったと思います。

 先ほども言いましたが、私は、常に全力投球で、最後にいい人生だったと思える人生を送りたい、ただそれだけです。なんにもない裸で生まれて、どうせ独り裸で死んでいかなければならないと思えば、なにも悲観することもない。政治が悪い、役人が悪いと言って逃げるのではなくて、人生なんてそんなものじゃないかという、この開き直りの精神があれば、活路は見いだせます。いい意味での開き直り、これが、いま、日本人に最も必要なことだと思います。
 

日本財団について  
ハンセン病とは?  
世界保健機関(WHO)が日本財団理事長笹川陽平をハンセン病制圧特別大使に任命  


日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation