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毎日新聞の4月7日付けの「日曜くらぶ」という欄に、最近の森繁久彌氏の肖像写真が出ていた。カメラマンの腕もあるが、実に見事なお顔である。髪も白髪、皺もしみもないとは言えないが、同じぺージに載っている今から40年前にアラブ風の衣装をつけて撮った写真と比べると、すばらしい気品と迫力を感じさせる。
私は森繁氏にほんの数回しかお会いしたことがないし、舞台もわずかしか見たことがないが、これだけの見事な顔を持つに至った俳優はそう多くはないだろう、と思う。
今年の5月で89歳。「テレビとか芝居は他人の生活だと思う」と淡々と体力のなくなったことを語られたと言うが、年老いて行くことはいわば道理であってこの上ない自然な姿である。自然を無視するととたんに見苦しくなるが、この顔を完成した秘訣のようなものがほんの一部語られていた。
「僕らの時分、生活が全部勉強だったですから。電車に乗っても、自分の目がどういう人を見ているかと意識しましたが、そういうものが、だんだんなくなって来たような気がしますね」
今の若い人たちによる芝居を見た時の感想である。
森繁氏の言葉を読むうちに、作家の生活にも似た面があると思った。電車からの景色を見る時も、通る人を眺める時も、一軒の家の前を通り過ぎる時も、とにかく観察し続ける。
誰でもいいのだ。眼に見える範囲にいる見知らぬ人の、靴の減り方、財布の出し方、パンの買い方、鼻のかみ方を見ることで、その人の生き方を想像する。塀の破れ目にも、1本の雑木にも、生活はにじみ出るものだから。
俳優さんの場合なら、後ろ姿に1人の人の歴史と生活を出すことが必要だが、それは何とむずかしいことだろう。ケータイを眺めてぼんやりと青春を過ごす若い人たちと違って、森繁氏は若い時から絞り取るように人間を見つめて来たとすれば、年取って人間の厚みに差がつくのは当然だ。
森繁氏は人生を盗んで来たのだ。お妾さんからも、魚屋さんからも、銀行員からも、官僚からも、落第生からも、生き方を盗み続けた。
しかし今の人たちは盗まない。親方の家に住み込んでその技術を盗もうともしないし、若い美容師も外科医も時間になるとさっさと帰ってしまうから、大先生のこつを傍らに立って見て方法を盗むということもしない。本を読んで他人の思想を盗むことなど、ほとんど皆無になったのである。
或るお葬式で、アメリカ製の長い車体のリムジンに乗っておられる森繁氏をお見かけした。これでは露地奥の女のところに密かに通われるには少しご不便だろうという気はしたが、氏以外にその車に乗ってふさわしい人はないという思いが深かった。
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