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================ 「豊饒」のデルタ「貧国」のデルタ ================
≪ 「氾濫原」に出かける ≫
ラマダン明けの雑踏のダッカに、2日滞在した。咳とくしゃみが止まらなくなった。異様な人いきれの下町、バスとベビー・タクシー(三輪のミニ・タク)の排気ガス、空中に舞う乾期特有の微少な土塵(砂塵にあらず)、そして羊のシシカバブの臭い。これらが複合して、目と鼻を刺激したのだろう。
ホテルの部屋に引き込もり、持参したLONELY PLANETの「Bangladesh」編を読む。「この国は名所旧跡はそれほどないけど、デルタ河川沿いの田舎はうっとりするほど素晴しい。空気はおいしい。ゆったりとした気分で、広々とした展望を楽しめる」とあった。「そうだ。デルタに出かけよう。咳も止まる」。そう思って、地元のNGOのバルアさんに電話した。「デルタに連れてってもらえませんか。遠いんですか。飛行機か、列車の便ありますか」。受話器の向こうから笑い声が聞こえた。「ダッカだってデルタですよ。地図見てごらんなさい。この国は、海に向かって三角に広がってるでしょ。それをデルタといいます。河が運んだ土で自然に出来あがった土地です。バングラデシュの国土の90%はデルタです。でも、あなたのおっしゃることよくわかります。明日、農村に出かけましょう」。
後刻ものの本で調べてわかった。この国はもともとはインドとネパールの土から出来あがっているといっても大げさではない。バングラデシュは、ガンジス、プラフマトラ、メグナなど大きな国際河川の最下流に位置している。3つの河川のベンガル湾河口へと流れる水は、1兆6000トン。といってもピンと来ないだろうが、日本の1年間の雨量の3.6倍だという。3つの河川の全流域面積に占めるこの国の割合は、わずか8%。そこに上流から水とともに流れ込んできたおびただしい泥で沖積平野が形成されたのだ。インドのアッサム地方からやってくるプラフマトラ川だけでも、年間、9億トンの土が運ばれてくるという。20万トンタンカーで、4500隻分もある。
モンスーン雨期(4〜9月)には、必ず洪水となり、乾期(10〜3月)には、水不足という川下国の悲哀を味わう。バングラデシュの水は気まぐれで大地を養なうが、ときには破壊もする。この国では農業地帯を別名、「氾濫原」という。
でも、いつも水が氾濫しているわけではない。一見、平坦に見えても、すべてが水に漬かったままではない。氾濫原には、標高1〜3メートル程度の凹凸がある。洪水が去ると、自然の沼や小川が出現する。氾濫した水が、栄養豊かな泥を運んでくれるので、豊饒の農地となる。
バウラさん夫妻の案内で、ダッカの南東25キロの古都、ショナルガオン(Sonargaon)をめざして、ダッカ・チッタゴン幹線をワゴン車で走る。「ハイウェイ」の名のつく、この国第一の主要幹線だが、舗装はしてあるものの穴だらけだ。
ハイウェイの両側には、氾濫原の田園風景が展開している。それこそ私の求めた「うっとりとするほど素晴しい」(旅行案内書)乾期の、水郷のたたずまいだった。
≪ “砂利のない川” ≫
その幹線道路は、氾濫原に砕いたレンガを積みあげて延々と築いた堤の上を走っていた。道路下の水田との標高差は2メートル。無数の小河川を渡る橋は、それよりさらに1メートル高く作られていた。ベンガル・デルタの農村で一番高いところにある建造物は、どこでも決まって橋なのだ。秋の稲の取入れはとうに終っていた。これから“冬の稲”の作付が始まる。我々が訪れたのは、その端境期だった。
菜の花畑が、広がっている。橋よりちょっと低いところに村落が点々と見える。木が生えている。長年の間に、人々の力によって作り上げられた“高台”だ。農道が見える、大小の池もある。溝もある。これはいずれも“人工の高台”の中にある。池の前には、土塀に囲まれた農家がある。土地を盛り上げ、つき固めた平面に母屋が建っている。女たちが泥と粘土をこねて壁を塗りたくっていた。
煙の立ち登る煙突が何本か立っている。「デルタの土は、陶器を焼くのに適しているのか」バルアさんに聞いた。「いや陶器のかまどじゃない。レンガの工場です。どの村に行っても、最低1つはある」と。何故、レンガが必要なのか。「ベンガル・デルタには、石がない。砂利もない。全部泥だから……」。そう言われてみると、バングラデシュの河川は、大きいのから、小さい溝にいたるまで、“砂利のない川”だった。だから村のあらゆる工事には、代りに、レンガを焼いて、それを砕いて使うのだ。
ほとんど干上がっている水路に、小さな竹の橋がかかっている。カボチャのツルをはわせた垣根がある。「カボチャは家畜のエサです」と。棚で囲った菜園がある。男たちは野菜を篭に入れて市場に運び、何がしかの現金を手に入れる。子どもたちが、池に腰までつかりながら、竹のワナで魚を取っていた。ゆったりと時が流れる。昨日までのダッカの喧騒がウソのような氾濫原の田園風景だった。
「我が黄金のベンガルよ。私はあなたを愛す。母よ、晩秋には豊かに実った大地に、あなたの美しいほほえみを見る。何と美しい風景、何とさわやかな木陰、何と深い慈しみ、……何と美しい川辺。母よ、あなたの言葉は、私の耳に天のもののように響く。何と素晴らしいことか……」。この国の国家の前半の引用だ。べンガル・デルタを讃えたタゴールの詩が、そのまま国歌に採用された。私の見た風景は、まさしく「我が黄金のベンガルよ」であった。
だが、その肥沃な土は、貧しい人々を限りなく引き寄せる。世界一の人口稠密国。国民の半分以上が1年に120ドル以下の暮しを余儀なくされる貧乏大国。それが「黄金のベンガル」のもうひとつの現実である。
≪ ゴーストタウンで考えたこと ≫
我々を乗せたワゴン車は、氾濫原の中の台地にあるゴーストタウン、ソナルガオンに着いた。ヒンドウ教の王が支配した中世の都で、「Sonargaon」とはヒンドゥーの「黄金の町」という意味だ。当時のベンガルは、イスラム化そして英国植民地化以前であり、人口も少なくそれなりに豊かで暮し易かったという。なぜここが「黄金の町」であったのか。ベンガルを流れる3つの大河川のうち、メグナ川とジャムナ川の交点で、さらにガンジス川の下流を結ぶ運河と結ばれる水上輸送の交点だったからだ。この地域の特産物であった綿花や、インド藍で染められたモスリン綿布が、はるかエジプトまで出荷される内陸の大輸出港として栄えていた。
ソナルガオンはまさしくゴーストタウンで、ヒンドゥー教の卒塔婆(ストーバ)、モスクなどがかろうじて残っている。そのほかの建物の大部分は、バングラデシュが貧しくなって以降、人々が生活の糧とすべくレンガ作りの建造物を解体し、建築用のレンガとして売り飛ばしてしまった。それらしき土台の跡だけがかろうじて識別できた。
この国の貧しさは基本的には、人口過剰によるものだ。いまでも人口は爆発的に増加している。ヒンドゥー教、仏教、キリスト教といったこの国の宗教的マイノリティの人々にいわせると、「イスラムの教えが人口増加をうながしている。ムスリムとヒンドゥーを比較すると、ムスリムの人口増加率は高い」とのことだ。いわれてみれば、たしかにその通りで、ムスリムは離婚再婚が自由、ヒンドゥーに比して配偶者選択の自由がある。夫婦の年齢差が小さい??など出生の確率はたしかに高いのだろう。
だがこのことは、ムスリムが、「貧乏人の子沢山」であることを意味しない。イスラムの人々は、この国の商業や高級官僚の地位をほとんど独占しており、「お金持ちの子沢山」なのだ、農民も、ヒンドゥーよりも、相互扶助的な共同体組織を持つイスラム農民の方が子どもは多くても相対的に豊かだといわれている。
この国の経済をひと言で表現すれば「豊饒のデルタの中の貧困」である。豊かな河川の流域とはいえ、養える人口にも限りがある。増え続ける人口を養い、貧困を克服するには、最低でも8%の経済成長が必要だ。世銀とIMFの推計である。それには工業化しなくてはならない。だが、そのメドは立っていない。
帰国後、独立直後のバングラデシュに、アジア開発銀行の担当官として、駐在したことのある藤井保紀さんの話を聞いた。「あの頃、輸出の主力商品は、ジュートでした。せっせと稼いだ金を西パキスタンが取り上げ、軍隊を整えた。その軍隊を派遣して、東パキスタンを弾圧した。こういう不条理をベンガルのコトワザでは、“豆ガラが豆を煮る”という。独立直後、インドに新しい紙幣“タカ”の印刷を依頼した。1億5000万タカ頼んだのに、インドは2億タカ刷って差額をネコババしたというウワサもあった。貧乏神にとりつかれているのかなあ」と。
「母(黄金のベンガル)よ。あなたの表情が悲しみに満ちると私の目にも涙が溢れそうになる」。前出の国歌の結語の部分である。この国の悩み「貧困」の根は深い。
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