共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 悪事?なぜ人は恐ろしい事をするか  
コラム名: 自分の顔相手の顔 507  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 2002/02/26  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   人間が悪事を働くことを肯定するわけではないが、私は人間が貧しいとどういうことをするか、という話を読んで強く身につまされることがある。というか、逆から言うと、どうして人がそんな恐ろしいことをするのだろうかと思って話を辿って行くと、最後には貧困につき当たるということがあるのである。

 南ロンドンのパーラムにある聖ルカ教会の中の草むらに1人の男が倒れて死んでいた。

 しかしこの男は誰なのかわからなかった。発見されたのは午後1時半。その時遺体は既に24時間を経過している、と思われた。この近所の人が気分が悪くなって倒れたのか、誰かの車に乗せられてここまで来て、車を下りたとたん力尽きたのかもわからなかった。

 彼は黒人、20歳から30歳くらいの間、着衣の詳しい報告があるが、衣服には特に変ったところはないらしい。強いて言えば、彼は腕に深い山刀の傷痕があり、顔にも傷があった。

 彼は靴をはいていなかったが、遺体がそこに投げ捨てられたとは思えないのは、実は彼の体自体が大変価値のあるものだったからである。彼は50個のコンドームに詰めたコカインを飲み込んでいた。約500グラム、4万ポンド(約780万円)の価値がある。死体といえども密売人たちは捨てるわけがないのである。しかし死因はまだ正確に確定されたわけではなく、50個の袋のうちの1つからコカインが洩れて、それが原因になったのだろう、と推測されているに過ぎない。

 もし生きて無事にこのコカインを届けていれば、彼は報酬として、1000ポンド(20万円)を受けとっていたはずであった。これだけの危険を冒してわずか20万円である。

 その報酬にあき足らず、彼が途中から逃げ出して、腹中のヤクを一人占めにしようとしたのではないか、と私は思った。そうすればたった20万円の報酬が780万円になるのである。

 しかしミュール(ラバ)と呼ばれる運び屋たちは通常厳重に見張られていて、逃げ出すような機会はほとんど与えられていないのだという。危険を冒して1回だけ麻薬組織から逃げ出せば、その金をもとに、ヨーロッパで新しい生活に踏み出せる、と彼らは思うらしいが、その望みもなかなか叶わない。

 「包装の仕方が悪いと、今後もこういう事故は起る」

 と当局は見ているという。僅か20万円のために人は命を失うのである。
 



日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation