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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: ポンペイ島で思ったこと(下) ナンマドール遺跡を訪ねて  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2002/02/26  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   先日、ある会合で「ポンペイに行ってきた」と言ったら、「ああ、あそこね。俺も行った。ナポリから近いよね」との返事が戻ってきた。

「ポンペイ」と言えば、おそらく10人のうち9人は、イタリア南部の古代都市、ポンペイを連想する。AD79年、火山の噴火で埋没し、その遺跡が18世紀に発掘された有名な観光地だ。イタリア語でPompeiiと書くが、こちらのアルファベットの綴りはPohnpei’「石造りの祭壇の上」との意味で、イタリアのポンペイとは縁もゆかりもない。

 だが、この島にも知る人ぞ知る素晴らしい遺跡がある。

 ここはミクロネシア連邦(4つの島からなる)の首都のあるポンペイ島(人口3万8000人)。そこにある遺跡の名はナンマドールという。持参の旅行案内書には「水上都市の遺跡・太平洋のベニス」とあった。だが、そういうステレオタイプの表現はおよそ似つかわしくない。そこは南洋のヤシの木の島が形成した、独自の巨石文化の壮大な遺跡だったのである。


≪ 始めに火山の噴火ありき ≫

 ポンペイ島滞在の2日目、ナンマドールに出かけることにした。この島で最も涼しいといわれる岬の先端にあるわれわれ一行の宿泊先ヴィレッジ・ホテルとは反対側の島の南に浮かぶ人工島である。財団の助成先でもあるポンペイの職業訓練学校まで、車で南下し、そこから船外エンジン付きのボートで、遺跡を目指す。同行者は、この島で25年も布教活動を続けるフランシス・へーゼル神父、そして南の島々への出張旅行50回以上の記録を持つ早川理恵子さん(笹川島しょ国基金主任研究員)らだ。

 マングローブが島を縁どるように生い茂る浅瀬をゆっくりと進む。マングローブの気根の間には、逃げ足のめっぽう速いマングローブ蟹が住んでいる。この蟹は珍味だ。パラオで試したことがある。数ある蟹の中でも、「一に毛蟹、二にマングローブ、三、四がなくて、五に渡り蟹」。ボートの中で、私の“渡る世界”で味わった各地の蟹の美味の番付を披露したら、「ポンペイでは一番のゴチソウだ」とのこと。夕食会のメニューはマングローブ蟹に決まった。

 ポンペイ島は、3キロほどの沖合いを、幅200〜300キロほどの珊瑚礁(Coral reef)に囲また火山島だ。珊瑚礁の外側は、太平洋の荒波が白く砕けているが、内海は穏やかで、しかも浅い。この種の珊瑚礁のある火山島は、南太平洋にはそれこそゴマンとある。だがポンペイは珊瑚の防壁(Barrier reef)に、ほぼ完全に囲まれた標本のような島だった。

「こんな島や珊瑚礁がどうやって海中に誕生したのだろう」。にわかにそんな探究心が涌いてきた。船外エンジン付きのボートで走る内海から見た虹色のバリア・リーフと、緑のマングローブの森のコントラストの美しさが私をそんな気持ちに駆り立てたのである。「そもそも、初めに火山の噴火ありきでしょう」。南の島通の早川さんが、早速応じてきた。後刻調べてわかったことだが、島を外海から守るバリア・リーフのドーナツは、噴火によって突如、海底から隆起した火山の作品であった。

 だが、その過程は、ちょっとややこしい。島ができると、島沿いに珊瑚が繁殖する。珊瑚の死骸が石灰化し、島の周りに円型の浅瀬ができる。このあと島そのものが、ゆっくりと沈下する。円垂型の火山が沈むのだから、海面上の島の直径が小さくなる。島が小さくなった分だけ、島の囲いにあった円型の珊瑚礁と新しい海岸線との間に隙き間ができる。その結果、円型の珊瑚礁は、島を遠巻きに囲むバリア・リーフとなり、隙き間は、内海、つまりラグーン(礁湖)となる。


≪ 岩はどこから運ばれた? ≫

 ほとんど静水に近いラグーンの内海を行く。やがて人気のない人工の島々が見えてくる。島そのものが、巨石建造物であり、島と島の間を道路のように幾筋もの海面がつないでいた。碁盤の目のように見える町並み、いや“島並み”もある。ポンペイ州観光局のくれたガイドマップを開いたら、こんな奇妙な人工の島が92もある。海底は浅く、水路は狭い。ボートは、ゆっくりと進む。

 この奇妙な島。というか、建造物の構造がはっきりと見えてきた。黒っぽい五角、もしくは六角の玄武岩の太い柱を深さ約1メートルの珊瑚の化石の海底から、井ゲタに組んで水面から1〜2メートルの高さまで積み上げてある。それが島の外壁なのだ。外囲いの中には、砕いた珊瑚を敷き詰めて、平らにしてある。こうして建設した島々は大きいものは100メートル四方はある。それぞれの巨石の柱が、よほど精密に組み合わせてあるのだろう。何世紀にもわたる嵐や海水による被害を受けた形跡がほとんどない。

 それにひきかえ、完成後数年で早くも大地盤沈下の始まった人工島、関西空港は何たるざまか??。ナンマドールで、それを考えたのである。

「Mr. Utagawa.この玄武岩の柱は長さ8メートル、重さは2トンはある。どうやって運んできたと思うか」。へーゼル神父に声をかけられ、「ナンマドール」と「関空」の“施工者”のどちらが賢いのか較量は中断した。

「アルキメデスの原理さ。ヤップ島の大石貨、知ってるだろう。あの原料はパラオ島だ。ヤップの住民は、巨石をロープで海中にぶら下げ、イカダで運んだ。それと同じさ」。とっさに私はそう答えた。

 この摩可不思議な人工島の建設が始まったのは、AD500年頃だという。ポンペイ島には岩肌が角柱の形状で露出している豊富な玄武岩があり、わざわざ柱状に削る必要はなかった。謎はあの当時、どうやってそれを輸送したか??なのだ。へーゼル神父は言う。

「私も1度はそう考えた。でも、このあたりのラグーンの水深は、1メートルから2メートルしかないよ。ロープで海中に吊るすのは無理だ。そんなに重い石を直接カヌーに乗せたら、確実に沈んでしまうしね」

「では、どうやって運んだのか」。「実は私にもわからない。伝承では、岩はマジック・パワーで空を飛んだことになっているが……」。


≪ レストラン「入れ墨」での会話 ≫

 考古学チームの放射線炭素の分析によると、ナンマドールの石の島は、6世紀から16世紀まで約千年かけて建造されたものだという。

 何のためなのか、今もってそれがはっきりしない。ヨーロッパ人がこの島にやって来たとき、ナンマドールには人間は1人もいなかった。

 この島の最初のヨーロッパ人は前号でも紹介した1830年にここに漂着したアイルランド人の船乗り、オコンネルだ。

 へーゼル神父の話では、彼は、この薄気味悪く棄てられた遺跡に足を踏み入れ、「途方もなく素晴しい」と思った反面、恐ろしくて震えが止まらなかった??と回想しているという。

 何のために建てられ、そして誰もいなくなったのか。その夜、宿舎のHotel the Village「レストラン・入れ墨のアイルランド男」で、この話題を酒のサカナにしたのである。この「入れ墨男」こそ、ナンマドール遺跡の白人としての第一発見者、オコンネルその人であった。

 ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見以来、ヨーロッパ人が南の島々にやってきて、その多くを征服した。「Gun, Germs & Steel」という文化人類学者の著書を読むと先住民の持っていた文化破壊は「銃と細菌」によって行われたとある。ヨーロッパ人は天然痘やハンセン病をもってきたが、島の住民たちは免疫が全くなく、バタバタと死んでいった。

 ポンペイ島の人口は、1820年には1万5000人だったが、55年には3分の1の5000人に減った。

「だけど、ナンマドールが無人化したのは、それより100年以上も前らしいから、遺跡に関しては、ヨーロッパ人はアリバイが成立する」

「その通り。ヨーロッパ人は犯人ではない。そんなことより何のためにナンマドールの人工島が建設されたのか、それさえ詳しいことはわかっていない」。へーゼル神父は言う。観光案内書によると、92の島々には、それぞれ王の住居、儀式の島、聖職者の墓、来客用のゲスト、召使の住居、海からの外敵を防ぐ要塞など異なる目的で建造されていたとある。

 王とその家来だけが常住し、民衆はカヌーでここに通っていたともいう。総面積は、1200メートル×600メートル、面積70ヘクタールの謎の巨大な埋立てプロジェクトだ。

「崇りが恐ろしい。だから島の人間はここには足を踏み入れない」。マングローブ蟹の大皿を運んできたポンペイ人のウエイトレスがそう言った。ポンペイがドイツの支配下にあった1907年、ドイツの総督がナンマドールの墓の1つを発掘した。ところがこの総督は遺跡から戻った直後、変死した。病名は「日射病」という公式発表があった。だが、誰一人それを信じる島民はいなかったという。
 

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