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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 私はゴリラではない  
コラム名: 私日記 第27回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2002/03  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2001年11月22日

 財団の1階の一部に、知的障害者たちが働く「スワン・ベーカリー」がオープンした。午前11時、小泉総理大臣と、同じご町内にあるアメリカ大使館からベーカー大使夫人がテープカットに来て下さるとのことだったが、ご主人の大使もいっしょにお見えになった。この企画は、「クロネコヤマトの宅急便」の創始者である小倉昌男氏が、障害者にも、一人前に近い給与を払いたい、という希望で企画されたものと聞いている。朝7時から夜8時まで営業するというのはみごと。小泉総理とは、以前まだ総理になられる前にオペラでお会いしたことがある。障害者の店に激励に来て下さるというのは、総理という立場の体質に、いささかの変化があったように思う。お客さまが帰られた後の店のカウンターの上に、誰が下さったのか持ち込んだのか、「純ちゃん人形」が1つ置かれて愛矯を振りまいていた。

 終って各部の来年度の予算方針の説明を一部聞く。夕方『週刊ポスト』編集部の方たちと「シエ・イノ」で会食。


11月23日

 朝8時赤坂のTBS着。「大沢悠里のゆうゆうワイド」の生放送。

 毎日新聞政治部からファックスで、国立追悼施設を作る問題について質問が来ていた。1985年、後藤田官房長官によって集められた靖国問題懇談会の私はメンバーの1人で、その時、私の個人的な答申を書いている。その時から気持ちに変化はない、という答えをした。今度また懇談会が設立されるという。何度なさろうとそれは自由だが、何度すればいいというのか。靖国問題になると、無神論者までが魂があることになり、神は遍在すると信じているキリスト教徒まで、靖国には神はいないはず、だと言う。すべての人が、自分の信念に立ち返ることだ。

 昼過ぎ銀座のヤマハホールで全国公私病院連盟主催の「第13回国民の健康会議」で講演。その後、聖路加国際病院に鶴羽さんを見舞う。


11月27日

 午前中の執行理事会の後、電光掲示板の編集会議。11時、広報インタビュー。午後1時、かなりの人数の方が集まってくださって財団が主催する「トイレ・フォーラム」が開かれた。誰でも、どこでも使えるトイレの開発普及を目指すという。大いに結構なことだ。

 7時少し前から、財団の秘書課と私のうちの秘書とで、ホテルオークラの「桃花林」で会食。気楽なおしゃべり。


11月28日

 夜ひさしぶりに、吉村作治先生の経営される「パピルス」というエジプト・レストランで尻枝正行・毅のご兄弟神父と、孫の太一も加えて頂いて会食。

 正行神父は、お体の具合が大分よくなられ、間もなくローマ教皇顧問の仕事に着任されるらしい。私もそうだけれど、若くなければ、少し無理をして働いてもいいのだ。


11月29日

 午後1時から安田生命ホールで海外子女教育振興財団30周年の講演会。

 その後日本財団で国際部の案件説明を聞く。

 4時、海上保安庁縄野長官。

 夜7時半から板橋区医師会の主催の講演会。成増駅前の成増アクトホールで。


11月30日

 昼過ぎ、都庁へ。『諸君!』新年号のための石原慎太郎都知事との対談。私「初めに1分だけ、仕事をさせてください。小笠原に飛行機ではなく、高速船を配備してくださるお考えのようで、ありがとうございます。あのテクノ・スーパーライナーはうちの財団も7年間で42億円出して、開発のお手伝いをしたものなんです。うちとしては、それが実用化されるかどうかについては、全く何1つ口を出さないことを守っているんですけど……でもやはり使って頂けると嬉しいです。研究した人はもっとでしょうけど。でも石原さんは、うちが開発してたということも知らなかったでしょ」

 こういう口調が、昔なじみ、ちょっと年上をかさに着た嫌な感じ。後は小悪人はコマル、大悪人がいい、しかしなかなか出ない、という話。最後に、

「これから、あなたのガール・フレンドをお訪ねするのよ」と笑って辞去した。その通り、国土交通省に扇大臣を表敬訪問。大島の着物をきれいに召しておられた。部下の功績を褒められて、ここは話に聞く外務省とはかなり空気が違う。

12月1日

 聖心女子大学の同窓で海外邦人宣教者活動援助後援会の運、営委員の1人でもある佐藤恵美子さんと、私と、日本財団の森啓子さんとで、一足先にシンガポールに向かう。明日、日本を発つ本隊とシンガポールで合流して、南インドの不可触民とヒンドゥ教徒以外の宗教の人たちの実態調査に入る。定刻通り着いて、ナッシムヒルのマンションの我が家着。夜は3人で、私の行きつけの広東料理に行く。湯葉の揚げたものを北京ダックの代わりに使ったお精進料理が評判いい。


12月2日

 朝マンションの前の大木に、オオサイチョウの「ジャック」がばさりという大きな羽音と共に飛来。ジャックというのは私たち夫婦が名付けたあだ名だが、羽を拡げると2メートル近くある鳥が、野鳥として生息しているのを2人に見せられただけで嬉しい。

 今回の南インドの調査は、次の2ヵ所のプロジェクトが申請通りに行われているかどうかを調査するのが目的である。

(1)場所 ムンドゴッド(バンガロールから北北西に約400キロメートル)
   事業 日本財団から寄宿舎5棟。
      海外邦人宣教者活動援助後援会から2階建ての校舎1棟と寄宿舎1棟。

(2)場所 ビジャプール(バンガロールから北約570キロメートル)
   事業 海外邦人宣教者活動援助後援会から、校舎1棟。

 ムンドゴッドは名前が地図にも出ていない田舎町。ビジャプールは日本人など行かない汚い工業都市。事業を引き受けているイエズス会の神父たちといっしょでなかったら、とても入れないところである。ビジャプールは不可触民の子供たちのためだけの学校。他の子を入れないのではない。最下層の子供たちを嫌って、それより上級カーストの子供たちは入って来ないからである。ムンドゴッドはジプシーや、アフリカから奴隷としてゴアに連れて来られた人たちの子孫など、いずれにせよヒンドゥ社会に編入されない人たちの子弟を教育する学校。バスもなく、お金もない人たちは、子供を4キロ以上は歩いて学校に通わせられないから、学校を建てると寄宿舎も同時に建てることになる。

 今回の調査旅行の目的には、インドと日本のそれぞれの人権問題について考えて頂こうという意図が含まれているので、団長は東京都教育委員の米長邦雄氏。他に群馬県総合教育センター指導主事の饗庭敏彦氏、東京都教育庁社会教育主事の小堀雅夫氏、東京都教育庁指導主事の木下光彦氏、横浜市教育委員会同和教育担当課長の橿渕哲男氏、フリーライターの角岡伸彦氏、全トヨタ販売労働組合連合会広報局部長の藤原敏宏氏、産経新聞社から小泉麻子さんと竹村明氏。日本財団からカメラマンをいれて6人。他にリサーチ・アンド・ディベロップメントという事業評価会社から立川勇夫氏。日本財団の事業がどれほど有効かどうかを同時に評価してもらおうとして同行する。こういう会社を使う時、アメリカでは、通常社長に媚びて「お宅の投資先は確かに有効でした」という答えを出して来るところが多いのだというが、うちはへそ曲がりが多いから、こちらに見えていなかったものを洗い出して来て貰わないと、評価会社を使う必要がない、という発想である。

 夕刻、シンガポール空港で落ち合い、時間がないので、空港の食堂でラクサ(ココナツ味の麺)などを食べてから飛行機に乗り込んだ。

 深夜、バンガロール着。イエズス会のロッシ神父に会い、アシルヴァドの宿泊施設に行く。3日は昼頃までフリーにして眠ることにした。


12月4日

 バスで、朝バンガロールを出発。間もなく故障。ブレーキドラムの中が焼けて悪臭がしている。ドライバーが車の下にもぐって奮闘するのを道端の猿が集まって来て見物する。猿も退屈しているのだろう。しかし自動車というものは、多分途中で故障する、と思うのも、日本人に欠けている1つの感覚。これでインドヘ来たかいがあったか?

 夕暮れの中で、ムンドゴッドのロヨラ・スクールに到着。これだけの人数でどこへ泊めて下さるのだろうと思っていたら、日本財団が建てた新しい寄宿舎(コテージと呼んでいるが)2棟に、それぞれ男性と女性とに別れて泊まることになった。その間生徒たちは、学校の教室で寝泊まりしてくれる由。人を追い出しておいて勝手を言うわけではないが、こうした寄宿舎ができる前は、生徒たちは長い間教室に寝ていたのだ。どんな暮らし方もできるように訓練しておくのが教育でもあるのだが、日本ではとてもそういう理論は口にできない。

12月5日

 朝6時少し過ぎ、夜明けの光の中を寄宿舎から、学校の建物へ行く。女子生徒たちが、運動場を走っている。

 6時45分から大きい教室でミサ。

 私が打たれたのは、子供たちがまだ暗い中から、ミサに集まって来ながら、決して教室の中では私語しないことである。小さい子供ほど前に坐る、という不文律もきちんと守られている。そしてミサは、ロニー神父とロッシ神父との2人で、時々は子供たちに語りかけるような口調で進んで行く。音楽は太鼓。大きな花瓶かと思ったら太鼓で、これは体の大きな男の子が叩いている。

 500人のロヨラ・スクールの生徒のうち、カトリックは72人、イスラムが20人、低カースト・ヒンドゥ(つまりドラヴィダ系不可触民)がいくらかいる、という。普通のヒンドゥなら決して社会的に自分たちより身分が低いと思われている非ヒンドゥの子供たちとは同じ学校に入れないのが普通だが、恐らく経済的な理由からだろう寸こうして例外も出るわけである。

 午前中は村で、ホステルと呼ばれる小人数の子供たちの小さな合宿を見る。大体10歳くらいまで、12、3人から20人くらいの子供たちが、14畳から20畳くらいの土間の一間に、昼は授業の補習、夜になると薄縁を敷いて男子も女子もいっしょに雑魚寝をする。トイレも風呂場も、机も椅子もない暮らしだが、家でもそんな設備や家具はないのだから、むしろアット・ホームな暮らし方であろう。電気はある村もあり、ない村もある。他に舎監の先生用の小部屋と、裏に御飯を作るための土竈をおいた炊事場がある。そこから煮炊きに薪の匂いがするのは、後になって思い出しても懐かしいものだろう。

 裏庭で、結婚の決め方に関して話を聞く。14歳以下の幼児婚は今でもある。同じ部族か、同じカーストの中で結婚を決める。

「夫より先に死ぬのは幸福」という常識もあるという。再婚は禁じられているし、寡婦は村の祝い事や結婚式などには招待されない。

 昼食の後、ロヨラ・スクールの全校生徒が集まった校庭の歓迎会に出る。入り口で女子生徒から、燃える火皿で清められ、額に赤い粉で祝福の印をつけてもらう。たくさんの踊りを見せてもらった。米長先生がチェスのチャンピオンだと聞いた時、子供たちの顔が輝いた。

 休憩の後、夕暮れの村へ行く。一間だけの泥の家で目立つのは、ぴかぴかに磨かれたステンレスの食器。それだけはお嫁入りの時に持って来て、一生大切に使うのだろう。

 フランシス神父はムンドゴッド付近の村々で社会福祉事業のディレクターをしているが、洗い晒しのシャツにサンダルばき、ボロボロのカバンを肩に掛けた髭面なので、村の顔役と間違えた佐藤恵美子さんは「お子さんは何人ですか?」と聞いたそうだ。


12月6日

 8時、ビジャプールに向けて出発。ところどころに綿畑とひまわり畑。

 今日は休息の時、途中の村でザクロを買って食べた。子供の時食べた日本のザクロは酸っぱくてこんなにおいしくはなかった。

 ビジャプールに近づくと果たしてブタが道端を歩いているようになった。ゴミを食べてくれる「スカベンジャー(汚物処理者)」である。ただし放し飼いのブタにもちゃんと所有者はいる。

 セント・アナ教会の附属の建物に泊めて頂く。ここでも太陽熱を利用した温水が出るという賛沢。


12月7日

 海外邦人宣教者活動援助後援会からの2700万円で買ったロヨラ・ヨミウリ・スクールは昨年より更に整備されていた。私たちが気にしていた有害なアスベストの屋根も、雨漏りがひどくなったのが幸いして、トタンに葺き替えてあった。やはりほっとする。

 午後はスラムを訪ねる。とにかくどぶはあっても、飲める水のない所だ。千家族で井戸は2つだけ。今は他に10から15の水道栓があるが、出るのは5、6日に1度だけ数時間という状態である。それもいつとはっきり決まっていないので、女たちはプラスチックの水瓶を持って長い時間順番待ちをし、時にはケンカになったりする。

 トイレはスラム中のどこにもなくて野外で済ませていた。とは言っても、小屋と小屋との間もくっついており、道幅もほんの2、3メートルと狭いところもある。いちいちどこかまで遠征しなければ用が足せないはずだ。2年前からやっと共同トイレができたが毎回50パイサ=1円強を払うせいか、人影はあまりない。水とトイレの不自由なことは、私がこの町の住人になれば、一番堪えるところだろう。弱いものだ。


12月8日

 早朝出発、星空、しばらくして夜明け。(後で知ったことだが、この頃、鶴羽伸子さん帰天。壮麗な夜空の星々をかき分けて、神の国に向けて旅立ちをしたか)

 夕刻、バンガロールのタジ・レシデンシー・ホテルに帰着。

12月9日

 近隣の村、アネカルに向かう。ひさしぶりでそこの責任者フラソキー神父に会う。不可触民の村と、ランバーニ(ジプシー)の村をそれぞれ訪ねた。高利貸しは年利息240パーセントを取る、という話をしていたら、まさにその1人という男に会った。チョビ髭を生やしてスズキのオートバイに乗って、絵に描いたようにずるそうな顔をしている。そうした男と対抗するために、神父は村の、主に婦人たちを相手に、グラミー・バンクのようなシステムを始めた。こちらは月2パーセント、年24パーセントの利子である。ほとんど100パーセントの人がお金をちゃんと返す。

 子供の学資のために1000ルピー(1500円)溜めたいという人あり、一方4000ルピー(2万1000円)で牛を買った人もいる。1150ルピーという貯金の残高を記した通帳をおずおずと見せてくれる主婦もいた。

 夫に殴られる妻はごく普通とのこと。

 2番目に訪れたランバーニの村では、アネカルのフランキー神父のところにいた背の高い生徒の家に行った。窓もない一間きりの家は寒いはずだ、と神父は言う。母は寡婦。息子を寄宿舎に出しているので、1人でこの冷たい泥の家で生きているわけだ。息子に執着して当然だし、果たして将来、息子を自由に手放せるのだろうか。神父はこうした生徒たちに教育を受けさせて、エンジニア、ドクター、弁護士、看護婦、教師などにしたいのである。

 海外邦人宣教者活動援助後援会は新しく男子30人用、女子45人用の寄宿舎を建てるお金(約1250万円)を送ったところだが、その建物が建つはずの土地を、帰りに神父たちは見せてくれた。


12月10日

 寒い。朝5時にバンガロール空港を発ち、昼近くシンガポール着。ホテルに入って休んだり観光に行ったりするグループと別れて、佐藤恵美子さんとナッシムの家に帰る。鶴羽さん死去の知らせがファックスに入っていたので、しばらくその紙を前に坐り込んだ。

 私は体調が少し悪い。しかし皆さんと最後の食事は、空港に近い東海岸の「ビッグ・スプラッシ」というレストランで、茹で海老、スンホクという魚の清蒸し、チリ・クラブ、カイラン(小さな菜っ葉)のいためもの、焼きそば、ヤムとタロ薯のふかしたものなどで済ました。空港へ行く組を見送って、私と佐藤さんはナッシムに帰った。


12月11日

 昨夜の間にインドの疲れが出て、胃袋がひっくり返った。佐藤さんに「これで、私はゴリラではなく、人間です。なんでもないあなたはゴリラです」と言おうと夜中のうちから科白を考える。1日食欲なく、せっかく佐藤さんに思うさま安いシンガポール料理を食べさせようと思ったのに、景気はなはだ悪い。私1人マンションでひっくり返っている。しかし快い休息。一行無事で帰着したら、ロッシ神父にとにかくEメールで報告するように頼んでおいた。それも叶えられて深い感謝。


12月13日

 佐藤さんと帰京。午後マッサージを受ける。


12月17日

 3日休んで、今日から日本財団に出勤。私がお腹を壊したことはもう知られていて、ガードマンさんまで「体悪くされたそうですね。大丈夫ですか」と聞いてくれる。思いなしか私が怪我をしたり病気をしたりすると、皆嬉しそう。これ、年寄りのヒガミなり。しかしとにかく、私はゴリラではなかったのだ!

 11時、日本財団評議員会。

 1時から2時まで電光掲示板会議。

 3時、外務省大臣官房総務課・谷崎課長。

 3時半、聖ヨハネ会のシスター・岡本。

 4時、ソニー愛甲顧問。

 6時半から、笹川陽平理事長、三浦朱門と共に赤坂の中華料理店で、前ペルー大統領フジモリ氏、令妹のアリトミ夫妻と会食。大変な1年でいらっしゃいましたね、という話。しかし大変お元気。首にかけていらっしゃる豪快なお数珠のようなものは何ですか、と朱門が尋ねると、マイナス・イオンを出す鉱物だそうだ。科学的な頭のない者は、それがどういい効果があるのかよくわからない。しかし氏の元気の元は、ここにもあるのかな、と思う。
 



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